今迄世間一般に浸透し、教えられてきた教えには、聖書ではない
教えがたくさんあります。
それは、その思想の土台自体が、人間が作った宗教〜神が神の教えを
十字架で処分したというローマの勅令が土台になっているからです。
神が神の教えを変えた!異邦人には関係ない!古い律法時代は
生贄捧げて罪が許されたなどという、聖書とは異なる様々な思想が
大嘘であると、聖書の記述に基づきその偽情報に気がついたら、
驚愕します。
黙示録を、この世の終わりの大惨事が記された書であると、
一般にまかり通った定番の解説ですが、ヨハナンが黙示録を書いた
意図は、迫害の下で、神の契約を捨てず、神の教えに根付き、
未来に約束された希望を忘れず、捨てるな!という、サバイバルガイドブックであるという事実から全くそれた教えです。
しかも、クリスチャンは、トラーを捨てよ!という教えを信じているので、預言書も、黙示録の中心のテーマ、警告、神の呼びかけが何で
あるのか、教えの全貌、中核を全く逃して読み違えをしているのです。
黙示録に限らず、聖書を読む前提が最初からずれているのです。
古い教え〜、生贄で許された以前の教え、怒りの神と恵の神。
古い教えは、キリストが来られる迄の仮の教え?
聖書を正しく学ばない、理解しないならば、人間の教えの間違った
聖書解説は、後を絶たないし、その間違いの解説が聖書ではないとも気がつけないままになります。
神の教えはモーセの五書=契約書に記された完全版1つしかない事にも、全く気がついていないからです。
神の言葉は、ローマ帝国がハイジャックしても、付け足し、差し引き
出来ない。
神の性質どおり全て丸ごとでシャローム完全無欠のものなのです。
オーラム、時代、歴史は、2つだけです。悪が統治した世界と、
それが終わり、王の王、主の主が永遠に統治される世界が来る!
これだけです。
そして、悪は、それを行う人達が存在する限り、同じことが繰り返されて行くのです。
日の下に新しいことはないと、同じ事、歴史は繰り返される事が、
書いてあるのです。
聖書の中には、「パターン」が記されています。
最初の最初から、神の言葉を曲げるものが登場し、人間が神に成り
変わり、自分の分を超えて、与えられた役割、任務、目的とは違う事をしようとするのです。
それがバベルの塔であり、民数記16−18章にあるコラの反抗と
同じです。その他、ダニエル書に記された4つの帝国で表される
もの。自分たちの考えで、自分たちの名を高くあげ、世界を1つに
統治し、人を支配し、富を牛耳ろう。
偽の教えは、偽教師が教えるのです。偽預言者は無数に出現しているでしょう。その警告はずっと最初から書かれており、パウロも同じ
警告をしています。
今や、聖書が閉じた後なのに、ある人々、リーダー達が、モーセや
使徒と同じであると主張する新使徒運動。
このようなムーブメントを作り出す理由は、ひとえに神の言葉を正しく学ばず、自分の思想を聖書を利用して編み出しているからです。
聖書ではない聖書解説をすること、拡散されることは、誰も止められません。
しかし、その偽物の教えを刷り込まれる事、影響される事から、
自分を守ることができます。
これは、食べ物の教えに繋がることです。
何を自分の頭脳、思考回路の中に取り入れてはダメなのか?
あなたは、〜〜〜を食べて、〜〜〜を食べるように造られていない。
あなたは、神の教えを頭脳に取り入れ、日々生きるように造られ
神の教えを曲げて、歪めた、偽物の教えを聞いて、それを生きるように、造られていない。
真理は人を自由にし、人間の教え=宗教は真理ではないまがいもの
なので、人を不自由にするからです。
なぜこんな偽物が、世界にこれ程までに浸透してしまったことを
神が許されたのか?と思うのです。
今迄一体何を教えられて、何をしてきたのか?
それは、歴史の中に登場する悪の支配者、帝国も同じです。
神は、全てを神の権威の下に治め、そして全てを使って神のプランを
進めて行っているのです。
理由は見えないけれど、神に間違いはない。
宗教の教えを教えられ、宗教活動やらされ、そのリーダーに忠実に
なり、彼らに物申してはならない。
リーダー、イコール神同等に扱われている。
これ、ローマ帝国、皇帝、教皇と同じこと、階級制度の思想を
刷り込まれて、騙されているのです。
帝国の皇帝は皆、自分を神と同等に崇めるよう、強要しました。
皇帝を崇拝する儀式をしなければ、売り買いも出来ない。
そんな世界なのです。
リーダーを神のごとく崇め、彼らの言われることは、神の教えであるから、疑問に思ってはならない?
これって、カルト教と、一体どこが違うのでしょうか。
イエシュアが教えられた父の教え=純粋な神の教えではなく、
人間の思想で作られた宗教の世界は、人を縛るものです。
リーダーが神の如くになり、口では、直接そんなことはもちろん
言わないけれど、神の如くに関わるように教えられ、そのように
皆が扱い、彼らに物申せない。
新使徒運動の影響で、リーダーは、預言者、使徒と同じという思想を
刷り込まれた人は、リーダーがどんな悪行、腐敗を行っても
皆全て隠蔽工作なのです。神に油注がれた人を、批判してはならない?
自分を聖書に登場する預言者や使徒と思えるのは、どういう思考回路なのでしょうか?そして、それらの思想を実行するリーダー達は、
必ず人を縛り、支配し、果ては虐待、搾取、腐敗して行きます。
聖書を記した預言者は、神の言葉を天の中で、神から直接聞いて、
聖霊により書き記した人です。使徒は、預言者が書いた
聖書=トラー、預言書、諸書を短く解説しているだけです。
聖書を正しく学ばない人が、現代の預言者、使徒であるのだという
空想を考えるのです。
聖書は閉じられていて、聖書を記した預言者のような人は、
現在はいないからです。聖書に登場したと同等の預言者がいたら
聖書が書き換えられてしまうことになるからです。
神の民の群れの生き方から、遠く遠く世界の果てまでズレた、
別物をやっている、それが宗教が生み出す偽物です。
これは、ユダヤ人の世界でも同じです。
1世紀当時、イエシュアを引き渡したサドカイ派、この人達は
神殿に仕える祭司達でした。
その大祭司カヤパが、最も腐敗していたのです。
神の契約に根付き、人にトラーを正しく教え、生きるのではなく、
ローマ帝国の政治と支配に結託、融合、同調、迎合したからです。
このような腐敗したサドカイ派の祭司達が司る神殿腐敗した教えから
完全に決別したのが、エッセネ派です。
彼らの汚れをこうむらないよう、クムランに離れて住み、
彼らが死海文書をかいたのです。
彼らも、この悪行、腐敗から救い出してくださる、メシア「人の子」を待望していたのです。
大祭司、祭司さえ、腐敗できるのです。それは、神の教えに忠実でななく、当時の権力者であるローマ帝国に結託し、彼らに迎合、同調し神の教えとはズレた腐敗を続けたからです。
神の教えを塗り替えることこそ、人を腐敗、破壊、偽物へと導く
要因なのです。
クリスチャンは、キリストが来られて新しい教えが教えられた
古い教えは廃れたという聖書に書いてもない偽情報を、神の教えと
信じていますが、それらは偽物の教えです。ローマ帝国の産物です。
聖書を読んでいるのに、どうしてその事実に気がつけないのか?
クリスチャンが言う律法とは、ヘブライ語の本当の意味は、
神の教えであり、それはイエシュアが教えられた父の教えであり、
神は神の言葉は永遠に変わらない廃らないと言っているのに、
聖書信仰と主張する人が、どうして、神の言葉に真っ向から敵対、
違反、刃向かう思想を信じているのか、考え直した方が良いのです。
聖書信仰というならば、古い教えは廃れたなどと言わないからです。
それは、聖書を完全なる神の言葉と信じますという発言を、
自ら否定し、神の言葉を塗り替えて、矛盾を発言しているのに
気が付かないからです。
完全であるものに、修正、訂正、変更は必要ありません。
しかも、神が変わらない!と宣言していることを、人間が塗り替える行為は、死に匹敵する罪、大冒涜であり、神に敵対する行為です。
神の言葉、教えの完全版は、モーセの五書。それが理解出来ない人が
人間なのに、神の教えを自由自在に、これ、それ、あれ、殆ど
今は関係ない!という偽情報を拡散して、それを信じているのです。
それは、最初の75%に書かれていることを知らない。
神の教えの完全版、モーセの五書を正しく教えられていないから
です。
そして、マタイ〜黙示録には、カトリック、ギリシャ、ローマ
プロテスタント、宗教の教えは書かれていません。
日曜礼拝に変更されたこと、クリスマスが12月25日で神が祝えと
命じているとか、イースター異教の女神の名がつく祭りを祝えとも
書いていません。
それらは、聖書ではない、ローマ帝国の産物だからです。
神が神の教えを変化させたなどとも、書かれていません。
全て、間違った聖書の読み違えを教えられている、偽の解説を
聖書だと教えられてしまったからです。
聖書を教える教授、教師、牧師が、聖書ではない不真実なことを教えている。
詰まり聖書を正しく理解しない人が、聖書を教えているのです。
その理由は、ローマ帝国です。ここにいつも戻るのです。
彼らが、神のトラーをバン!教えるな!生きるな!シャバットも
祭りも実践するな!と勅令を出し、それをする人を処刑したからです。
そして、異邦人は逃げたのです。ローマの犬になったのです。
そして、ペテロ同様、私達はユダヤ人ではなく、異邦人であり、
彼らユダヤ人とは、あの人達とは何も関係ありません!その証拠に
トラーも生きていない、シャバットや祭りも祝っていませんから、
重税を課せないでください。投獄処刑しないでください。
それを行動で証明し、ユダヤ人の群れと、ユダヤ人のトラー教師と
完全決別したから、今のように、ヘブライ聖書も知らない、
イエシュアが教えられた教えがトラーであることも知らない、
契約に根付く生き方が、何なのかも知らない。
異邦人だけの群れ。信じた最初から、イエシュアが教えられた契約に
根付く生き方など、全く教えられていない、知らない、生きてない。
ローマ教という宗教の教えを教えられ、それを実践しているのです。
血筋に関係なく、異邦人クリスチャンも、イエシュアを通して
父の元=イスラエルの神の元に戻り、イスラエルという神の大家族=カハールの一員とされ、同じ天の共同相続人になったのです。
それなのに、異邦人は、神の家に住まう神が伝える家訓を知らない
まま、ローマ帝国の家訓、人間が好き勝手に判定した教えを生きて、
神の大家族、父の呼び出している記念日全て捨てて、代替えで
ローマが作り変えた記念日を祝う。
これって、土足で他人の家に、無造作に上がり込むのと同じです。
神の家に加えられた人が、異教徒が編み出した宗教の教え、構造
まがいもの、まぜもの、儀式、別の記念日を、イスラエルの神の家に勝手に取り込み、1階と2階に別々に分かれて、別々の生き方をする
それを、今の時代はやっているのです。
イエシュアが再臨された以降は、違います。
イスラエルの神に属さないそれらは、全部消えます。
このような、人の作った宗教で語るキリスト、ジーザスが、
異端、カルトの教祖とユダヤ人が考えるは無理ないことなのです。
その通りだからです。神の言葉を捨てる冒涜をするのは、
トラーを知らない、野生=異邦人だから!です。
黙示録1:7 見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、
ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。
また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。
しかり、アァメン。
秘密裏の再臨で、空中軽挙で天に消えるなど嘘、ただの作り話です。
聖書には、天と地は1つになり、イエシュアがエルサレムから
世界を統治する世界が来られる事が、預言されているからです。
そして、神に敵対した人、イスラエルを攻撃した事、それは
イスラエルの神ご自身に敵対した人たちが、嘆き悲しむのです。
ユダヤ人も、イエシュアがメシアであると気が付く。異邦人も
イエシュアご自身である、言葉=神のトラーを否定したことを、
同様に気がつき嘆き悲しむのです。
神の言葉、契約に敵対する、イコール、イエシュア=神ご自身に敵対する行為だからです。
神に敵対するものは、神のトラーとモアデイムを作り替えようとすると書いてある通り、それをする事は、神の前に死に匹敵する罪、
冒涜、敵対そのものだからです。歴史の中で繰り返されている。
未来全員が、神のシャバット新月、祭りを神の前に出て祝う日が来ると預言されているのです。
聖書に書いてある意味が、その通りに通じず、寓話やたとえ話と
解説する偽の解説が横行しています。
未来預言は、事実です。
神が統治される世界が来る。
エゼキエル40−48章は未来神が統治される世界です。
イザヤ書にも書かれています。
イザヤ 66:22 「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が
わたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。
66:23 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て
礼拝する」と主は言われる。
66:24 「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。
そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
安息日=第7日目、新月=月の第一日。
そして、それを中心に、神の祭り全てが、全員で祝われるのです。
コルバンも、祭壇の上で捧げられるのです。
イザヤ56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、
そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、
わが契約を堅く守る異邦人は――
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。
燔祭とは、全焼のコルバンであり、しみ、傷、欠陥のない1歳の子羊を朝に、夕に捧げるのです。
クリスチャンが、朝に夕に捧げると歌うのはこれです。
これが未来に、再び神殿で行われるのです。
なぜなら、コルバンは、罪の許しのためにされるのではないからです。神が教えている前提を最初から誤解して読んでいるから、
コルバンが何を意味しているのかも、分からないままになってしまっているのです。
出エジプト29:38 あなたが祭壇の上にささぐべき物は次のとおりで
ある。すなわち当歳の小羊二頭を毎日絶やすことなくささげなければならない。
29:39 その一頭の小羊は朝にこれをささげ、他の一頭の小羊は夕にこれをささげなければならない。