聖書を読み違えている理由はローマ帝国が作った神の教えを破棄した宗教が原因 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、と思って

はならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

 5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、

一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

 

預言書、諸書、トラーを破棄するために来たのではない!と

はっきり書いてあるのに、この箇所を、クリスチャンは、律法

トラー=神の教えが廃れたと書いてあるという、聖書に書いてもない大矛盾を教え込まれているのです。

聖書の事実とは異なる歪んだ聖書解説が、堂々と横行してしまって

いるのです。

不思議に思ってください。この箇所、神の教え、トラーが廃れた!

などと書いてもない。

トラーを間違った理解、解釈をし、ズレたことを生きること、

それがトラーを破棄している!という慣用句なのです。

事実、イエシュアは、父の教え、トラーを神の意図通りに教えるために来たと言っているのです。

そして、成就とは、神の意図した通りを、教え、それを実際に生きることなのです。歪んだ聖書解説が、クリスチャンの間に浸透して

ねずみ取りのトラップと同じ、粘着剤のように偽の教えが、

こびりついて、それを拭い去るのが困難な状態なのです。

書いてあるのに、その通りに読んでない!!!

次は、神の教え、トラーに対して、神の教えを捨てよ!という人たちに対しての、イエシュアからの直接の警告です。

 

マタイ 5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも

破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 

聖書を教えるはずの教師が、神の教えを破棄し、終了、関係ないと

いう教えを、堂々とメガフォンを通して大声で皆に拡散し続けて、

父の教え=イエシュアが教えられたことに、真っ向から否定、

違反し、反撃し続けているのに、全く気が付く余地もないのです。

神の言葉に反する、違反する、イエシュア=聖霊に直に反撃している行為であるとも、全く気がついていないのです。

教えられて来た西洋宗教の教えに基づき考えて、聖書に書いてある

事実に注意を払わず、神の言葉の事実に気がつかず、事実から考えない場合は、神が伝える永遠の真実、事実に、気がつけないのです。

 
ガラテヤ 3:15 兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言おう。

人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、これを無効にしたり、

これに付け加えたりすることは、だれにもできない。

 

人の契約や遺言、伝言でも、変えられないのに、まして、絶対であり

完全無欠、永遠普遍と神が言われた言葉を、ローマの冒涜に倣って

その偽物の教え、思想、教理、哲学を継承し続けているのか?

それは、馴れ合い、聖書に基づき、正しく考えていないからです。

 

前回の続きです。

7つの群れに記されたヨハナンの手紙は、アポカリプスという

第二神殿時代のジャンル形式で書かれたものです。

ヨハナンは、トラー、預言書に記されている神の教え、警告を

トラーを理解するユダヤ人に分かる暗号で、黙示録を記しているのです。

黙示録は、この世の終わりの大惨事が描かれているものではなく、

ローマ帝国下の異教の神々と、皇帝を神と崇拝しなければ、

社会的、経済的、全ての行動が阻まれるという過酷な状況に生きていたイエシュアを信じるユダヤ人にこの手紙を書いているのです。

 

神の預言の中心は、神の契約から外れて生きた事への厳しい叱責と、

神の契約=トラー=モーセの五書に記された神の教えに戻り、

そこから離れずに生きよ!という警告なのです。

 

キリスト教の教えは、神の契約が廃れた!というローマがすり替えた偽の教え、偽り思想を土台としているから、神の教え、警告などその通りには聞こえて来ないのです。

その代わりに、宗教教理、人の思想で編み出す空想、憶測、思い込みの聖書解説が、堂々と横行しているのです。

 

聖書のテーマはシンプルです。神の教え=トラーから離れた!

罪が入って、神の内側から外側、本来いる場所、エデンから飛び出て

外側に閉じ込められてしまったのです。

それが、エジプトで表されているのです。

イスラエルから、エジプトへ下り、そしてイスラエル、約束の地に

戻る。イエシュアも同様に、エジプトに降って、再び、イスラエルに戻ったのです。人として、同じ道を辿った。

唯一、イエシュアは、罪がない、これが大きな違いです。

 

エデンから飛び出して、神との隔たりができた理由。

それは、神の言葉を人が無視、却下し、神の言葉ではないものに

聞き入った!これを、今もずっとやっている事に、はっきり気が付かないと危険です。

罪とは、神のトラーに違反する行為であり、罪が神との隔たりを

作るものであると、はっきり書いてあります。これは、イエシュアが来られた後も、全く同じです。

聖書のどの箇所を読んでも、100%モーセの五書=神の教え、

契約、トラーに記されたことが解説されているだけです。

そして、神の教えを否定した、教えなど聖書には1つも書いてない。

エデンの園から出た。物理的、霊的に隔たりが出来たのです。

同じ間違い、罪、誤りを繰り返していては、ダメなのです。

それは、宗教という別物の生き方に誘われる事だからです。

警告は、神の教え、契約に根付く生き方に戻れ!です。

 

黙示録 2:1 エペソにあるカハールの御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台間を歩く者が、

次のように言われる。

 

7つの星〜全ての上にある権威、神ご自身を表すものです。

古代のこの時代の人は、異教の神々でさえ星には屈服しなくては

ならない、太刀打ち出来ない力と考えていたのです。

だから、星と書いてあるのです。7つ〜完全である本物の神。

天、見えない世界と、見える世界のことが書いてあるのです。

地上にある世の光である人達、神が聖別された人を表すカナカスが

完全に取り除かれた純金で作られた7つの支柱が1つの金で作られた

メノーラがあります。

これは神の家、神殿の一番神の臨在に近い場所、至聖所の前に置かれたメノーラです。

圧縮された純粋なオリーブ油が、メノーラの上の部分、アーモンドの形をしている所に入れられて、光が灯されるのです。

アーモンド=目、神の目と同じ目線、同じ位置、意識、考えで

世界を見渡す神の聖徒。その人達が、純粋な油で、世界を照らすのです。これは、五人の乙女がトラーに忠実に生きていた、油を持っていたとある内容と同じ意味です。

イエシュアが、人の間に歩かれた、これは荒野での40年の生活の中で、神の臨在が、宿営の中心のミシュカンの中に実際にあったのです。

至聖所に置かれた契約の箱の中に、神の臨在があり、この場所で

神が直接語ろうと言われたのです。

実際に、雲と火の柱で神の臨在が物理的に目に見える形でも表されたのです。

神の歩かれる場所は、人の間です。この人の生き方が、神の性質と

ズレた生き方ではならないのです。

天にある目に見えない神の家を、地上でそっくりそのまま作らせたのが移動式ミシュカンであり、神の固定式神殿です。

ミシュカン〜神の臨在が住まう=シャハン〜場所です。

天の7つの星は、神がイエシュア=神の性質通りを生きる実態を

見せているものでもあります。

そして、それをそっくりそのまま地上に反映するのが、7つの支柱の

メノーラ=神が聖別された人々なのです。

神殿の中で行われた様々な儀式、レビ記に記されている内容は、

全て、神の民、聖別された人、イエシュアの業、神にどう近づくか、

人とどう修復するか、神の前の祈りは、神の目線と同じ目線で事実を

見て、新しくされた人の実態から、腹をわって〜内臓を全部祭壇の上に出して、語り合う、それが祈りであり、神の教えに戻る軌道修正でもあるのです。

悔い改めと言いますが、その悔い改める内容は、神の教え、言葉に

照らし合わせた事実がなければ、何も意味がないのです。

プラス、同じズレを繰り返し生きること、それも意味がない。

それを変えることが出来るのが、神の言葉=聖霊の実態なのです。

神の言葉に根付いて、生きることを日々続けること。

日常にはたくさんのレッスン材料、場面が用意されているでしょう。

その中で、選択出来るのです。神の教えに根付いて生きるという

選択を常にし続けて行くことができる。

 

神が聖別された人々が生きる生き方が、天の7つの星=イエシュアが

示す生き方とはズレてはならないことを、教えているのです。

地上での生き方は、直に天に反映され、そのずれが暴かれてしまうという警告なのです。

ズレた生き方とは、神の教えに違反して生きる、その全てです。

神の意図通り、ミラー反射と同じ、天の現実をそっくりそのまま

反映するのは、生けるトラー=神の言葉=イエシュアの生き方なのです。それを、人間が歪めている!!!これが、黙示録のテーマの

中心でもあるのです。

 

黙示録 2:2 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。

また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、

使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。

2:3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、

弱り果てることがなかった。

 

使徒と自称する偽使徒、偽の教師、使徒に対して、エペソの人も

抵抗し、忍耐したと称賛されています。

そして、厳しい叱責が伴うのです。

7つのカハールの中で、5つは厳しい叱責と、そして励まし、

称賛を与えられました。

5とは、モーセの五書です。神の契約=トラーに根付いて忠実に

生きていない5つの群れ。5人の眠った花嫁と同じで、神の教えに

忠実に生きてないと、言われた群れです。

そして、2つのカハールだけが、称賛と、励ましだけが与えられ、

叱責はされませんでした。2とは、契約の板です。

契約の題目が記されたものです。神に対して、そして人に対して

神の契約、教えに根付く生き方をした2つの群れが存在していたのです。

注意して、聖書を読んでいくと、この5、2、7という数字が

繰り返し使われています。

 

読めば分かりますが、神の警告、預言者の警告は、全て同じです。

最初から最後まで同じ!

神の教え=トラー=契約に忠実に生きていない人に対する叱責と

神の教えに戻れ!という同じ警告です。

そうすると、キリスト教の世界で教えられている、神の教えは廃れた

終了、破棄、異邦人には関係ないという思想、教理が聖書とは全く辻褄合わない事が、聖書に照らし合わせれば、クリアーに見えて来ます。

どんなに上手く解説しても、嘘は嘘であり、聖書に書いてもないことを人間の教理で解説しているだけだからです。

黙示録の最後に至るまで、その神の警告は同じだからです。

神の契約に根付く生き方に、全ての人は戻れ!という神からの同じ

促し、警告、目覚ましコールだからです。

 

黙示録 2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。

あなたは初めの愛から離れてしまった。

 

はじめの愛〜神が与えた永遠普遍の婚姻契約、神の花嫁とされた人に

与えたイスラエルの神の家の大家族の家訓の生き方から、離れた!

と書いてあるのです。

はじめの愛と聞いて、神に対する熱心さとか、情熱、感情と考えるでしょう。

それもありますが、熱心さとは、どういう状態でなければならないと

考えていますか?

浮かんでは去る、当てにならない感情、フィーリングのことなどではないのです。

 

神の言われた、熱心さとは、神の教え、契約〜愛に忠実に生きる事。

神に対する愛は、神の教えに対する忠誠なのです。

愛とは、神の契約丸ごと、神が教えた通りに生きること、

夫が提示した契約に根付く生きかたを捨てない、実際に生きること!

それが愛の実態なのです。

だからLGBTQは、神の民の群れの中に、決して持ち込んではならない

神の教えを廃れた!という思想も持ち込んではならない。

罪の定義を捨てるから、人の考え、判断が最優先になってしまって

いるのです。誰がどう思うか、考えるか?ではなく、神が言われた事これを基準にしない場合には、なんでもありの、罪まみれの世界を

生きることが出来ます。無法地帯。

罪とは何も、道徳的なことだけではないのです。

道徳的なことなら、神を知らない人でも一般常識、良心があれば

分かります。

神が伝える、神に聖別された人の生き方は、人の理解や異教徒の世界に生きる慣わしとは、異なるものであり、それからズレれば、それも同様に大罪であると教えているのです。神の民としての実態を汚す

行為、聖別を汚すと書いてあるのです。

これは、神の言葉を捨てる人には、理解できない領域なのです。

乳飲み子には、固い食物である神の教えは、理解できないからです。