シャヴオートの祭りを迎える | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日本では、今日は21日木曜日、日没がシャヴオートの祭りになります。

ギリシャ語では、第50〜ペンテコステと呼ばれていますが、

ヘブライ語では、シャヴオート(週 複数)という名の祭りです。

クリスチャンの間で、唯一神の創造された記念日で、話題にするのはこのシャヴオートだけだと思います。

しかしその日が、聖書の暦とは違う日の日曜日です。

ローマ教は、イースターという女神の名がつく祭りを、復活祭として

作り変えて、そこから50日を数えた日をペンテコステとしています。そして、その祭りを、「聖霊降臨祭」などという、別の名を

つけています。

聖霊は、使徒2章で、初めて人の中に降ったというのは事実では

ありません!エデンの園の最初から、同じです。

神の前に、神の目が見ている通りのズレ、罪を告白し許され、義とされた。全く同じです。

 

聖霊〜神がが、目に見える形、現象、雷、落雷、声で、現れ出たのは、使徒2章だけではない。もっとすごかったのが、シナイ山での

出来事なのです。

 

「週」という名がついた祭りは、過越から7週が経た時期、

シナイ山で「契約書」文字で記された神の大家族の家訓〜婚姻契約書、法的文書を与えられた日を祝う祭りです。

 

神の祭りは、3つあります。過越、シャヴオート、仮庵です。

これが、三大都上りの祭り、神が創造された祭りであり、未来、

全ての人が神の祭りを祝うようになると預言されています。

エルサレムの神殿にイエシュアも行って、この祭りを祝いました。

未来、イエシュアがエルサレムの神殿から世界を統治し、イスラエルに敵対した国々までもが、エルサレムに神の祭りで上って来るようになる。

神の祭り、モアデイムは、全て福音、イエシュアの業、預言的祭り

であり、収穫祭でもあります。

収穫、作物を通して、神の民を、神が引き寄せ、成長させ、最後には

神に属するものが全員、神のもとに集められる事を表しているものです。

そして、作物は、「初穂」に連なるもののです。

初穂〜イエシュアです。

初穂、初子、長子、イエシュアを教えているものです。

初穂〜最上のもの、初子〜傷のない、欠損、欠陥がない完全にされている、命の源を教えているものです。

 

ローマ帝国が、神の教え=トラー=モーセの五書=婚姻契約に根付く

生き方を、勅令で禁じたので、異邦人イエシュア信者は、ローマ帝国の勅令に迎合し、同調、同化、巻かれて行って、神の教え〜ユダヤ的な特徴のある全てを排除する生き方に、乗り換えさせられたのです。

ユダヤ人は、偽物の教え、神の教えを捨てて生きる冒涜を拒絶して

世界の四隅へ散って行ったのです。

 

これを、クリスチャンの世界では、神が神の教えを十字架で破棄し、

新しい教え、新しい別の契約を与えられたという、聖書ではない

作り話〜人間の思想を伝え続けていますが、それは聖書とは、

何も関係のない、神の教えを曲げる、人が作った教理です。

 

兵庫県知事の斉藤氏や、その他諸々、歴史の中で、冤罪にかけられた多くの人は、どれ程、真実を語り、冤罪を否定しても、誰も信じて

くれないのです。

誰に言っても、相手にされない、濡れ衣着せられている状態とは、

世界が全部敵に回った状態です。

神の言葉に対して、これ程偽証、冤罪が続いて来たのですが、

今は、それがもとの正しい理解に戻ることが、起きています。

 

神の教えが、聖書に書いてある通り、聖書に登場する人たちが

生きていた契約に根付いた生き方を生きる、神のモアデイムを

異邦人もユダヤ人に教えられて祝っていたという事実を知って下さい。

神の教えが廃れたと言い、神のモアデイムを、ローマ帝国、人間が

作ったものにすり替えられ、挿げ替えられた理由は、政治的理由であり、神がそのように許可したり、そのように人にするように教えたからではありません。

 

聖霊=神=イエシュアが内側に住む人が、神が伝える永遠に祝われる

神の記念日、祭りを祝わない、そのことに、不思議に思えば良いのです。

新しい教え〜より優れた教え〜そんな神の別物の教えなどないのです。

そんなことを主張しているのは、神の言葉が不完全と、神が言われたことに逆らう思想を唱える人の勝手な主張に過ぎないのです。

イエシュアが教えられたのは、父の教え=モーセの五書=婚姻契約に根付く生き方であり、その生き方は、神の意図通り、神の宮=聖別

された人の実態で生きること、それが新しく再更新された契約の生き方です。

神の言葉が変わるのではなく、人の内側が変えられる!とずっと

書いてあるのに、気がついていないのです。

人の教えは狂っています。完全である神の言葉が変わらなくてはならない〜!律法は廃れた!と堂々と、蛇の声を、聖霊が内側に住みながら主張する。聖霊が内側に住まう、イコール、神の言葉を正しく理解していることにはなりません。

だから、文字で記された神の教えを熱心に探り求めづつけよ!と

神が人に教えているのです。永遠をかけて、神を知るからです。

 

割礼がされた人。それは肉体だけではない、人の内側、頭脳、中身が

割礼〜境界線が敷かれ、聖別された人とされた!それが、新しい人が

再更新される同じ契約を生きる実態なのに、その意味が全く通じていないまま、イエシュアに出会った人は、古い教えを捨て、新しい教えを生きる!と教えていますが、モーセの五書=父の教えとは別の

新しい教えなど、神は教えてもいない、与えてもいません!

神の教えを、人が自由自在に塗り替え、変え、捨てて良い!

そんな教えは、神の教えではありません。

 

神が創造された神のモアデイム〜アポイントメントの日は、

イエシュアを信じる異邦人には、全く馴染みがないのは、

聖書が正しく教えられていない、それを祝っていないからです。

本物〜神が創造された生粋の本物のアポイントメントの日、

神が聖別され、神が人と特別な出会いをしようと約束された日では

ない、人間が勝手な考えで神の記念日を作って、人間が勝手に聖別し、主の日、聖日と主張している。人間創作の記念日を通して、

イスラエルの神に近づく違反をしているだけです。

こんなことして良いと、神は言いましたか?神の言葉と、神の時

モアデイムを人が変えることに関しての警告がクリアーに、聖書には

記されています。

 

よく考えたら分かると思います。家族の大事な記念日を祝わないとは

その考え、態度は、どういうことを意味しますか?

家族を蔑ろにし、家族が大事にするものを、大事としない、

詰まり、神と一致した、思索で生きていないと言うことになります。

 

これが騙しです。神を礼拝しています!と思うけど、そのやり方

近づき方が、神が言われたこととは違う、神が禁じた別物、人間が

考え出した偶像、金の子牛、ローマ、人間が作ったものにすり替えて、勝手にやっていることに、気が付かないのです。

それが本物と、教えられているからです。

神の警告は、神の言葉を捨てる人には、通じなくなっているのです。

 

神が偶像〜人間の思想で編み出した偽物を通して、神に近づくなかれ!と警告している

それが、聖書に記された罪、ヤラベアムの罪、高きところの礼拝、

イスラエルが陥った罪と同じです。

異教の神々の礼拝場で、彼ら異教徒がやっていた礼拝方法で、

イスラエルの神を礼拝し、そして、神の契約を捨て、破り、

神のシャバット〜モアデイムを汚した!と、預言書に警告されていることが、それなのです。

イエシュアを通して、父のもとに戻った人は、ローマ帝国、西洋人、異邦人により編み出されたものを、地上で生きて、反映するのでは

ない。それは、偽物の影を、勝手に地上に映し出し、イエシュアの

実態を正しく反映、映し出さない生き方だからです。

 

神が創造された記念日は、完璧にイエシュアの業、福音を網羅する

ものです。

そして、それらのモアデイムは、全ての人〜血筋、人種に関わりなく

神に贖い出された人に対して、全く同じ実態を教えているものであり、イスラエルの神のもとに戻った人、全てが体験する共通のものです。

キリスト教の教えでは、神を分裂させた神像を語りますが、聖霊、子、父、どれを強調して語るのは、ズレています。

聖霊を語らない?とか、イエシュアを語らないとか言うでしょう。

イスラエルの神を、どの名で呼ぼうとも、考えようとも、神はエハッド、一体だからです。

子を見たものは、父を見たと、それは父=子、一体だからです。

そして、聖霊をガソリンのごとく考えていますが、それは変な思想です。神は、切り離せないからです。

教会で、主よ、聖霊様、降って来て下さいと祈るでしょう。

聖霊よ、もっとパワーをくださいと言い続けていますが、

神=聖霊=子は、信じる人の内側に、既に住んでいる事実を忘れていませんか?

多分、高揚感や、エキサイトメント、何かの体験、感覚を求めているからです。

でも、そんなものは、必ず消えます。来ては、消える。

人は、アドレナリン全開になったまま、ずっと同じ状態でいられないからです。

必ず、平常に戻るでしょう。ドラッグを取り入れる体験の世界と同じになります。

神が伝えていることは、「感じなさい」ではなく、「知りなさい」です。常に知りなさい!と言い続けています。知って行けば、深い理解

神の言葉に根差した深い確信、納得が芽生えて来るからです。

神の言葉に対して、疑いなど簡単に入り込むでしょう。

その時に、感情、感覚ではなく、揺るがない神の言葉を取る!

そこから、離れない!

そして、人は、神ご自身である、神の言葉から離れないようになる。

 

さて、祭りですが、もう一度復習になります。

自分の体験、経験、この世の旅路とぴったり同じことを、イスラエルが通った歴史、聖書に書かれている事実から、同じことを、神が

人に教え続けているのです。

 

過越の祭りは、それ以前に、イスラエルの12の兄弟、ヤコブの子孫は、カナンの地から、エジプトに降りました。

イエシュアも、アヴラハムも皆、エジプトに入って、約束の地に

戻っています。

これは、エデンから出て、エデン〜神の中=元いた場所に、元の自分で戻ることを教えているものなのです。

 

エジプトでは、奴隷でした。でも、奴隷と言っても、職業があり、

家があり、食料も無料で与えられ、色々なご馳走が食べられたと書いてあります。

その人生目標は、この世の目標を表しています。

虚しくレンガを積み上げ、目先の給料はもらえても、本当の人生目標がない。詰まり、本物の神に繋がり生きることが阻まれている土地

国、エジプトです。

エジプトとは、ミツライム〜狭いと言う意味、狭い、悲しみ、苦痛

苦しみを体験する場所なのです。

本来の自分=神の性質通りの人の生き方ができない、異教の神々に

仕える王、偽の主人の元で生きていたのです。

 

エジプトが、敵対する国の代表として書かれています。

古代のエジプトです。そのエジプトにあった、偽の神々、10の災いで裁かれた神々は、どの国にも共通する神々です。

 

豊作、多産をもたらす神々。天体を拝む。その中心が、太陽神ラーです。これは、ローマ帝国皇帝が崇拝した太陽神と同じです。

どの国にも、太陽、万象を拝む信仰があるのは、太陽、水それらは

人に作物、経済を供給する源であると考え、神の創造物を拝み、

それらを造られた神を知らないからです。

 

エジプトには長居してはならなかったのです。430年。

この長い年月の間、神の教えを聞いた、ノア、アヴラハム、

イサク、ヤコブの子孫たちが聞いた、教え、福音が、薄れて、異教の神々の教えと交わったのです。

 

このエジプトから、本当の神の元に戻ることを教えているのです。

約束の地は、この世の地上での約束の地ですが、未来、天と地が

1つになり、神の国が地に到来するのです。

天と地、見える世界と見えない世界、元のエデンのように、2つの

現実を同時に歩むその世界が降りて来ると預言されているのです。

 

地上の旅路は、荒野の40年のイスラエルと異邦人が体験したことと

同じです。

見えない神を、見るがごとくに信頼し、生きることを学ぶ、それが

地上の旅路です。

やがて、顔と顔を合わせて神と 相見える日迄、見えない神=言葉に

根付いて、新しくされた人の事実を生きる、成長の旅路が与えられています。

初穂〜イエシュアに連なった人。それは、子羊の血で贖われて、

エジプトの王=偽の主人に繋がれた鎖を切られて、父の元=本当の

主人の元に戻った。

これは、エジプトに住んでいない人でも、イエシュアを通して同じ

父の元に戻った人には、全く同じ現実なのです。

過越〜子羊の血の代価が支払われた。これは、永遠の中に既に屠られたイエシュアの贖いが、地上で証明されたのが過越の祭りの日です。

 

 

続く