神の永遠普遍の言葉を人間が覆している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書の中で、「聖書」と指して語られている箇所は、モーセの五書、預言書、諸書だけです。

マタイ〜黙示録を指して、聖書では聖書と語っていません。

誤解を与えるといけないので、事実に基づきよく考えて下さい。

マタイ〜黙示録が書かれている時は、特定の人しかそれを読んでいません。しかも使徒の書いた手紙、書簡なのです。

1世紀の人は聖書は、「トラー、預言書、諸書」と認識しています。

使徒の書いた書簡は、ずっと後5世紀以降に聖書の最後の部分として

認められたものです。

その箇所には、トラー、預言書、諸書とは別の教えなど書かれていません。

1テモテ1:6 ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、

1:7 トラーの教師たることを志していながら、自分の言っていること

主張していることも、わからないでいる。

1:8 わたしたちが知っているとおり、トラーなるものは、法=トラー

神の言葉通りに従って用いるなら、良いものである

 

2テモテ 3:12 いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。

3:13 悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。

3:14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、

いつもとどまっていなさい。

<学んだ事、イコールそれが聖書に書かれた事実通りではないとならないのです。それがある前提で、神の語る真理に留まり、そこから

先また、神が教える更に深い様々な教えを知って行けるからです。>

あなたは、それをだれから学んだか知っており、

だれからトラーを学んだか、ここではテモテは母ユニス、更に

祖母のロイスから、モーセの五書、預言書、諸書、ヘブライ聖書

教えられたのです。聖書を捨てる思想を語る、勅令を土台とした、

ローマ皇帝が4世紀に作った西洋宗教の教えではない!!!>

 

3:15 また幼い時から、聖書=モーセ、預言書、諸書に親しみ、

それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、

あなたに与えうる書物であることを知っている。

3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、

人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な

準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

この箇所でパウロがテモテに語っている事を正しく読み取れば、

何が書かれているか分かるはずです。

聖書には、異邦人の間に浸透したような、今のような西洋宗教の教えを考えている人は一人もいません!

全ての人が、ヘブライ聖書、トラー、預言書、諸書だけを学び

その中に神の教えが書かれており、福音〜メシアにより神の元に

戻され、新しくされ、聖霊を与えられ、神のものとなった事実が

書いてあるのです。それは、エデンの園から同じなのです。

そして、クリスチャンの世界で、神の古い律法は廃れた!という

定番の教えは、神が語る事実などではありません。

パウロは、神のトラーは、聖霊=神ご自身のにより語られ、預言者を

通して、ヘブライ語で記されたのです。その神の教えは、人を教え、戒め正しくし、義に導く有益なのもの!とトラーを指して解説しているのです。

それを、異邦人は、トラー=古い、悪い、廃れた、人を縛る、

メシアが来られる迄の暫定的、一時的な教えだ!と、聖書が語る

事実とは真逆の人間の思想を主張し、浸透させ続けて来たのです。

イエシュアが教えた父の教えなど、知らない!教えてもいない、

生きてもいないのです。

それらの人の思想は、真実ではない事は神の言葉、聖書が証明して

いるのです。

しかも、神の教えの完全版は、モーセの五書しかない!という事実を

聖書を教える人が正しく認識さえしていない、こんな大きな間違い、

落とし穴、大問題があるのです。

聖書に登場する人、預言者たち、一般の人、トラーを知る人は

そのような歪んだ思想を持っていませんでした。

神の教えに根付いて生きて、完全に整えられた人になる事ができると

パウロが書いているのに、その神の教えを捨てよ!破棄せよ!異邦人には関係ない!と、正義の如く主張する。それは、キリストが来て

古い悪い人を縛る教えから、解放し、自由と恵を与えたからだ〜!

と意味不明な思想を語るからです。

 

これは、正しく理解しなくてはならない重要な点なのです。

なぜなら、クリスチャンの間に浸透してしまった思想は、

マタイ〜黙示録が、最初の聖書の箇所の75%、トラー、預言書、

諸書=タナックとは違う、改善された今迄聞いた事のない新しい教え新しい福音、古い箇所を削除、破棄、又は人間の考えで仕分け、

選り分け、勝手に取り出して良いという教えが書いてあると完全に

勘違い誤解、間違った聖書解説をしているからです。

 

ユダヤ人で、トラーを家庭で、学校で教えられて来た人が、マタイ

以降を読めば、そこには、トラーが記されている事は、クリアーに

理解出来ます。

クリスチャンが、マタイ以降を読んでも、トラー=モーセの五書が

書かれている!などという理解には決して至りません。

なぜなら、最初から、聖書に聖書とあるタナックの部分を知らないからです。

福音とは、永遠の中にある子羊の血の購い、イエシュアご自身、

生ける水が、エデンの園=神の内側から外側に飛び出して、

迷い出た人たち、一人一人のところへ、イエシュアの方から来て

元居た場所=天=神の中=エデンの園の中に引き戻して下さった。

新しくされた人、以前の自分はイエシュアと共に水=墓場の中で

死に、胎の中、生ける水、命を与える水=イエシュアを通して

新しく生まれ出た、それが、イエシュアのされた業です。

その事実が、創世記の最初からずっと記されているのです。

 

後書きを書いている場合、後書き自体を指して語っているのではなく、教科書、神の言葉の完全版、本編、モーセの五書、モーセの五書を解説している預言書諸書を指して語っている事実に気がついて下

さい。

パウロは自分の勝手な発想を、書いているのではありません。

ヨハネの冒頭にも、創世記に記された事実を解説しているのです。

パウロは、なぜこのような事を言ったのか、創世記の最初を

パウロは解説しているのです。

 

ローマ1:19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。

1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、

天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。

 

創世記の冒頭に、最初に、ベルシートと神が発した言葉は、

永遠の中に、神ご自身しかおられず、最初からずっと神だけが人に

神ご自身、神が創造された時、世界、創造物を語るから聞いて!

と書いているのです。

そして、目に見えない天、それを霊的と呼ぶのでしょうが、

目に見える世界と、目に見える世界は、ぴったり一体なのです。

神は霊です。だから、肉の目には見えない。神の性質通りに物理的にこの世界が造られて、天の現実が、目に見える形で造られたのが

この世界なのです。神の中に「園」人が住まう場所が、物理的な世界が創造される以前、最初に造られたそれが書いていあるのです。

創世記2:8

だから、天の見えない神の性質、神の麗しさ、究極の美、喜び

それらを、神が物理的に創造された世界で目に見えない神の現実、

性質、実態を目に見える形で地上に反映させ、造ったとあるのです。

それを人が見る時、神の創造物を通して、神の性質そのもの、品性

実態を見る事をしているから、誰も神がいない!という言い訳、

弁解の余地がないと書いているのです。

パウロの勝手なうんちく、思想を述べているのではないのです。

どの使徒も、預言者が記された神の言葉、トラー、預言書、諸書を

解説しているのです。

最初の部分が分かると、タナックの何を、マタイ以降で解説しているのかはっきり認識できます。

それでなくても、はっきり書いてあるでしょう。

イエシュアが復活された後、過越の祭りから、次の祭りのシャヴオート迄の7週間、穂を数える7週の間、何度も弟子達、人々に現れ出た

事が書いてあります。

エマオの途上でイエシュアが弟子達に現れ、タナックに記されている

イエシュアの事実を弟子達が正しく理解していなかったから、

再度、イエシュアはタナックから詳しく解説したと書いてあるのです。

新約聖書から解説?そんなのはゼロです。それは存在していない

昇天以降、ずっと後になって記された使徒の書簡にすぎないからです。使徒の書簡は、モーセ、預言書、諸書の短い引用、そこに書かれたイエシュアがされた業、その事実を解説しているだけだからです。

 

ルカ 24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

 24:44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。

すなわち、モーセのトラーと預言書と詩篇とに、わたしについて

書いてあることは、必ずことごとく成就する」。

24:45 そこでイエスは、聖書=モーセのトラー、預言書、諸書

悟らせるために彼らの心を開いて

24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて三日目に死人の中からよみがえる。

 24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、

エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

 24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。

 

イエシュアが来られて木にかけられて、神のトラー=聖書がそのまま

処分されたというキリスト教の教えに照らし合わせると、

イエシュアが言われた事が、辻褄合わない、イエシュアの言葉の方が

間違っている事になってしまいます。しかし、そうではなく、

人間が編み出した聖書を曲げる思想こそが、木にかけられ処分されなくてはならないものであることを、聖書から理解しなとなりません。

木にかけられた時点で、神のトラーが処分されたと言うならば、

なぜ復活されたイエシュアは、トラー、預言書、諸書から弟子に

教えられているのですか?永遠普遍の神の言葉を塗り替える、

人間の編み出した嘘、大変な矛盾に気がついて下さい。

 

一般的に浸透した教えはこのような事です。

1)十字架で神の教えが破棄された コロサイ2:4

2)神の教え=律法から解放され、文字ではなく霊に仕える聖霊時代になった。ローマ7:6

これらの聖書解説は、100%神の教えではない、人の思想=神の

トラーは廃れた!という事を主張したローマ帝国の勅令を土台として

聖書解説をしている間違いがあるのです。

 

ローマ7:1ー6

兄弟たちよ。私は律法を知っている人々に言っているのだが、

律法というものは、人が生きている間だけその人を支配するという

ことを、知らないのか。たとえば、夫のある女は、夫が生きていれば

律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、夫の律法から

解放される。

したがって、夫の生存中に他の男に行けば、彼女は姦淫の女と呼ばれる。しかし、夫が死ねば、彼女はその律法から自由になるので、

他の男に行っても、姦淫の女とはならない。

私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたもキリストの体を

通して律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、

すなわち死人の中からよみがえられた方に結ばれ、神のために実を

結ぶようになるためである。

私たちが肉に従って生きていたときには、律法によって引き起こされた罪の情欲が、死のために実を結ばせようとして、私たちのからだの器官の中で働いていた。

しかし今は、私たちを捕らえていたものに対して死んだので

私たちは律法から解放され、その結果、古い文字(書き記された規定)によらず、新しい霊に従って仕えているのである。(7:1-6)

 

ここで私たちは問わねばなりません。「肉に従って生きていた」

イエシュアを通して、父なる神の元に戻らないままの状態であった

間に、私たちを捕らえていたものは何でしょうか?

その答えは、前の6章に立ち返ることで見えてきます。

 

私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、

罪の体が滅ぼされ、私たちがもはや罪の奴隷となることがないためであることを、私たちは知っている。

すでに死んだ者は、罪から解放されているのである。

もし私たちがキリストと共に死んだなら、またキリストと共に生きることを信じる。

キリストは死人の中からよみがえらされたので、もはや死ぬことがなく、死がもはやキリストを支配することはないと知っているからで

ある。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたので

あり、キリストが生きられるのは、神に対して生きられるのである。(6:6-10)

私たちは罪、すなわち「古い人」あるいは「肉」(自分勝手な道、

自らの邪悪な傾向、罪の性質に仕えること)によって囚われていました。

かつては「死」が私たちを支配していましたが、今や私たちは

「自分を捕らえていたものに対して死んだのです。」(7:6)

すなわち罪に対して死んだのです。

パウロは、6章と全く同じ思考の筋道をここでも展開しています。

6章において「トラー(律法は誤訳)」という言葉が、聖霊を受けていない人の中で背きを増大させるという(多くの目的の中でも、確かに否定的な側面としての)トラー(律法)の力を指していたのと同様に、ここ7章においてもパウロはトラーを同じ意味で用いています。

 

そして、既婚女性の比喩を通して、私たちがトラーの「ある側面の

目的(役割)」から解放されたことを示しているのです。

もはやトラーに記され、教えられている罪の事実、罪の奴隷状態が、私たちの内に背きの増大を生じさせることはありません。

パウロは、この手紙の随所で見られるように、自身の言葉が

「反モーセの五書、反トラー、神の教えを否定している」と解釈されかねない時には、すかさずそれを予測し、反論しています。

パウロは、自分がトーラーに記された神の民への教え(神の指示)に反対しているわけではないことを、断固として証明しているのです。