異邦人クリスチャンの中で、神学的思索の中で、唯一間違った方向に導かれた領域は、トーラーに関しての学びです。
実際に、福音派の聖書大学と、神学校では“トーラー”に関しての学びの分野が、全く無いのです。
ヘブライ語聖書を、神学校で学ぶことはないです。イントロだけ。
その後、ヘブライ聖書を、ずっと学び続け、ユダヤ人のような聖書を理解をする教師は、いないです。
「聖書」と呼ばれるものは、その中心、土台は、
「神の言葉=契約=教えの完全版であるモーセの五書」なのです。
異邦人の世界で教えられた聖書、聖書観は、聖書ではない、
人の思想で曲げられた聖書とは異なる思想であることは、
調べれば分かります。
人の思想を混ぜて、神の言葉を否定する、反ユダヤ
反モーセの五書思想を土台とした宗教など、ローマ帝国は4世紀に作ってはならなかったものですが、ローマにより違反行為が行われたのです。
そして、いつのまにか、ローマ帝国の迫害、処刑、モーセの五書
神の教えを生きることを、帝国の勅令で禁じ、違反した人は処刑したことなど、伝えられなくなったのです。
ローマ帝国自体が崩壊し、そして、人を支配する宗教階級システム
が、継続され、人が神の如く、人を操作、支配するシステムの宗教が
ずっと継続され続けてしまったのです。
最初はローマ帝国が、帝国下に住む人を支配、操作、統治するための宗教を作ったのです。だから、階級システムなのです。
リーダーには、決して物申せない!絶対服従!
皇帝、教皇、司教が神とイコールの権威を持つように教えられているでしょう。
これは、プロテスタントの中にも、浸透している思想なのです。
先生は、神に選ばれた特別な絶対的権威であると主張し、意見など言えないのが、普通でしょう。
知らない間に、人が人に支配、操作される、それが宗教なのです。
正しい聖書教育の欠如は、異邦人の中にある、否めない欠損なのです。
人間が作った宗教は、聖書ではない教えを様々に唱え続けています。クリスチャンの間には、神が神の言葉を十字架で処分したという、嘘、偽情報が、神の語る真実の如く浸透し、恒久化してしまって、
今に至っているのです。
事実、現実から考えても分かると思います。
一般の学問、学術の世界で考えても分かる通り、その分野に精通する
学者、専門家は、その分野を深く教育、探究し続けている人たちです。
芸能の世界で言えば、日本の伝統芸能、歌舞伎など、代々受け継がれて来たものは、その世界で学ばない人には見えないことがたくさんあります。
これは、音楽でも美術、スポーツ、その他のどの分野でも同じ事なのです。
ローマ帝国支配下で、それ以前のギリシャ帝国同様、神の教えを
生きることを、禁じられていたのです。
ユダヤ人には何を言って無駄、処刑されても、神の教え、契約を
ガードする人達でしたが、帝国による弾圧はずっと続いて行ったのです。
イエシュア昇天以降、預言された通り、70年に、ローマ帝国による神殿崩壊があり、その後、エルサレムはローマ帝国に乗っ取られ、
ユダヤ人は、追放され世界の四隅に散って行った歴史の事実を考えても明らかです。
その後、異邦人に対しても、神の教えを生きる事を、禁じることが、及んだのです。イエシュア信者が増えて行ったからです。
神を信じる、イコール、ローマ帝国皇帝、帝国の勅令に忠実ではないという、危険因子だから、徹底的に支配、操作するのです。
歴史の中で何が起きたのか、自分で調べてみれば、分かるのです。
そして聖書信仰と言いながら、神の言葉の大部分を人間が否定する
思想、教理が、異常である!と聖書から、気が付くべきです。
ある箇所だけ信じて、他は全て捨てる、その実践は聖書信仰などとは言いません。プロテスタントは聖書を完全、丸ごと、神の絶対的言葉とは、実は信じていませんし、そのように、実際に神の言葉を取り扱ってもいません。
主張と、実践が完全に矛盾していることに、多くの人が、気がついているのです。それは、神の言葉=神ご自身=聖霊が、聖霊=神が人を
通して、記された言葉から、明らかに分かるからです。
盲目〜神は永遠に変わらない!という神の言葉を、変わる!と言い、
人が神の言葉を言い換えている。
これが、洗脳、盲目状態というものなのです。
実際に聖書を読み、神の言葉を通して、考えれば良いのです。
安息日〜シャバットを、聖なるものとし、ガードせよ!と神が
言われても、クリスチャンは、その神の言葉を捨てているのです。
しかも、安息日は、日曜日、主の日、聖日と、聖書に書いてもない
神が聖別もしていない日を、聖別した!とローマ帝国が決めた日を
勝手に神になり代わり、言い換え、主張する。それは聖書では、
嘘、偽証というものであり、神に対する罪、冒涜なのです。
神の言葉を言われた通りに人が聞かない態度、イコール、それが不信仰
なのです。罪の根そのもの。人間が主体。神を都合よく、利用する。都合が悪いこと、自分に納得いかない教えは、全部無視。又は言い換える。
イスラエルの神は、ご自身が紹介されている通り、神が言われた言葉や教えを、歴史の途中で、嘘つきになり、撤回などするような矛盾はされません。聖書だけに基づき、神が言われたことを、その通りに
受け取れば良いのです。
イエシュア、メシアが地上に来られて、神が神の教えを撤廃、
変え、別物を生きる時代になったという聖書ではないことを、
教えている、そのような教えの方こそ破棄しないとならないのです。
今の時代に、嘘が剥がれて、神の言葉から、真実に気が付く多くの人々の
目が開かれているのです。神の言葉の真実に、気が付かない人、
気が付く人がいる、どの時代も全く同じなのです。
今迄は、聖書ではない、違う教えが爆発的に浸透して来たのです。
そして、聖書を教える教師を選べない、聖書を正しく教えているのか、いないのかさえ、判別、判定できない、探せなかった。
しかし、今の時代は違うのです。
間違った聖書教育、聖書ではないことを教えられてしまった修正は、
聖書〜神の言葉に戻り、書かれていることを、正しく学び直す以外に
修正は出来ません。
誤情報を、削除し、正しい情報=神が伝える永遠の真実に入れ替える作業が必要なのです。
少なくとも、ユダヤ人ラビとなる人達が学ぶ内容の三分の1は、
福音派と呼ばれる一般的なクリスチャン達には、学ぶものとして全く考えられていない、認識もされていない、よって学んでもいないものなのです。3分の1よりもっと多い量だと思います。
事実、異邦人の中で、モーセの五書、預言書、諸書を、ユダヤ人の
ように、ヘブライ語で記されている内容を、正しく理解し、そして
オリジナル言語から、満遍なく学び、1つ1つ教えるような教育は、異邦人の中には、どこを見渡しても、今迄は、そんなものは全くありませんでした。
異邦人の間で、満遍なく、モーセの五書を学び、預言書や諸書を解説するような聖書解説など、一度も聞いたことなどありません。
ある聖書箇所を取り出して、その箇所を、その解説者が、
自分の考えを、聖書に語らせるようなものばかりしか、ありません。
聖書の性質、事実に根付いて考えてみるのです。
完全版の教科書があり、その他は全て、その教科書の解説書なのです。
神の言葉の完全版は、モーセの五書です。
神の口から直接出た言葉を、預言者モーセが書き記したものであり
それが、神の聖別された人、神の大家族に与えられた「契約書」です。その契約を受け取った代表が、ユダヤ人なのです。
聖書は、モーセの五書以外のどの書も、どの箇所も、100%
モーセの五書を解説しているものなのです。
この理解は、異邦人クリスチャンの間には、全く無いものであり、
代わりに、人間の作った、神の言葉を曲げた教理=神の教えは廃れた
又は、異邦人には今は無縁の教えだ、もしくは、個人が自由に神の
教えを選べる、いや、古い律法を生きるな!という声の方が大きいのです。
神の教え、言葉は、永遠に変わらず、廃らず、固く立つと言われて
いるのに、イエシュアを信じる人が、神の言葉=イエシュアご自身である言葉を、真っ向から拒絶している、異常事態なのです。
イエシュアを通して、父の元に戻った人は、全て血筋に関係なく
神の者とされ、聖別された人です。それらの人は、この世の礎が
創造される以前から、神により既に選び取られて、聖別されていたと
パウロが書いているのは、モーセの五書に記された事実を話しているのです。
永遠の中、神が設けた、植えた、人が住まう場所は、神ご自身の中であり、人は、神ご自身の中に設けられた「園」に、住まうように造られたことが、書いてあるからです。
これは、ヘブライ語ではない、翻訳では見えないものなのです。
言語が表す事実があるからです。
パウロは、自分の意見や、神の言葉とは違う教え、神の言葉を変えたり、否定したりする解説は、パウロの手紙の中で1つも書いてない
事実を、はっきり理解しない場合には、パウロの書簡に対して、
内容を逸脱した、勝手な空想解説を施し続けてしまいます。
現実に、それがずっとされ続けて来たのですが、言語の意味、
そして内容、当時の人が誰でも理解していた慣用句、当時の人の間にあった宗教的な内容を知れば、パウロが解説している本当の意味が、
クリアーに理解できます。
詰まり、間違った聖書解説ばかりが施されて、偽情報を聖書だと
勘違いする教えが、浸透してしまったのです。
どおりで異邦人イシュア信者達が、メシアを知らないユダヤ人達と
共に集う時に、ほんの少しの内容しか語り合う事が出来ないのです。
聖書を知らないからです。メシアを知っている、知らない、両方の
ユダヤ人は、異邦人より遥に正しい理解をしている、知っていることを、覚えておいた方が良いです。
中には、ズレた思想を信じて語るユダヤ人もいますから、全てのユダヤ人ではありません。
ガマリエルのように、又パウロのように、聖書の正しい理解をしたら、メシアがイエシュアであると分かれば、その時点で、理解の点
が繋がり、正しく神の教えを、教えることができるのです。
彼ら、イエシュアがメシアであることを知らなくても、正しく神の
言葉を遥かに深く理解している人が大勢いるのです。
トラー学者であるメシアを信じるユダヤ人が、クリスチャンが
トラーを理解する必要に目覚める事を明確にしないとならないと
主張しています。
異邦人クリスチャンは、この課題〜神の言葉を知ることに関して、
道から遠く遠く外れてしまいました。イエシュアが教えた教え、
契約に根付く生き方、イエシュアが祝って教えた、モアデイムを1つも知らないというのは、考えたら異常なことなのです。
今日、最も緊急な神学的な課題は、トラーに対する見解を正しい位置に戻さなければならない事です。
このような認識も、自覚もないのが一般的なのです。
イエシュアが教えて、生きた実態は、父の教え=モーセの五書に
記された教えであるという理解さえ、正しく根付いていないのです。
その代わりに、こう教えられてしまいます。
「成就したから、もう神の古い教えは、終了!」
このような、聖書に反することだけを教えられ続けるから、世界には
異端思想の教え、そこから派生した、人間が考えついた様々な運動
ムーブメント、偽教師、偽預言者、偽使徒が、続出し続けているのです。
聖書が、ヘブライ語で書かれた事実にも、気がつけない程、無知
だったのですが、アメリカでも牧師が、聖書はキングジェームス版が
本物だと思っている人もいるのです。
欽定版と日本語で言いますが、英語は、「ジェームス王版」です。
英語では、ヤコブの手紙が、「ジェームスの手紙」という
タイトルですが、これイギリスの国王の名前を付けたのです。
ジェームス国王1世にちなんで付けた名です。
聖書は、西洋人が書いたものではない、西洋人の名がつけられる書
ではないのです。
詰まり、異邦人の手により、、古い教えと新しい教えがあるなどという、聖書に対して間違った概念を植え付ける不適切なタイトル
旧約聖書、新約聖書などと付けられてしまったのです。
そして、神の言葉を終了、破棄したと、内容を逸脱した聖書解説が、平気で施され続けて来たのです。
金曜日のシャバットを迎えましたが、友人や親戚と楽しく過ごしましたが、皆クリスチャンですが、シャバットが何かも、もちろん知りません。ホストは、私だったので、全て準備し、楽しい一時を過ごしました。
イエシュアは、シャバットの主、人の子は、シャバットの主と
言われたのは、イエシュアは、ローマの記念日の日曜日の主ではないからです。
神ご自身が創造された時、モアデイム、その意味、実態の中心が
イエシュアだからです。
神が備えた全て、神の中に住まうように造られた人が、園、エデン
喜びと名付けられている、その喜び、歓喜の実態に住まうことを、そこに戻る事を
シャバットを通して教えているのです。
聖書を正しく教える教師はそう多くありません。皆、人間の思想
教理をインプットされ、神の言葉が絶対であるという理解がないまま
聖書を曲げて、解説します。
そして、神の教えは、ユダヤ人と異邦人に対して同じであるという
理解がない人たちが、聖書を教えてしまうからです。
しかし、神が言われることを、その通りに注意深く読む、聞く
考えれば分かることなのです。
神は家族という人に分かる形で、神ご自身との関係を教えています。
人には、住まう家がある。家族がいる。夫婦、親、兄弟、親戚、
仲間、コミュニテイ、その大きな形が国家です。
神の実態が、地で反映、映し出されるのは、神の性質通り、神が
伝える生き方をする人を通して、目で見える形で環境に現れ出るのです。
神に聖別された人は、偽物、偶像=ローマの神々、宗教を生きて地上に写し出してはならないのです。それは、イエシュアの実態とは違う、別の影を地上に勝手に表しているのです。
先祖代々、神の教え、言葉に根付いて生きて来たユダヤ人には
馴染みあることでも、異教の神々の教え、宗教、実践に根付いた
異邦人には異物の生き方がたくさんあります。
イエシュア、ユダヤ人メシアを通して、父の元に戻った人は全て
同じ「イスラエル」という名字を与えられた、同じ家族のメンバーです。血筋はユダヤ人の血が入っていなくても、混血でも、同じ家族
天の同じ祝福を受ける共同相続人になったとパウロが言ったのは、
トラーモーセの五書に記された、神が教えた事実だからです。