4月8日、水曜日日没に過越、種無しパンの7日の祭りが終わりました。4月1日、水曜日日没からが過越の祭りの最初の日で、
シャバットとして祝い、その日から7日間が、種無しパンを食べる
7日間、そして、4月3日金曜日の日没から、4日土曜日の日没が、
週の第7日目のシャバットとして止まるというのが、神が創造された
記念日です。
過越から、3日、種無しパンの真ん中の日に、「初穂」の日が
あります。
新しくされた命は過越の祭りの最初から、それ以前から既に教えているものです。
約束の地に入りその中で、過越、種無しパン、初穂を祝ったことが
書かれています。
ヨシュア5:1 ヨルダンの向こう側、すなわち西の方におるアモリびとの王たちと、海べにおるカナンびとの王たちとは皆、主がイスラエルの人々の前で、ヨルダンの水を干しからして、彼らを渡らせられたと聞いて、イスラエルの人々のゆえに、心は消え、彼らのうちに、
もはや元気もなくなった。
5:2 その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、
重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。
5:3 そこでヨシュアは火打石の小刀を造り、陽皮の丘で、イスラエルの人々に割礼を行った。
5:4 ヨシュアが人々に割礼を行った理由はこうである。エジプトから出てきた民のうちの、すべての男子、すなわち、いくさびとたちは皆、エジプトを出た後、途中、荒野で死んだが、
5:5 その出てきた民は皆、割礼を受けた者であった。しかし、エジプトを出た後に、途中、荒野で生まれた民は、みな割礼を受けていなかった。
5:6 イスラエルの人々は四十年の間、荒野を歩いていて、そのエジプトから出てきた民、すなわち、いくさびとたちは、みな死に絶えた。これは彼らが主の声に聞き従わなかったので、主は彼らの先祖たちに誓って、われわれに与えると仰せられた地、乳と蜜の流れる地を、
彼らに見させないと誓われたからである。
5:7 ヨシュアが割礼を行ったのは、この人々についで起されたその子どもたちであった。彼らは途中で割礼を受けていなかったので、
無割礼の者であったからである。
5:8 すべての民に割礼を行うことが終ったので、民は宿営のうちの自分の所にとどまって傷の直るのを待った。
5:9 その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。
5:10 イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕暮、エリコの平野で過越の祭を行った。
5:11 そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、
5:12 その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、
イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。
異邦人の世界に浸透した宗教の教えは、聖書に書いてある通りを
そのまま教え、伝えるものではなく、人間の思想を通して、
勝手に変えたものが伝えられているのです。
翻訳聖書でも、聖書だけを読み続ければ、書いてあることと、
実際に教えられ、実践している内容が食い違っていることに、
気がつけるはずです。
ユダヤ人の預言者達を通して、聖霊が記した神の言葉を嘘つき呼ばわりしていることに気がついていないのです。
神が言われたことを、人が真っ向から言い換え続けているのです。
それは、どうしてなのか?何がそうさせているのか?原因は何か?
全て、人間が神の教え、言葉を破棄し、塗り替えたせいなのです。
ジーザス、キリストは、古い厳しい律法から解放されるためにも
十字架で死んでくださったのだ!
神の教えは、無効になった!そのような思想を語る人は、一体何を
言っているのかさえ気がついていないのです。
神の教え=トラー=婚姻契約書は破棄、終了!その場合、その人と
神との関係は遮断されるのです。離縁!
そして、神の教えが廃れたら、罪の定義は消えて、無法を生きます。
それは聖書で警告するところの、無法=神の教え無し、神の教えを
捨てて生きる人への警告がはっきり書いてあるのに、矛盾します。
罪の定義が消えれば、罪は存在しませんから、イエシュアの贖いの
血、許し、恵ももう必要ありません!ということです。
罪の規定がないから、なんでもやり放題!恵もいらなくなります。
聖書に書いてある罪の定義とは、神のトラー=教え=モーセの五書
に違反することを、罪と神が定義しているのです。
意味不明、矛盾だらけ、聖書とは全く辻褄の合わない教え、それは
人間が神の言葉を変えているせいで、矛盾を人間の教えで、
塗り替えて解説しているだけなのです。
聖別の定義も消え、預言者が記した神の教え=聖書は完全に無効と
なります!なんでも、人間の考えでやり放題!
こんな意味不明な人間の教えは、虚構であり、金の子牛であり、
神の創造された世界、存在しないものなのです。
これこそが、偶像礼拝=偽物の神々と同じ教え、神の教えを無効にする、人間の宗教の教えなのです。
コロサイ 2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
ESV訳などの「債務証書を無効にすることによって
(by canceling...)」という表現の「by」は、実はギリシャ語原文には存在しません。
このような、原典原文にない、言葉や、文章を挿入するのが
翻訳者の違反行為なのです。
その違反行為の最たるものは、聖書の言葉を変えなくても、その脇に
人の思想、デイスペンセーション神学思想を、1つ1つ註解として
書き込んだ一人の人が作った聖書、スコッフィールドチェーンバイブルなのです。それは、聖書ではなく、人間の思想を語る別物。
これは13節末尾の「罪を赦し」と14節冒頭の「無効にし」を
因果関係で結ぶために補われたものです。
しかし、原文(ἐξαλειψας / exaleipsas)は「拭い去った」
「塗りつぶした」という分詞形であり、NASBやKJVが訳すように「(すでに)無効にして」或いは「塗りつぶして」と理解するのが
自然です。
つまり、神は ①私たちの罪を赦し、②キリストの十字架の業を通して私達の罪の罪状=債務証書を無効にされた のであり、ギリシャ語の
構造上、①が②の結果として起きたという因果関係までは
断定できません。
2. 「エクセレイプサス(Exaleipsas)」と「ケイログラフォン(Cheirographon)」
Exaleipsas: エクセレイプサス「拭い去ることで見えなくする」と
いう意味で、ここでは「跡形もなく取り除く」という強いニュアンスを含みます。
Cheirographon、ケイログラフォン(Cheirographon)」
は、 聖書全体でこの箇所に一度だけ登場する言葉です。
逐語訳では「手書きの文書(自筆証書)」となります。
(KJVは「handwriting」ハンドライテイングと翻訳しています。
歴史的には、債務者が債権者に対して自らの負債を認める
「借用書(IOU)」を指す法的な用語として使われていました。
「ドグマ(Dogma)」とトラーとの関係
この「自筆証書(ケイログラフォン)」は、本文中で
「規定(ドグマティン / dogmasin)」を伴っています。
従って、素直に読めば「規定による手書きの文書」となります。
問題は、**「十字架に釘付けにされた『規定による手書きの文書』とは何か?」**という点です。
クリスチャンの間に浸透した一般的な(誤った)解釈があるのです。
この言葉を「モーセの律法(トラー)」そのものだと主張する人々がいます。もしそうなら、トラーは十字架で死に、もはや、
神の教え、契約は守る義務はないということになります。
聖書も読む意味は全くなくなります。神の教えは1つで繋がって
同じことが書かれているので、それら全部消滅、吹き飛びます。
この解釈の問題点があるのです。
聖書全体においてトラーは「喜び、光、自由」をもたらすものとされており(詩篇119篇)、私たちに敵対するものではありません。
神の言葉に照らし合わせると、矛盾、辻褄が合わないのは、その
解説が間違っているからです。
しかも、神の言葉は、神ご自身=イエシュアであり、聖霊により
記されたもので、永遠普遍と神が説明しているのです。
昇天以降、神の教えが消滅、破棄、廃れるのだ?と、聖書にどこに
書いてありますか?
私たちに敵対しているのは、神の言葉ではなく、トラーを破らせる「肉の欲」や、罪の性質、神の言葉から離れさせる「人間の伝統の教え」なのです。
学術的・福音派的な解釈では、罪の記録多くの福音派学者によれば、この「ケイログラフォン」はトラー=モーセの五書そのものを指すのではなく、**「私たちがトラー=神の教え=契約を破ったという
負債の記録(罪状書き)」**を指すものなのです。
オブライエンの説: ケイログラフォンは神に対する負債を認めた
署名入りの証書であります。
ユダヤ人はトラーに従う契約を神と結んだが、それを破った際の
刈り取るべき結末、厳しい訓練は「死」であったのです。
あなたの前に、命と死を置いた。あなたは命を選びなさい!
命=神の伝える通りを生きる!死=エデンの園と同じように、
神の言葉を捨てて、偽物の教えを生きる生き方なのです。
神を知らない人々、異邦人も良心を通じて同様の義務を負っていたのです。そうでしょう。子供でも、人として罪、悪いことをしたら、
後ろめたい、気持ちが暗くなる、そして責められるのです。
両者とも、その義務を果たせなかったため、この「証書」が私たちに
不利なものとして残っているのです。
ダンの説:記録が消されたことは、過ちがもはや「私たちに不利な
もの」として保持されないことを裏付けるものです。
しかし、それは背後にある規定(トラー)が効力を失ったことを
意味など全くありません。
神の言葉=教え=トラーは依然として神の正義の尺度であるが、
キリストの犠牲の死によって、トラーに記された罪の定義による
「告発(罪の記録)」のみが消し去られたとあるのです。
したがって、学術的な見解によれば、コロサイ2:14は
「トラーが取り除かれ、十字架に釘付けにされた」という考えを
支持しないどころか、聖書にそのようなことが書かれている、
根拠がありません。
むしろ、「私たちがトラー=神の教え=契約を破ったという負債の
記録(罪の記録)」が取り除かれたと理解するのが妥当であり、
正しい読み方であり通説なのです。