古い教え〜律法は廃れた!という異邦人の主張は、聖書のどの箇所でも、都合が悪ければ、終わり!と、人が判定するのですが、
それは、神の言葉、神ご自身に敵対する行為そのものです。
律法という、翻訳用語は、ヘブライ語の言葉の元の意味を正しく
反映しない言葉であることを理解しないまま、ヘブライ語のトラー=
神の教えを、ギリシャ語に訳された時、「ノモス」という多様性〜様々な違うことに対して使われる言葉を使ったのです。
翻訳というものは、本来の言葉をそのまま反映しない側面があるのです。翻訳だけ読んでも、元の意味が正しく伝わらない事が、起きるのは、言語を別の言語に置き換えるという、壁があるからなのです。
ヘブライ語の中には、解説をしなければ、通じない言葉がたくさん
あります。
日本語でも同じです。日本語の「わび、さび」などという言葉を、
英語では表せません。
日本独特の情緒や、その他の意味を表す言葉は、他国の言語では表せないものがあるのです。逆も然りなのです。
その場合、その言語の意味を、その文化の中で体験して行く上で
理解できるというものが、たくさんあることが、分かると思います。
英語や日本語で、「律法」という、神の教えに対して不適切な、
筋違いな翻訳が、施されてしまった言葉なのです。
不適切な言葉は、その実態とは違う思想を、人の頭脳に植え付けるものなのです。
物事の意味を、言葉が表すのです。その言葉が、物事の意味を正しく
反映していないから、人の中に間違った思想を植え付けているのです。
神は、親は、教師は、子供、生徒、人に、厳しい律法を押し付けて、違反をするか、しないか見張っている者ではないのです。
この思考回路、神〜厳しい掟、律法を与える怒りの神だ!
こんな思想を、西洋宗教は語りますが、神が伝える神の性質とは、
全く違うでしょう。
神が人に厳しい教えを、無理やりやらせる?怒りの神?こんな思想を教える人の思考回路こそが、神の考えと全くズレているのです。
こんな思想を語るのは、人間=異邦人であり、神ではありません!
神を、別ものの神の性質として、教えられている代償です。
詰まり、神に対して、それぞれが想像する歪んだ神像を通して、
聖書を読み、神という存在を考えているという問題があるのです。
怒りの神〜と唱えた人は、その人の思想の中には、神は恐ろしく、
怖い、そして、変化する神という、聖書を翻訳する、解説する人物の空想、思想が、翻訳の上に反映していて、その歪んだイスラエルの神像を、大衆に伝えてしまっているという点を、よ〜く考えてみてください。
だから、ヘブライ語のオリジナルの聖書、人が変えられない本物が
保存され続けているのです。一字一句、人間が手を加えられない
証拠を、神が与えた理由はそれです。
翻訳なら、なんとでも適当な言葉に変え、原本にない文章を加えたり、変えたりしても、翻訳聖書を読む人には、元の原典が分からないから、何が書いてあっても、分からないのです。
少なくとも、聖書を教える教師は、ヘブライ聖書を、正しく学び、
正しく理解し、人間の思想で、神の言葉を読み替えてはならないという、基本中の基本ルールを破らない!と言うことが理解できないとならないのです。
人の書いた書物でも、書かれたことを、全く違う人の思想で、
塗り替えた解説をすることは、違反と分かりませんか?
そのようなことは、当然しないでしょう。
著作権侵害、違反行為であり、それは罪です。
聖書に対して、神の言葉を、人の思想で塗り替えた解説をしている!
その原因は、4世紀のローマ帝国、神が警告した、反キリストは、
神の教え=トラーと、神の創造されたモアデイム=時を変える!
という意味を、それを読む人に、正しく通じないままなのです。
紀元前2世紀のギリシャ帝国で、神のトラーを生きることを禁じ
処刑した!その反乱がマカバイ戦争であり、ハヌカを祝う根拠である
のです。そして、ローマ帝国も同じように、神の言葉、トラーと
記念日をごっそり変えたのに、その事実は、クリスチャンには、教えられていないまま、神の言葉を変えたのは、神ではなく、人間である事実が、全く通じないまま、ユダヤ、古い、悪い教え程度に考え、
昇天以降は、新しい教えに変わった!などという、大偽情報にすり替えられて、今日に至るのです。
人は、誰かの語る人物像により、その人とは違う人物像を植え付けられるでしょう。
人の噂。この間、兵庫県知事の一連で、斎藤さんに対して、とんでもない嘘八百の証言を、彼を潰して追い出したい悪者達により、
語られた嘘、それが拡散され、多くの人が、その嘘を信じたでしょう。
それと同じです。蛇の作戦は、神の言葉を歪め、潰し、人に神の言葉を疑わせ、神の言う事なんて聞かなくて良い!という思想を刷り込んだではないですか。
これを、西洋宗教の教え〜神の言葉、神ご自身、イエシュアご自身である言葉に対して、ずっとやり続け、神の言葉、教えが廃れた!と
世界に拡散すること、それが恵、十字架で成し遂げられた解放!
などと、とんでもない勘違いの教えを、拡散し続けてきて、
今、神の創造を壊す、LGBT、人が神の罪の定義を捨て、それぞれが考える、教えや、記念日を通して勝手に神に近づくことをし続けているのに、その違反に、気が付かない。
それが、正義!今の時代の新しい礼拝!などと考えているのです。
神が言われることを捨てよ!無視せよ!無効だ!と主張し、神の教えに違反した行動する。聖別を汚し、神のモアデイムを汚し、肉体を
汚し、汚れたものを平気で頭脳に、体に取り込む生き方を、人に堂々と教える。
酷すぎませんか?こんなことを、言い続けて、神の性質とは違う
変化する、多面相の偽の神像を人が語り、神の教えを生きない。
人が、神の教えに対して、どれ程迄に、でたらめを言い続け、
神の教えを否定した宗教や、その他諸々言いたい放題、やりたい放題し続けても、神はいきなり乗り込んで来ません。
忍耐の神だからです。神は人とは違うからです。
神の家の中に、人間が考えた生き方、構造、しきたり、やり方、宗教を持ち込み勝手にやる。
これ、偶像礼拝であり、シナイ山のふもと、シャブオートの時に
別物、人間の思想、エジプトの太陽神のシンボル、金の子牛を作り、
それを通して、イスラエルの神を拝み、エジプトから引き出した神であると宣言し、そして神の祭り〜ハグを祝ったのです。
この偶像礼拝の結果、3000人が死んだのです。
今偶像礼拝をしようと、LGBTを生きようと、死なないから関係ない!と思うなら、神の警告が分からない、神の忍耐を理解していない
だけなのです。
出エジプト32:4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を
造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、
これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。
そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。
32:6 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。
神の教えが律法、廃れた、異邦人には関係ないという勝手な主張は、
人間が人間の判定で、神の教えのどの部分を変えても、それが罪
違反、神に対する敵対行為であるとも、気がつけません。
親は、子供の安全を守る為の全ての教えを、伝えるのです。
神の教えがなければ、世の中、カオスです。
事実、神の教えを捨て、神の言葉を、人が塗り替えるから、異端思想は、次から次へと絶え間なく、無制限に出現し、何が神が伝える
真実なのかも、聖書を読みながら、理解出来ない、識別もできなくなってしまっているのです。
神の聖別を破り、神のモアデイムを汚し、なんでも無差別に食べる、何でも頭脳に、体に受け入れて、取り入れる。
神の言われることとは違うことを、人がやっても良いという教えが
伝えられているのです。それが今も後を絶たないのです。
元=ローマ帝国、人間製造の西洋宗教自体、聖書ではない偽物の教えの種が、ふんだんに植っている土台〜人が作った宗教なのです。
神の言葉を終了!という反モーセの五書、反ユダヤ思想から出来ている、人間が作った宗教だからです。
ユダヤ〜古い、悪い、律法主義だ!と頭に浮かぶのは、そのせいです。
神=言葉=イエシュア=律法=古い=廃れた=悪いと考えますか?
クリスチャンでも、多くの人が律法主義的な思考回路に陥っているのに、全く気がついていないのです。
人間の作った宗教活動に、大事な時間と労力、経済を搾取される事、
これこそが、律法主義を生きること、そのものです。
律法主義、イコール、神の古い教えを生きる事と、私は教えられましたが、そんな聖書とは違うことを、平気で普通に教えているのです。
神を愛する人は、神のトラー、仰せを生きる!とイエシュアが
申命記を引用しても、その意味に全く気がつけないままでした。
神を愛する人は、神の教えに敵対し、好き勝手に、神の教えを
自由自在に、捨て、削除、仕分けて、変えて、つまみ食い信仰OK、
人が作った宗教活動に熱心になる事が、神を愛する証拠だ、証明だ。
神の創造された記念日は古くて悪い律法なので、代わりに人が4世紀に作った記念日を祝う事、それって何なのでしょうか?
そんなことをしろと神が、言われたのですか?それが聖書に書かれている神であると信じているなら、それは聖書に書かれた、イスラエルの神ではなく、ローマが作った偽物の神の思想そのものです。
神に贖われた人は、神の元に戻った、神の内側に戻った。
新しい人とされた。それが福音です。それは、神が一方的に
成し遂げて下さったことで、エデンの園の中から同じなのです。
その事実を得た人は、神の家に相応しい聖別された生き方をして、
異教徒の中に生きていた時とは、同じ生き方はしない。
神の創造した神が呼び出している日も、人間が今は自由に変えて
良い!今は、いつでも安息日?それでは、境界線、聖別の意味が
消えます。神ではなく、人間が神になり変わります。
イエシュアは日曜日の主ではありません!人の子は、シャバットの
主であると、宣言されている意味を、正しく理解しない人の思想にすぎません。
神が呼び出した、神が創造された記念日全て捨て、代わりに、
4世紀にローマ帝国コンスタンチヌス達が作った代替え、偽物、
別物、人由来の記念日をどうして、神から出たものであると考えるのか?聖書に書いてもない事なのに。その方が不思議です。
イエシュアが教えて、生きて、祝ったのは、何か、知らない人が
主張しているだけです。
全部大嘘なのに、本当に、これほどまでに長い間、大衆に嘘が本当と受け入られて、そして、今もそれに気がつかないままいる。
イエシュアに出会った後、聖書を読むけれど、教えられる教えは、
聖書に記された通りではない、人間の教え、教理で曲げられた教え
プラス、聖書の大部分を学ばないまま、勝手な解説を施されて
しまっているのです。
こんなことは、普通の一般の世界では、あり得ないことなのに
宗教の世界では、OK。教皇が、世界に向けて、平和に関する聖書からの解説が、聖書ではない解説をしているのを聞いて、こりゃダメだ!と分からない人には分からないのです。
1)古い教えは廃れた 2)ユダヤ人だけ生きれば良い教えなので
異邦人には関係ない 3)今は神の言葉ではなくインスピレーション、それをレーマが与えられたなどという思想。
神の言葉から、人の意識をありとあらゆる方法で、逸らす思想です。
神の言葉から汲み出すから、聖書を読んでいるのではないですか?
確信は、神の言葉に根付かなければ、それは証拠無しのものです。
個人、個人が、神から与えられた確信は、その人のものであり、
神との対話なのです。
それは、日々、神の言葉を考える中で、神が教えるのです。
神の言葉は生きている!神そのものと理解できないなら、
それは理解できないことです。
感情、高揚感ではなく、神が語られる事を、感じなくても信じる
それが信仰です。
祈りとは、ヘブライ語では殆どが、テフィラという言葉で書かれています。神の祭壇の前で、しみ、傷、欠陥がない、コルバン〜イエシュアにより新しくされた人の事実から、神と対話することが、教えられているのです。
その意味は、神の考え、言葉と照らし合わせて、神の考えにピッタリ軌道修正することであることが、ヘブライ聖書、神の家の中の、
神の祭壇の前で行われることで、教えられているのです。
ゴリ押しで、自分の願いが叶うまで、祈り倒すような教えをされて
友人も、「祈り勝ち」などと、常に言っている、その言葉にとても
違和感を覚えていました。
祈りが聞かれないと、信仰が、悪い!と責められる。
85歳のおばあちゃんが、具合が悪いのは、祈りが足りない、
信仰が足りない!と責められる。これが、宗教の教えなのです。
カリスマ、ペンテコステ、後の雨運動、新使徒運動、リバイバルetc etc etc 全部,人造宗教が作ったムーブメントであり、聖霊ではない。なぜなら、土台が、神のトラーではなく、神のトラーを否定した
宗教の教理、思想だからです。
神の言葉に照らし合わせて、それが真実であるか、ないか。
神は、神の言葉から語られているのです。
その事実が、見えない場合、ありとあらゆる、思想、ムーブメントは
編み出され続けて行くのです。