人が作った偽物が廃れないとならない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

過越の晩餐、セーダーをやったことがある人なら、分かります。

日本の大晦日のように、遅くまで、皆この晩餐を通して、

出エジプトの出来事を、あれやこれや様々に語るのです。

子供達には楽しいゲームや、寸劇をする。それぞれの登場人物の

衣装を着て、出エジプトの劇をやり、モーセに質問したり、ファラオに質問したりして、本当に楽しい寸劇ができます。

その出来事、意味にちなんだ食べ物を1つ1つ食べながら、

そして、儀式をしながらやるのです。

 

晩餐の最初に、3つに重ねたマッツアの真ん中を半分に砕いて、その半分を部屋のどこかに隠し、晩餐の最後に子供に探させるゲームが

あります。

これは、神殿崩壊後、パリサイ派のイエシュア信者がイエシュアの

死、処刑と、復活、そして、再臨をこの過越の祭りの儀式の中に

加えたという言い伝えがあります。

イエシュアが居られる時は、このようなマッツアを隠すゲームの

儀式はなかったからでしょう。

皆でやると、本当に楽しく、意味深い特別な時になるのです。

4つのワインは、出エジプト6:6−7で神がされた業、

イエシュアの業、中核を教えているものです。

イエシュアが食後に取り上げたワインは3杯目のワインで、

「購いの杯」と呼ばれるものなのです。

 

種無しパン=マッツアやワイン、その他のシンボル全て、実態を

目に見える形で表すものであり、実態ではありません。

カトリックが創作した、聖体拝領で、パンがキリストの肉になり

ワインがキリストの実際の血になるというのは、オカルト思想で

作った嘘です。本当にこんなこと、聖書ではない教えを作り続けるのが得意なのが、人間の考えで編み出した宗教なのです。

もし血になり肉になったら、それはレビ記11章に違反する罪を

イエシュアが教えることになります。人肉や血は人が食するものではないからです。

人に、聖書が語らない嘘を教えないで下さい!です。

大人が嘘ばかり言うのです。

 

1コリント11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パン=マッツアをとり、

11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。

わたしを記念するため、このように行いなさい」。

 11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、

「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

新しい契約とは、同じシナイ山で与えられた婚姻契約=トラー=

イスラエルの神の唯一の大家族の唯一の家訓なのです。

この同じ契約が、歴史の節目にずっと再更新されているのです。

2つ別の契約、2つ別の教え、又は異邦人は神の教えを無視して良い

関係ない!これらは、全て異端思想であり、聖書ではありません。

 

1)金の子牛の後 出エジプト記 34章 最初の石板が砕かれた後、神は契約を更新し、モーセは新しい石板を受け取りました。

2)申命記33  モーセは自らの死に備え、荒野の放浪を生き延びた

新しい世代の人々と契約を更新しました。

3)ヨシュアはシケムにおいて、民を率いて契約更新の儀式を行いました。ヨシュア記 24章 

4)アサ王の治世の間、ユダとベニヤミンの人々は契約への献身を

新たにしました。歴代誌下 15章

5)バビロン捕囚から帰還した後、民はエルサレムに集まり、

エズラがトラーを読み上げ、指導者たちは神の道に歩むことを誓印(署名)しました。ネヘミヤ記 9〜10章

6)イエシュアが過越の祭りの晩餐で同じ契約を再更新された

7)未来イエシュアが再臨されたらエレミヤ31:31が実現する

 

これは、イエシュアが実際に過越の祭りの晩餐で言われた言葉が

書いてあるのです。これ、クリスチャンがどれだけ理解しているのでしょうか?本当にイエシュアが言われた言葉の意味を、その通りに

理解していたら、このイエシュアが言われた通りの遺言、

神のモアデイムを祝い、過越の祭りを祝う中で、毎年この過越の祭りで、マッツアとワインで祝うたびに、イエシュアがされた通りを

皆で思い出す祭りを、当然祝うでしょう!

聖書を教える人たちが、正しく聖書を理解していないのは、聖書ではなく、聖書を人間の思想で解釈した別ものを信じて実践しているから

です。

神の契約に根付く生き方も、信じた最初からしてないし、

神の創造された代々永遠に祝われる「わたしのモアデイム」と神が

教えている記念日も一切祝わない。

変わりにローマ帝国が作った別物の教えを実践し、人間が作った別の記念日を祝うのが西洋宗教です。

ヘブライではないから西洋というのです。それだけでも、

ヘブライ聖書とは違う!と気がつかないとならないのです。

宗教とは、神の教えに人間の思想を混ぜたイズムだから、

宗教というのです。神の教えは、宗教ではないのです。

神の言葉!トラー!それが、聖書に書かれている本物です。

 

イエシュアが言われた意味を、牧師、教師により正しく教えれていない。その代わりに、聖書を教える教師が、そのまた教師達に

西洋人の作った宗教の教えを教えられ、人間の作った神学、

デイスペンセーション神学や、置換神学を教えられ、

聖書を歪めた聖書解説、西洋宗教の教えを神学校で教えられ、

それを、又人に教えるから聖書ではない教えが、異邦人の世界に

これほどまでに浸透してしまったのです。

 

皆が、ローマ帝国が作った別物をやる伝統の教えに生きているから、聖書の事実が見えないだけなのです。

イエシュアもされた過越の祭りの晩餐を、実際に知り、やり続ける

それ以前にパン種除去掃除、神の仰せをずっとやり、神の祭りを

準備する人には、神は様々なことを教え続けて下さいます。

 

復活だけを、強調されて、神のモアデイムを知らなかった時と、

それを知って毎年祝う、シャバット、新月、祭りから祭りを祝うことをした後では、神が伝える教えの理解が全然違うものになることは

やっている人なら、誰でも体験することです。

毎年、毎回、シャバット、祭りを通して、大きなレッスンを教えて

くださるからです。そして季節=モアデイムが巡るごとに水=イエシュア=言葉に植わり、生きる人は、御霊の実が豊かに実ると書いてあるのが、詩篇1、トラーを解説しているのものなのです。

 

1コリント11:27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。

 11:28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。

 11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。

 

パウロが1コリント11章で解説しているのは、トラー、モーセの

五書、神の教え、神の祭りなのです。

ローマ教の教えや、ローマが作った日曜礼拝、イースター、クリスマスの祝い方をパウロはいつ人に教えましたか?又は、神の教え

トラーを人間の意見で、削除、付け足し、破棄して良いと、いつパウロが言いましたか?

そんなこと、聖書のどこにも書いてないでしょう。書いてあるはず

ないのです。なぜなら、それらは、聖書が閉じられた後、西洋人

ローマ、西洋教父達が勝手に神の教えを退け、別物の教えを次々

編み出し、そして、神のモアデイム全部捨てて、別物にすり替えた、

それが伝統で継承されているから、神の教え、本物と勘違いしているだけなのです。それらが、人間の思想、手で編み出した偶像礼拝の

正体、「金の子牛」そのものなのです。

 

パン=マッツア 種無しパンです。

カトリックもあるプロテスタントもその群れの信者ではなければ

聖餐式ができない、又は牧師が司式しないとできないと教えられますが、これ、自分の家でやるものです。

皆でやる、イエシュアが教えた儀式であり、これがずっと今に至る迄継承されているのです。

本物は、神の過越の祭りを祝う、その晩にするセーダーの儀式

晩餐であり、誰でも出来ます。

 

カトリックの聖体拝領を見たことがありますが、カトリックは、

毎日ミサがあり、又毎週日曜日ももちろん、聖体拝領をしています。

私が見たのは司教だけが、ワインを飲み、他の人は、司教から直接

パンを口に入れてもらうという儀式ですが、過越の祭りの儀式とは

違うのが分かります。

カトリックに改宗していない人は、参加できません。

プロテスタントも同じことを、言う人がいます。

洗礼受けていない人は、できません。

そして、会堂の中には、様々な偶像、アイコン、聖人の像、

その他たくさんあるのです。

ホスチア(犠牲の供え物)」というラテン語ですが、マッツアが聖書に書いてある本当の名です。

マッツア、ハメッツ=パン種=要らないものが削ぎ落とされたもの

マッツアです。

この過越からの7日を、マッツアの祭りとも呼び、翻訳では、

除酵祭とあるのは、パン種が除かれたもの、マッツアを食べる7日の

祭りだから、そう訳されているのです。