パウロはイースター祭りではなく過越の祭りを教えている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1コリント10:30 もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する

物について、どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。

 

<この箇所でも、きよくない動物、ネズミでも、豚でも猪、馬でも

なんでも感謝すれば、きよくなるという、本当に馬鹿げた思想を

捨てて下さい。祈ったら、動物や人間、神が創造された性質の根本が変わるのですか?おかしな思想、迷信、作り話しを信じてはならない。神の言われた永遠普遍の言葉に戻るのです。

神の創造は変わらないからです。>

 

10:31 だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、

すべて神の栄光のためにすべきである。

10:32 ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の群れ=カハールにも、

つまずきになってはいけない。

 10:33 わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、

多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。

 

<もちろん、きよくない動物を食する、イコール神の前に罪を犯し、

聖別を汚す行為そのものであるから、そんなことは、ここのコリントの群れでは、誰も神に対して罪を犯す、してはならないと理解している人に、パウロは話しているのです。

パウロは、食規定=神の教えを破る罪を人には、教えないという

大前提の真実からだけ、パウロの手紙を読んで下さい。

同様に、パウロは、神のモアデイムを、人の考え、意見でいつの日にでも変えて良い!などとも、教えていません!

預言書に書いてあるでしょう。神のシャバット、祭りを汚す!

死に匹敵する罪!とはっきり、至るところに書いてあるのです。

クリスチャンが、神の教え、預言者が語った言葉を否定するならば、それら、イザヤ、エレミヤ、ゼカリヤ、エゼキエル、その他の預言者

は皆、偽預言者ということになってしまうのが、分かりますか?

このような誤解があるのは、聖書を正しく読んでいない、いや

教えられる教師が周りにいないで、神の教えを塗り替えた異端思想を混ぜた、人間の思想で、神の言葉の方を平気で曲げる、変える聖書解説しか聞かされないから、偽物、本物の教えの識別ができないままなのです。

神の教えが2つあるという、存在しないものがあるという空想と、

イスラエルへの教えは、異邦人には関係ない、神の教えは今は

廃れたという全部これら異端思想を信じる人には、聖書に何が書いてあっても、それが、今、自分に直接語られている神の言葉、教えとは受け取りません。

 

安息日と書いてあるのは、これは神のモアデイムの中心であり、

祭りの初日、最後の日は、曜日に関わらずシャバット=止まる日として祝うのです。

シャバットと書いてあるのは、神の創造された全てのモアデイムを

祝う!という意味です。

神が聖別された日を、人が変えたり、汚せない。

異教の神々の国に住む人は、その日が休みではなくても、その日の中でシャバットとして祝い、祭りを祝えるのです。

過越は、最初と最後の日はシャバット、そして第7日目もシャバットですが、他の日は普通の労働日であり、種無しパンを食べる日々なのです。

イスラエルでは、この週やお休みで、仮庵も同じように休みです。

でも、祭りは最初の日最後の日、週の第7日目をシャバットとして

取り扱い、祝うというのが、神の創造された祭りのデザイン、

祝い方なのです。

シャバットだけ取り出して祝うとか、仮庵だけ祝うとか、それは

神が伝えた神のモアデイムを祝う、祝い方ではありません。

全部!全部!それが、一年に渡る神がデザインした命のサイクルを

人が生きることであり、その中で実際に神が特別な出会いを約束してくださっていると書いてあるのです。

 

出エジプト20:8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

<カトリック、ギリシャ、ロシア、プロテスタントもこぞってこの

神の記念日を変えてしまったのです!書いてある意味を、違う意味で読んでいるでしょう。安息日=日曜日=主の日=聖日などと、

違う読み込みをしてはならないのです。書いてもないことに、

すり替えた聖書解説はやめないとならない。>

 

20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。

 

エゼキエル 20:12 わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。

20:13 しかしイスラエルの家は荒野でわたしにそむき、わたしの定めに歩まず、人がそれを行うことによって、生きることのできるわたしのおきてを捨て、大いにわたしの安息日を汚した。そこでわたしは荒野で、わたしの憤りを彼らの上に注ぎ、これを滅ぼそうと思ったが、

20:14 わたしはわたしの名のために行動した。それはわたしが彼らを導き出して見せた異邦人の前に、わたしの名が汚されないためである。

 20:16 これは彼らがその心に偶像を慕って、わがおきてを捨て、わが定めに歩まず、わが安息日を汚したからである。

22:26 その祭司たちはわがトラーを犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。

 

これは、未来預言なのです。下矢印

イザヤ56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、

56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。

 56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――

56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

 56:8 イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。

 

逆に読んでみるのです。

神の教え=トラーを生きることを愛さず、神のシャバットを守らず、愛さず、破り、汚して、コンスタンチヌスの教えに固く忠誠を

誓い、その人間の教えを生きて、神の契約=トラーを固く守らない

異邦人は、未来、神の家の一番親しい祈りの家の場所、お茶の間に

招かれない、受け入れられない!

 

巷に浸透した、パウロがトラーを破り、別の教えをしているという

空想話、仮説を全部排除して、聖書に書いてある通りを読んで下さい。

日本人なら、ネズミやゴキブリ食べよう!などと、微塵にも考えない、それらが食べ物として思い浮かばないのと同じと理解して下さい。神が禁じた、きよくない動物を食べるのは、神の教えを知らない

異邦人だからです。同じように、自分の文化の食生活に照らし合わせ

て、ヘブライの聖書を考えてるから、見えてこないのです。

そんな罪を犯す人、神の教えを捨てる人に、パウロは話していないのです。

 

ここでは、きよい動物でも、偶像に捧げたものを食したら、弱い人に対しては、つまづきを与えるかもしれない、だから、そういう人と

食事をする場合、相手の信仰の度合いに配慮しようという知恵です。

これあるでしょう。クリスチャンの世界では、禁酒!とか、

ダンスしてはならないとか、様々なルールがあります。

これは、アメリカでも、あります。私も以前、ビールが家に置いて

ある友人の冷蔵庫を見て、ドン引きしました。ずっと前ですが。

今はそんなこと、考えません。

シャバットで、皆で集まれば、皆ワインやビール、ウイスキーなど

頂いたりしているからです。

日本人のクリスチャンの中には、忘年会とか、職場の飲み会に行ってはならないと教える牧師、リーダーがいるそうですが、それはその

団体の人が考えている独自のルール、掟であり、神の教えではないのです。

そういう神の教えではないことを、強要する人が、神が禁じている同性愛、LGBTサポートなどと目も当てられない罪を人に教えるのですから、聖書に書かれていること、意味を理解しないとならないのです。

それこそ口伝律法、人間の律法の戒めであり聖書ではありません。

パウロが話しているのは、そういう人が周りにいる場合、どんな

配慮が必要かという知恵を教えているのです。

神の前に罪ではなくても、弱い人がつまづきを覚えるなら、その人の前では、敢えてそのような行動はとらない!というのがあるでしょう。

 

酩酊、アル中は、こんな素行は的外れですが、それらは神が与えて

飲めるものです。シャバットや祭りには、ワインや高価なお酒が振る舞われるのです。トラーにそう書かれているでしょう。シャバット、祭りで、取り置いたお金で、普段変えないお酒を買って〜と書いてあるのです。

 

申命記14:24 ただし、その道があまりに遠く、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が、非常に遠く離れていて、あなたの神、主があなたを恵まれるとき、それを携えて行くことができないならば、

14:25 あなたはその物を金に換え、その金を包んで手に取り、あなたの神、主が選ばれる場所に行き、

14:26 その金をすべてあなたの好む物に換えなければならない。

すなわち牛、羊、ぶどう酒、濃い酒など、すべてあなたの欲する物に換え、その所であなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない。

 

十一件金などと教えられているものは、殆どが神のモアデイムのために使われるもの、神の前に喜び、楽しみなさい!すごい嬉しい神の

仰せですよね!

この後に、パウロは、過越の祭り祝いと、その晩餐のことを話しているのです。よ〜く考えれば分かります。パウロは、ローマ教が作った

イースターや聖餐式の話などしていません!

それらの思想、儀式、教え、記念日は、聖書が閉じられた後に

ローマが作った作り物であり、聖書に登場をする人は誰も知りません。しかも、変えてはならない!です。

過越の祭りの晩餐、イエシュアがされた晩餐の儀式を、聖餐式=日曜日にすることに、変えたのはローマ教であり、神ではありません。

しかも、種無しパンの祭りの意味が、ごっそり抜けて、種ありパンで

する。過越の祭りをイエシュアが命じられたように祝わないで、

ローマ教の日曜日にする!これ、神の教え、聖書ではないでしょう。

 

イースター祭りなど、聖書に登場する人は誰も知りません。

それは、ローマが勝手に思いついた日を、4世紀に作ったものだからです。ヤラベアム王と、同じことをしているのです。

過越の祭り、種無しパンの7日間に、復活の命、新しくされた人としてイエシュアに連なることを教えるのが、神が創造された

「初穂の祝い日」が神が設けているのです。

最初から、神は全てのイエシュアの業を網羅することを、

神の創造されたモアデイム、記念日の中に入れているのです。

神の教え、記念日が完全であり、人間が変えてはならない!

人間が編み出した教えの方が優れている!などと考えてはならない。

ましてや、神の教え、記念日を捨てることは、冒涜行為であり、

神の前に死に匹敵する重い罪そのものなのです。


1コリント11:20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、

主の晩餐を守ることができないでいる。

<これ、主の晩餐と読んで、以前は、日曜日にやる愛餐会と勝手に

想像していましたが、これは、過越の祭りの晩餐=主の晩餐と

書いてあるのです。

クリスチャンは、これをやったことがないのが普通でしょう。

イエシュアは、この晩餐を祝うたびに、毎年やるたびに、

一緒に主がされたことを思い出して!と言われたでしょう。>

 

 11:21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。

 11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。

それとも、神の群、カハールを軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。

わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、

ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。