ヨハナンが手紙を宛てた7つのカハール、エクレシア、神の声に呼びだされ応答した人の群れ。その冒頭にあるものが、エペソです。
このエペソの地の衰退を通しても、その地域で、地の塩、世の光として置かれた人たちが、神の教えからズレて、光と塩を失った生き方が
その地全体に及ぼした影響がそのまま現れている場所なのです。
そこは、異教の神々、文化、思想、哲学、宗教、経済、貿易の中心、
ありとあらゆる国々の性質を取り込んだ、その時代で4番目に大きな
大都市でした。混ぜ物鍋のメッカ。
ローマ帝国が支配し、そして、衰退し、滅ぼした場所。
今の世界で教えられている、イエシュアが教えられたトラーとは
違う、人造西洋宗教が出現してしまったのも、ローマ帝国のせいでなのです。
その性質は、異教の神々の宗教、思想哲学、文化、慣わし、儀式、
異教の神々の祭り、皇帝崇拝との融合、同化、混ざりもの、妥協、
不純物の混在です。
神の警告は、変わらない、クリアーです。
バビロンという言葉で表される異教の文化との融合、そして大淫婦、
姦淫の罪とは、純粋な神の教え=契約=トラーに根付く生き方から
離れた人たち、融合、同化、シンクロ、妥協、同調、別物と混ざり
合う事に対しての、警告を語っているのです。
それが、預言者の役割であり、預言書に記された一番の内容なのです。
クリスチャンの中に浸透している思想、聖書とは異なる思想は
何度も書きましたが以下です。空想、作り話、決めつけ、憶測、
聖書ではない、思想をローマ帝国により、植え付けられてしまいました。
1)キリストが来られて、今迄教えらてたきた父の教え、イエシュアが教えられた教え=契約=トラー=モーセの五書が終了、破棄された。
これは、人間が、神の言葉を、自分の考えで選り分ける、つまい食い
信仰であり、それらを聖書信仰と呼んではならないものなのです。
部分信仰とは、大きな場所=神の教えの中核を、人間が作り替えて
いる、不純物の混じった汚水、水の中を泳いでいるのです。
もしも、ローマ帝国が塗り替えたような思想が事実であると主張するならば、聖書に書かれている教え、事実、警告、内容は、全て辻褄が合わないものになってしまいます。
神の教えが破棄されたら、罪の定義がなくなるなら、イエシュアも
必要ない、救いも贖いも必要ない、恵もなくなるという意味不明なことを言っていることに、気がついていないだけです。
神の伝える罪の定義とは、神のトラーに違反する全ての行為のことだからです。
人が考える罪の定義は、神の前には何の意味もありません。
創世記の最初、エデンの園から、黙示録の最後、エデンに戻る迄の
教えと、警告は、たくさん書いてあるようでも、実は、シンプルに
言うことが出来ます。
神の教え、言葉、伝えた通りから、右へも左へもそれるな!
神の言葉は、あなたの命を守るものだから。
預言書の警告は、神の教え=トラー=契約から外れた生き方から
神の契約=教えに戻って生きよ!ということだからです。
そして、エデンの最初から、人は、神の言葉を疑い、神の言葉、
教え、伝えたことではないことを伝える者の声に聞き入り、神の
言われたことを、退け、神ではないものの声を取り入れているのです。
その結果、人の中に異物=罪が入り込み、別の目が開かれ、神の性質通りに造られた自分の自己像が混乱し、分からなくなり、神との
隔たりができ、人間関係の中で一番近い、自分の要素そのものである人との亀裂が出来てしまったのです。
本来の創造の状態ではなくなってしまった。
そして、エデン〜神の中から、隔たりの場所、外側の中に閉じ込め
られてしまうことになったのが、人が罪に陥った最初から同じなの
です。そこからの、回復、そして、最後はエデンに戻るのです。
神が伝えていることは、一貫して同じです。
聖書のどの箇所でも、同じです。
契約=トラー=神の教え=イエシュアが教えられた父の教え、
大家族の生き方に戻り、それを生きよ!
神の大家族には、2つの別々の家訓はありません。
ユダヤ人、異邦人と分ける分裂家族は、神の家族ではありません。
神の言葉、教えの完全版は、モーセの五書しかありません。
それ以外の別の教え、又は神の言葉を人の手で排除、削除して、
スカスカに骨抜きにした、不完全版を生きよ!などとも、
神は教えてなどいません。
人の体も全ての臓器が揃って、完全に造られているのと同じです。
神の言葉で造られた人は、神の言葉を生きるのです。
人間が作った別もの、欠陥、欠損がある教え、それを生きるのでは
ない。
そして、神の教えから、ズレた最初の最初から、同じ警告です。
これが、預言書に記された一番のテーマです。
預言書とは、未来預言が中心に書かれているものではありません。
預言書は、神の契約からズレて生きたらどうなるのかの、結末を
教えているものです。
その弊害、刈り取る結末、呪い〜神の前に無価値になり、神に聖別
され、最高の宝とされて、神の懐の中に常に大事にされる価値ある
存在が、虫ケラのごとく、下世話な生き方〜異教徒と何も変わらない
生き方をしている。
そのように生き方に陥らないために、神の契約=トラーに
根付く生き方に戻れ!!!これが、ヨハナンの黙示録のテーマでありそれは、預言書のテーマでもあるのです。
預言者の役割は、神の教えからズレて生きた人への「神の家の家訓を生きることに戻れという、切実な呼びかけなのです。
異邦人は、もともと異教徒文化に根付いて先祖代々生きて来たので
唯一の神が伝える、神に聖別された人の生き方を知りませんし、
イエシュアを信じても、生きてもいません。
聖書を読んでいても、それに気が付かない理由は、神の教えが
廃れたという、第4の獣、ローマ帝国の作った大嘘を教えこまれて
いるからです。常に、これに戻るのです。
騙されるな!が神の最初の、そして、最大の警告です。
それが、聖書の最初から、最後まで記されているのです。
同じ教え、同じ警告がずっと書かれている事に、気がついていますか?
神の教えと、神の教訓、警告は、最初から最後まで同じである事実から考えない場合には、神の言葉は、はっきり記されているのに、
偽情報に洗脳されている頭脳には、まるで響かなくなっているのです。
申命記4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、
主の命令を守ることのできるためである。
12:32 あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。
また減らしてはならない。
ヨシュア1:7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたトラーをことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。
それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。
この聖書箇所を、クリスチャンが頻繁に唱えながら、同時に神の言葉が廃れたと信じている、その不思議な思考回路は、古い教えが廃れ、
都合の良い箇所、励ましを受ける箇所、自分が受け取れる箇所の
神の教えだけを、自由自在に仕分けて、自己流に勝手な解釈をしているから、聖書ではない、単なる人の教えの大矛盾に気がつけないのです。
箴言30:5 神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾で
ある。
30:6 その言葉に付け加えてはならない、彼があなたを責め、
あなたを偽り者とされないためだ。
<真実であり完全である神の言葉は、途中で変わりません。
永遠に同じ。何を言おうと、何を生きようと、全く言及されないと
勘違いしてはならないのです。最後に言及されるとあるのです。
それが黙示録の最後迄、同じように記されているのです。>
コヘレト12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、
神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を
善悪ともにさばかれるからである。
黙示録22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、
わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、
神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
<黙示録の最後に至るまで、同じ警告です。
神の契約=トラーを捨てる人に対しての警告なのです。
ヨハナンが預言の書と書いているのは、ヨハナンは、トラーと
預言書、諸書に記された事実、警告を、暗号化して書いているからです。ヨハナンは、自分の預言書を書いているのではありません。>
22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、
神はその人の受くべき分を、この書に書かれている
いのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
<これを、ローマ帝国がやったのです。
神の教え、トラーを生きることを禁じて、それを生きる人達を、
ことごとく処刑した。それは、ローマ帝国だけではない。
4つの獣、バビロンアッシリア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ
そして、ホロコーストでも同じでした。
その代わりに、帝国皇帝を神の如く崇拝し、その部下である教皇の
言われることに従うこと。宗教の階級制度は人を支配するためです。
ローマ帝国のシステム、独裁者システムです。この支配構造は、
プロテスタントの中にも、同様にがっちり浸透しているものです。
神の教えを曲げて、聖書ではない教えを、次から次へと編み出して
来た、歴史の中で行われた、神に対する、冒涜、悪事です。
神の教えに、人間が付け足し、差し引きする、神が禁じている行為を堂々としている!今日も、今もそのような主張が拡散されている。
命の木と、聖なる都、未来、神から遠く遠く離れた場所に置かれて
神との親しい関係の中では楽しめなくなります。
これは、嘘ではないです。イザヤ書に書いてある通りだからです。
イザヤ 56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、
56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――
<シャバットで表されているのは、神の契約、神との関係にある印
その人は神の契約をガードして、神の仰せの全てを愛して生きる人
だからです。神を愛する人は、神の教えを破棄終了して生きる人?
そんなこと、聖書のどこに書いてありますか?>
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで
楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。
56:8 イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう
言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。
イスラエル〜神の大家族の代表の名、苗字です。異邦人も神の仰せを
愛して生きて、神の時=モアデイム、婚姻関係にある印、神との
特別な会見の日全てを、神と共に喜び祝う事を選ぶ異邦人も、
神の家の最も近い場所に招き入れられという、未来預言が書いてあるのです。
神との親しい場所、直に会見できる場所。
神の言われることに忠実であること、これが日々の練習なのです。
それは、神の教えを、日々の中で信じて生きること。
衣食住、何を食べるか、何を飲むか、どのように日々自分の置かれた場所で、メノーラとしての光、地の塩として、神の契約を保存して
生きて練習するのか。
神の教えは、その他全てに関してです。1つだけ、取り出して生きるのではないのです。シャバットと書いてあれば、神の仰せの全て。
神の祭りを祝うのは、神の家の家族の家訓であり、父の呼び出された日には、子らはその日を楽しみに準備して、待つでしょう。
宴会に招かれて、律法だ〜と憤慨する、おかしな思考回路でしょう。
宴会に招かれない事の方が、ショックではないのでしょうか?
その人は、未来宴会に招かれません。又は外野席でしょう。
神の言われることを、捨てる、無視する、そんな人に大事なことを
任せなくなるのは、当然です。
部下が、上司である人の言うとを、ことごとく退け、勝手に判定し、自分の考えばかりをやる、こんな人は、首にするのが普通でしょう。
又は、部署替えして、責任の伴わない場所、社内の業務に影響のないどうでも良い部署に移す。
神の教えをガードし、成人として熟練した人でなければ、大事なことは任せらない。これは、常識です。
神の教えに違反することを人に教え、神の教えを生きないで、
人間が作った宗教の教えを人に教え、契約に根付く生き方をしない
なら、それは親の言うことを聞き分けられない、赤ちゃんと同じ状態なので、気ままに勝手に生きる赤ちゃんとして存在するだけです。
大事なことを、任せない。
メノーラが取り除かれることと同じ意味です。
天国、地獄の空想話から離れて考えてください。
婚姻の祝宴の戸が閉じられるとは、イコール、神との関係から
遠く離れた外野の場所に追いやられてしまうことです。>