永遠の中に存在したのは、神ご自身だけです。
そして、神の中に園が設けられ、神の中に人は住まうように造られている事を、最初から教えられているのです。創世記2:8
そして、神の性質は、エハッドであると教えています。
1つ以上で全く一つ。そこには、分裂、分離、隔たり、離れ離れ、
乖離はない。その状態こそが、エデン=歓喜=喜びの源泉そのものであることを教えているのです。
人は、そのような状態、環境の中に生きるように造られているのです。
分裂、分派、隔たり、無視、交流がない、そのような状態の中、
喜びなどありますか?無いでしょう。
体験的に分かるではないですか。それなのに、宗教、人が作った教えは、神の語る事実、性質を知らないまま、勝手な分裂思想を作り出し、神の言葉を2つに分断、ユダヤ人と異邦人は別の家族!別の教えを生きる!天と地で永遠に別れて統治する!これ、ユダヤ人のメシアニックの人も、そのように主張する人がいて、異邦人を追放しているのです。
詰まり、多くの人は、神が語る事実、トラーを正しく理解しないまま、自分の思想を編み出し続けて、勝手な教えを作り続けて人に
拡散しているのです。こういう事です。聖書に書いてある事を
自分流に受け取り、考えている。聖書に何が書いてあるのか、先ず
書いてある事実通りを知る!それをやらないのが、西洋宗教です。
なぜなら、最初から、信仰の土台が神の教え廃れた!という大嘘、
砂の上に建てている思想、宗教だからです。岩=イエシュア=神の言葉の上に、信仰の土台を据えて、それを生きる!と教えている。
ここで、理解しにくい事を、よく考えてみてください。
見えない神と、見えない神の国、天と、そしてその後物理的に
この地上の世界が、見えない世界をそっくりそのまま反映するように造られたのです。
神の創造された世界は究極の美そのものです。天、神ご自身がそうだからです。それを物理的に造られた人間は、五感を通して、神の世界
環境を体の中に取り入れるように造られたのです。
耳、目、鼻、口、頭脳、肌に触れる感覚を通して、神の創造された
世界を自分の内側に取り入れるように造られました。
だから、神が禁じている事、それは生き方の全てにおいて、神に属さないものは、人の体、頭脳には取り入れない!シンプルな事実でしょう!
それを無視したのが、アダムとハヴァであり、同じように神の言葉を捨てよ!と教えられた人は、神の言葉に違反した勝手な思想、生き方
つまみ食い信仰をして、神に何を教えられているのか知らないままなのです。神の禁じられた事を、堂々とやる生き方。
天と地と一体であり、最初の人は、天と地を両方同時に存在して
生きるように造られていたのです。
創世記2:8は、永遠の中、神の中に園を設けて、人が神の中に
住まう事をされたことが書かれているのです。
そして、物理的な世界が現れ出たのは、創世記2:15で書かれて
います。物理的な世界、神が造られた麗しい美そのものに囲まれた
そのような環境、そして神ご自身の中に住まうこと、エデン、
喜び歓喜の中に人は住まうように造られていたのです。
本来の性質とは、違う性質を生きさせられると、そのエデンが死にます。
神に言われたことは、このエデンの中にある全て、たった1つだけ
食べてはならないのは、知識の木の実だけと言われました。
人類の問題は同じ、宗教が編み出される違反も同じ。
神の言葉ではない、神の言葉は十分ではない、人間の思想が大事。
それは、元々ローマ帝国支配目的の為、皇帝と教皇に忠実にある
支配システムを作る為の宗教だからです。命令に従わせるため。
帝国市民を、支配、操作できるためです。
それ以前も、神の言葉ではない、神の教え=契約を破り、イスラエルは異教の神々の教えに混ざり合い、姦淫の罪、高きところの礼拝
おぞましい儀式、モレク神に自分の子を捧げるようなことをすることまでやる、神の教え=契約に根付く生き方から離れて、異教徒と
同じように生きていたイスラエルが、約束の地から追放される
厳しい訓練が与えられたのです。
これは、前回のシャバットの箇所、レビ記と、その付随のエゼキエル
アモス書に詳しく記されています。
問題は、人間が神の言葉を、自由自在に変えて、勝手に取り出し、
勝手に却下し、別の教えを編み出し、それを熱心に信奉することを
しているのです。
神の言葉を知り、それに根付いて生きるより、結局、感じよ〜という体験主義、フィーリング、高揚感を求める。
本当に危険な状態なのです。
神は、神の言葉を知りなさい!と教えていて、感じなさいなどと
1度も言いません。そんなことを追求するから、変なムーブメント
人の口から語られるレーマを求めよ〜と偽預言者や教師の言うことに
聞き入らされてしまうのです。
人が神の言葉のどの箇所も否定しないで、神が創造された人が
何を生きるのか、神の言葉から正しく理解できれば、偽物の教えから、宗教活動や、独裁者のような支配するリーダーから守られます。
永遠の中に完了された子羊の血の贖い、生ける水、水=イエシュアの中で沈み、水の中が「墓場」となったのです。
その意味は、イエシュアと共に死んだ!!!葬られた!からです。
洗礼という儀式をクリスチャンの中では教えられていて、それは
バプテスマ、イエシュアを信じた証として受けると教えられて
実践しています。
その洗礼池、これは、翻訳では元の言葉を正しく表さないのですが、
「ミクバ」מִקְוֶהというヘブライ語です。
この言葉は、ワードプレイでもあります。ミクバは、「希望」という言葉と同じ語根を共有する言葉です。希望、テイクヴァです。
イスラエルの国歌は、「ハテイクヴァ」です。
水、ミクバでイエシュアと共に死にふされて、以前の自分は完全に
死んだ!と書いてあるのです。感じなくても、そうなのです。
神が言われることが事実だからです。
そしてその水は、今度は胎内の水になり、その水から新しく生まれ
変わったと教えているのです。ヘブライ語では、胎は憐れみという
言葉と同じです。ワードプレイが見えるでしょう。
そして、その水は、エデンの園から出てずっと世界の四隅に一緒に
付いて来たのです。
イエシュアは、ひとりぼっちで人をエデンから追放しなかった。
神が義とされ、衣を着せられ、新しくされた人となったことを
最初から教えているのです。人はもれなく血筋に関係なく、
神の内側から外側の隔たりの場所に飛び出して、隔たりの中に
閉じ込められてしまいました。
その結果、神の目から見る通りを見れなくなり、別の目が開かれて
自分の自己像も分からないままになった。
そして、相手の本当の姿も分からない。神の性質、事実も分からない。そのような状態のところ、死んだも同じ、自分では何をしても、神のもとに戻ることなどできない状態だったのです。
そして、周りの環境は、毒。自分が誰かを、周りの誰かの考える「良い」という定義で測られて、その人が言う通りに合わせて生きるということ
を、生まれた時から教えられ、して来たのです。
赤ちゃんは親の顔を見るでしょう。そして親の顔を見て、自分の
自己像を学ぶのです。
親が暗い顔をしていたら、自分が何か悪いのか?と思うのです。
これ、小さい頃の体験を覚えています。両親がニコニコしていて
仲良くしている時は、子供ながらに嬉しい、温かい、安心したのを
はっきり覚えています。そして、母親が暗い顔をしていると、
それだけで自分も暗くなったのを、覚えています。
それ程、周りの親や大人、人により、人は自分の中に、自分の価値観、自己像を形成してしまうものなのです。
誰かの定義する「良い」に合わせて。そして、学校に行けば、学校の
語る「良い生徒、できる生徒」など成績に合わせて評価されます。
世の中みんなそうでしょう。宗教の世界も同じ。活動熱心、献金多い、
出席率高い、伝道をよくする、よく祈る。それらが良いクリスチャン、
神を愛する人だ!というふうに教えられるのです。
そうすると、自分の自己像は、周りの人により形成されてしまうのです。神が教える、あなたは誰か?を知らない。
そして、キリスト教の世界でも、人はイエシュアに出会い生まれ変わってもまだ罪人のまま!と教え続けます。
罪ズレを決してしない!と言う意味を言っているのではありません。
ズレたら、それは本来の自分の性質とは違うことをやってるよ!ということであり、すぐに戻る!
そして、新しくされた人は、イエシュアと共に復活した新しい人で
あると、神は信じ難いことを教えているのです。
その事実からだけ、生きる!それだけです。
創世記2:10 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、
そこから分れて四つの川となった。
2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、
これを耕させ、これを守らせられた。
2:8は、永遠の時の中、神の中に「園」を設けられたとあるのです。パウロが解説しているのは、創世記に記された事実です。
エペソ1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
パウロは、自分の感想や、感じたことや、意見を述べているのでは
ありません。
神が伝える事実、トラーに記された事実を解説しているのです。
黙示録にある8:13も、永遠の中、この世の礎が造られる前に
屠られた子羊と書いてあるのです。
黙示録8:13「地上に住む者はみな、その獣を拝むようになる。
彼らは、世界の創造の前からほふられていた小羊の命の書に、
その名が記されていない者たちである。」
詰まり、永遠の中に全てが完結した状態で、その後、見えない天の
性質そっくりそのままを、物理的な創造を通して神が創造された事実が
書いてあるのです。創世記には、ヘブライ語の言葉では
だから、ヘブライ人は、神を「The 場所」ハマコムと呼んだのです。
神の中に園が造られ、その園は神ご自身であり、神ご自身の中に
園を設けられたとあるのです。
その園は神ご自身の実態であり、その性質は、エデンです。
喜び、歓喜。
喜び、歓喜が存在する状態とは、エハッド、1つ以上で全く1つである、別離、隔たり、乖離、分裂が全く無いその状態に住まうことなのです。
聖書に記された神が伝える神の創造の性質、事実、人は神の中、
全く1つで、神と人と共に住まう時、エデン=喜びの状態、本来
生きる状態に留まれることを教えているのです。
エデンから出ても、イエシュアが世界の四隅に生ける水としてずっと
ついて来たのです。
神は失われた人のところに、川の流れのように流れてやって来ます。
そして、人を神のもとに、神ご自身が引き戻す。生ける水=
イエシュアを通して父の元に戻る!これが、福音です。元居た場所、神の中、神の性質
通りを取り戻され、神の中、園、エデン=喜び、歓喜の中に生きる
安全地帯に神により戻されたこと、それがイエシュアの業です。
エゼキエル47:1「彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。
見よ、水が神殿の敷居の下から東のほうへ流れ出ていた。
神殿が東に向いていたからである。その水は神殿の右側、
祭壇の南側から下の方へ流れていた。」
これは東、ケダム、永遠の中にある神の神殿〜水〜右側とは、
神の右の座〜イエシュアご自身であり、エデンの園から川から
水が世界の四隅に付いて行ったことと、繋がっています。
荒野を付いて来た岩、水が吹き出した岩、火と雲の柱。
実際に物理的なことを通して、神の臨在が神の民の中、間に住んだ
ことを教えているのです。
荒野を神と共に生きる経験、体験をした人は、遥に神ご自身の現実を理解していたのです。今よりずっと深く。
聖書に書いてあることは、イスラエルが辿った荒野の40年の中の
出来事が書かれています。
荒野、私たちの地上の旅路、イエシュアと直接相見えるその時まで、
約束の地に入るまで!見えない神を、見るが如くに歩むのは、
神の言葉=臍帯=命綱をしっかり握り、生きること!神の言われた事は永遠に真実であり、蛇の声に騙されるな!神の言葉から右へも
左へも逸れるな!と教えられているからです。
人が作り出す思想は、神の言葉からズレています。
そして、現象、感情、別物を求めて、ワクワク感を得ようとする
体験の世界です。でもそれは泡、一時的なものなのです。
そんなことばかりを追い求めるから、違う世界に誘われてしまうのです。ドラッグで高揚感体験を求めるのと本質が同じ。
神の中に存在し、神も人の中に存在することを、ずっとイエシュアも
パウロも書いています。その事実は、トラーに記されたことを
解説しているものなのです。
ヨハネ14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、
またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。
わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、
命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
<やがて、エデンと同じ、天と地が1つになる。神の国が到来する。
そして、誰一人、イエシュアを通して意外、父の元に来ることが
できないとある通り、どの時代の、どの民族、血筋でも、
努力により神の元には戻れない。超えられない壁を破り、
生ける水としてイエシュアが一人一人のところに流れて来て、
ミクバ、墓場となり共に死に伏して、そしてミクバ胎の水から
新しく生まれた、これは全人類どの人にも同じ、共通なのです。>
17:23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、
彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしを
つかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。
1つ。エハッドです。神の性質と、神の性質通り造られた人は、
神が語る通りのエハッドに戻る!
それを真逆な思想を、勝手に唱えているのが西洋宗教、分裂思想
デイスペンセーション神学です。聖書に書いてあることに照らし合わせたら、そんな神学は、junk 神学であることは、クリアーに見える
のです。