神の教えを人間が否定する教え、思想は、人間由来であり、神の教えなどではなく、それらは人を破壊する毒物であり、人を罪に導く教えです。
神の伝える愛の生き方とは、神の提示する契約=教えに忠実に根付く生き方であり、それに真っ向から違反する教えは、死に匹敵する罪なのです。
聖書を読まない、又は読んでも、古い廃れた教えと信じる人には、
神の教えなど、部分的にしか通じませんし、正しく理解などできません。
神が語る、「はじめの愛」、愛とは何なのかも、ヨハナンが書いた意味も通じていません。
神の教え=夫に与えられた契約に違反する生き方を、愛などと呼ばないのです。それは、自己愛、自分教です。
神の教えを捨てる、その行為は、夫に対する裏切り、偶像礼拝、
姦淫の罪と書いてあるのです。
神の教えではなく、別物の教えを取り入れて生きるのは、神が伝える契約に根付く愛の生き方ではない、夫に対する裏切り行為と、
預言書に、はっきりと記されています。
これが、破壊、衰退の原因です。
黙示録でも、全く同じ警告なのです。なぜなら、ヨハナンは預言書の警告を暗号で、書いているからです。
神の言葉、教えを、熱心に探り求め続けて、生きる事。
これを、してこなかったのが、ローマ教の世界です。
代わりに人間の思想で別物の教えを作り出し、人間が作った教理を
通して、神の言葉を歪めて解説し、それを人に神学校で教え、
イエシュアや弟子、パウロが教えられた教え、トラーとは異なる
教え、生き方を教えているのです。
神の教えを学ぶ、知る事より、現象、不思議体験、癒しや、高揚感、フィーリング、感情、その他を求める事が中心であり、それを求める為の邁進、爆走し続けて来てしまったのです。
それは、ローマという4番目の獣、ローマ帝国製造の宗教のせいなのです。
異邦人の世界を見渡しても、パウロのようにトラーを直接教えるような教師が、今迄異邦人の中にいなかったのは、そのせいです。
神の言葉、教えを知りなさい!と教えるのが、神であり、感じなさい!というのは、人間の教えです。
これは、ドラッグを求める世界と全く同じです。
宗教はこれを皆求めているのです。異次元世界の体験追求。
黙示録に記されている、この7つのカハールに対するものは、
法的監査なのです。
天の法廷は、何を基準に裁くと聖書にはありますか?
最後の審判も全く同じです。
モーセの五書=トラーです。クリスチャンの世界で語られる
神のトラーは廃れたという思想、幻想、主張は、聖書の根底を覆す
偽情報そのものなのです。
神は神の提示した契約書に基づいて、全ては裁かれると書いてあるからです。宗教の思想は、聖書に書かれている事実ではない、
聖書とは、全く辻褄が合わない事に気がついてください。
神が叱責ではなく、称賛と励ましだけを与えた2つのカハール、
群れは、スミルナとフィラデルフィアです。
2つとは、モーセの五書=契約の板を表すものです。
この板は、一つは神に対して、もう一つは人に対しての生き方が
書いてあるものです。
この2つの群れは、神の契約に、忠実に生きた群れに対しての賞賛です。
黙示録を読んで、それが事実と認めるなら、黙示録に書いてある内容は、モーセの五書、預言書に書かれた警告であり、神の契約に戻れ!
という神からの託宣であることを知らないとなりません。
ローマ製造の宗教の教えは、エデンの園のあの蛇の声をそっくりそのまま復唱しています。
神は本当にそう言ったの?今は関係ない教えだよ。今は自分で考えて、祈ればなんでも清くなる?
神が神の言葉を十字架で処刑、処分、破棄されたからだ〜!
これ、聖書とは、100000%何の関係もない異端カルト思想
そのものです。
スミルナは、現在のトルコ西部の都市イズミルにあった教会です。
激しい迫害や経済的な貧しさの中にありながらも、契約に根付く生き方、イエシュアが教えられた通りの信仰を固く守り抜いた点が称賛されました。
フィラデルフィアは、現在のトルコ西部のアラシェヒルにあった群れです。規模は小さく力も弱かったものの、忍耐強く神の言葉=契約=トラーを守り通した模範的な群れとして称賛されました
エペソという場所を考えると分かります。
この地は、東と西を繋ぐ場所であり、交通網も発達し、広大な農地
遊牧地、鉱山があった場所です。商業の中心、経済の中心。
海、港、川があったのですが、この地形を保つことに、必死にならされる場所でもあったのです。
エペソにあったアヤスルクの丘は、ワイルドな自然災害などから
守る女神として崇められた神の丘です。
この丘はずっと聖なる丘として、引き継がれ、様々な宗教の聖なる
丘となって行ったのです。ローマ教も、聖マリア処女と、聖ヨハネ
神殿をここに作りました。混ぜ物宗教の特徴が、ローマ帝国。
今エペソを訪れるとこの1世紀にあった豊かな港も川も跡形もなく
無くなって、ゴツゴツした岩、大地に変化してしまっているのです。
山、川から流れて来る土砂、堆積物が、どんどん積み上げられて、
海を埋めてしまったのです。
その場合、そこにあった街の全てを移動しないとならないことになるのです。
段々とこの街が港として機能しなくなり、その場所を移動しなくてならないのに住民はそれを拒絶したのです。やがてその場所は皇帝により、強制的に破壊されることになるのです。
エペソは、天の神の家に於ける法的審査をされているのです。
上にある神の家と、地上にある神の家、群れ。
ヘブライ聖書を知る人は、黙示録2:1に記された事を聞いたら
ゼカリヤ3章を即座に直結して考えているのです。
黙示録2:1 エペソにあるカハール(エクレシア)群の御使に、
こう書きおくりなさい。
『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、
次のように言われる。
ゼカリヤ 3:1 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、
サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。
3:2 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。
これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
3:3 ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、
この箇所は、1日の労働で疲れて衣服も汚れたという意味で書いて
あるのではありません。
大祭司であるヨシュアの汚れた衣、大祭司の衣は、神の契約を破った生き方その違反から来る汚れを、大祭司の衣服の汚れであらわしているものなのです。
天の法廷の中で、2つのグループがあります。
1つは右側に立つ「サタン」と呼ばれる人です。
私達が想像する槍を持って立っているような人物ではありません。
迫害を弁護する弁護士です。人を責め立てる者。敵対する者という
意味であり、ヨシュアを責め立て、対抗するものです。
法的違反となる証拠を積み上げて、神のトラーを破ったと責め立てる。
一方の御使達は、ヨシュアを擁護する者であり、恵に満ちた発言をしています。
神が汚れた大祭司の衣を脱がせ、罪を取り除いたとあります。
そして、祭司の服を再び着せるのです。
ゼカリヤ 3:4 み使は自分の前に立っている者どもに言った、
「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。
あなたに祭服を着せよう」。
3:5 わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。
そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。
主の使はかたわらに立っていた。
次に、条件があるのです。
ゼカリヤ3:6 主の使は、ヨシュアを戒めて言った、
3:7 「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に
歩み、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、
わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。
<神の契約に戻り、神の契約に根付き、生きるならという重要な
条件があるのです。
これは、クリスチャンの間で全く無視されている神の教えです。
神の教え=トラーに根付き生きることを、イエシュアを信じながら、聖霊が内側に住む人が教えられていない。
その代わりに、自分の判断で、つまみ食い信仰をする。
このような生き方は、夫に忠実に生きる生き方、神が警告している
いい加減な生き方そのものなのです。
信じた事は簡単。神により生まれさせられただけです。
その後が問題なのです。黙示録の警告は預言書の警告です。
条件付きです。神の契約に戻り、神の教えに根付いて生きることをするならば、という条件付きであることを、教えられていないのです。
わたしの道に歩み、わたしの務を守ならと書いています。
これは、出エジプト、シナイ山で契約を与えられた時、神に言われた
事と同じで、繋がっています。
出エジプト 19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。
19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、
わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、
わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
わたしの道とは、何ですか?契約=トラー=父の教え=モーセの五書です。
この務を守るとは、מִשְׁמַרְתִּ֣י 「ミシュマレット」というヘブライ語です。わたしの務とは、ミシュマレテイ。
それは何ですか?これは、神殿、神の家の中で、ただ良い行い、
良い人を生きるという意味ではなく、もっと詳しい明確で具体的な
詳細があるのです。
これは、大祭司がガードするように、その生き方が契約に根付いた
生き方であるのかを、見張ることです。
これは、24時間体制の祭司の任務があったのです。
神殿の中での細かい作業がある。朝に夕にオラー、全焼のコルバンである子羊を祭壇で焼く。メノーラの点検、その他細部に渡る神殿内での管理があるのです。それを、行うならばとあるのです。
3:8 大祭司ヨシュアよ、あなたも、あなたの前にすわっている同僚たちも聞きなさい。彼らはよいしるしとなるべき人々だからである。
見よ、わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。
3:9 万軍の主は言われる、見よ、ヨシュアの前にわたしが置いた石の上に、すなわち七つの目をもっているこの一つの石の上に、
わたしはみずから文字を彫刻する。
そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。
3:10 万軍の主は言われる、その日には、あなたがたはめいめいその隣り人を招いて、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座すのである」。
エペソの群れが、『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。と読んだら、ゼカリヤに書いてある、天の法廷で、裁かれているのだと、理解しているのです。
ここに、ヨシュアという大祭司の名前があります。
イエシュアは、救いという意味の名であり、ヨシュアとは、
イエホシュアというヘブライ語の日本語の訳です。
イエシュアとは、イエホシュアが短くなった同じ名です。
エペソは、天の神の家、イエシュアが神の家の中を歩かれ、
エペソの人が、どのような生き方をしているのか、天の法廷の中で、査定、評価、判定されていると理解できているのです。
天にある家、法廷の中で、大祭司イエシュアの前に、
地上のエペソの群れは立たされてるのです。
地上にあるエペソの群れは、天の現実の中で、裁かれているのです。
地上での祭司としての役割を怠り、神の契約を破り、その結果あなたの祭司の衣は、罪で汚れたものになっている。
祭司としての注意深い見守りがないまま、罪を蔑ろにした生き方を
している。
それは、はじめの愛=契約の愛=トラー=モーセの五書に記された
生き方を蔑ろにし、その生き方から離れた!という言葉で凝縮されているのです。
メノーラ、燭台を取り除かれるとクリスチャンが聞くと、救いを失うとか、地獄に行くなどと即座に考えていますが、そんなことは書いてないのです。もっと実際的現実的なことです。
エペソがその後どうなったのでしょうか?
エペソが、天の中の法廷で、立つ場所がなくなるという意味は、
地上でもそれが取り除かれてしまうということに、繋がっているのです。実際に、エペソの群れは、そのエペソの都市と共にその場所に
存続出来ない状態になって行ったのです。
これは、ソドムとゴモラの現実と繋がっているのです。
ソドムとゴモラに、50人の義人がいたら、45、40、30、
20、最後は10人いたらと、懇願しても、そこには誰も義人が
いないから滅ぼされたのです。
もし、十人でも義人がいたら、その不品行を生きる罪を生きる街
人々を救おうと神は言われたのです。
エペソという街を支える霊的アンカー、支えとなるべきカハール
だった人々だったのに、その人たちが、神の教え、契約からズレた生き方を続けてしまったのです。塩が塩気を失い、光を失った。
その結果、エペソは、経済的基盤となる港を土砂で埋め尽くされ
経済は崩壊し、神殿も全てただの遺跡になり、今現在、偉大であった
エペソの都市は、ただの岩がゴツゴツした、何もない場所に成り下がってしまったのです。
水が消え、霊的守りも消え、人が行き来するだけの土地になって
しまいました。
契約に根付く生き方をするとは、自分だけのためではないのです。
周りに生きている全ての人に関わり、影響することなのです。
エペソの群れ、イエシュアに属する人が、地の塩、世の光としての
役割を怠って捨てたため、エペソという場所も、霊的アンカー、
破れる外口に立つ人がいないので、廃れたのです。
これは、全て神の聖別された民、祭司としてのガード、見守りを
怠り、神の契約からズレて、異教の神々の教えと交わりズレて行った
この群れのたどり着く結末であり、そしてエペソという地も衰退して
しまったのです。