反ユダヤ主義思想、反モーセの五書=神の言葉思想、そして、
聖書には、ユダヤ人が、キリスト殺し、まむしの末、毒蛇などと
書かれていると誤解されている箇所に関して書いています。
異端という言葉を、聞くでしょう。
それらは、クリスチャンの間では、ものみの塔、モルモン、統一教会や、その他諸々のキリストの名を利用する新興宗教、聖書ではない
経典を持ち、その団体には、その団体だけの、預言者や教祖様がいる団体を指して、異端と考えています。
そして、「モルモン、ものみの塔とは関係がない、プロテスタント
です。」と書いてあるのをよく見ます。
異端とは、英語ではherecy、ヘラシーと言います。
聖書に書いてある、異端の定義は、神の言葉を塗り替える、覆す
偽の教え、人間の哲学、先祖、人の言い伝えであり、神が語る言葉=教え=聖書ではない思想の全ては、「異端」思想なのです。
神の教えではないもの、神の教えを変える、否定する、捨てる教えは人間の考えです。
普通の生活の中の一般的なことなら、神の教えに反する=ズレ=罪ではなければ、その人が選んでやれることなのです。
神が許可されている安全境界線内だけ、その中でならば、それ、これ、あれ自由に、その人の判断で出来るのです。
普通の常識があれば、理解できることです。
ある会社、ある学校に通う人は、その会社のバッジを付け、又は工場
研究所、医療機関などでは特定の制服を着て仕事をする。
それは、その会社に勤める人の会社の規定です。
そして、学校の制服も、その学校に通うなら、その制服を着るという
決まりがあるのです。
イスラエルの神、神に聖別された人、神の大家族の一員とされた人は
イスラエルという名字の大家族の家訓があるのです。
神が創造された人、そして大家族の生き方、性質、構造を人間が
勝手に作り替え、言い換え、別の生き方をする違反を神の大家族の中には持ち込めない!と教えられているのに、全く気がついていないのです。
自己主張、人が主体となり、神が伝える神の大家族の生き方を
人が塗り替える、構造自体を変える、そして人間の教えを取り込んで
神の教えの方を捨てているのです。
神の大家族の中に加えられた人は、神が伝える生き方を否定し、
別のことはしない、できません!と神に教えられているのです。
単純なことなのに、人は神になり代わたいのです。
神の言うことなど、実は素直に聞く気もないのです。
だから、自分が主、神の教えは終了だ!古い厳しい縛りの律法から
解放されたのだ!という異端思想を聖書だと本気で信じて、人にも
そう教えているのです。
聖書ではない教えを、聖書だと信じる、その幻想、騙し、洗脳。
「神は本当にそう言ったの?」エデンの園の蛇の声、そっくりその
まま信じて、神が言われたことではない、神が禁じたことを、平気で
今は自由の時代、聖霊時代、恵の時代で、人間が神の教えを自由に
仕分けて良い。今はいつでも主の日、聖日、安息日だ!それは、神の教えが十字架で破棄されて、終了し廃れたからだ!
異邦人とユダヤ人は、別の教えを生きるのだ!それら全て、
神の教えなどではない、人間の思想、諸悪の根源であるヘラシー、
異端的思想なのです。
歴史の中で何が起きたのか、はっきり知らないとならないのです。
誰が、神の教えを塗り替えたのか、はっきり知らないとならないのです。
クリスチャンの間で知られる、様々なムーブメントも、神がされているから、そのようなことが起きたのではないことが、実はたくさん
あるのです。
神の教えではない、人間の教え=異端思想が、人間の作った宗教=
ローマ教ですが、人間が作ったのです。聖書ではない!
人の思想=異端であり、聖書ではない教えをたくさん盛り込み、
そして、神の言葉の方を破棄された!という、大嘘、大偽情報を土台とした宗教が正式にきたのが、4世紀です。
その宗教会議は、異邦人のみで開催され、ユダヤ人は全て追放!
325年のニカイヤ会議から始まり、数々の宗教会議で、人間が神の
教えを塗り替え、別物に変え、聖書ではない教えを編み出し続けて
それを世界に公表、発表、実践することは、今も行われているのです。
LGBTなど神の前には、おぞましい死に匹敵する罪そのものであり、神の教え、人の生き方に反する罪を、今の時代はOKとするような、
聖書ではない「人間の思想」を、聖書の如くに認める宗教会議が
行われて来たのです。
預言された通り、同じ罪は繰り返されているのです。
神の教えを捨てよ?廃れた?人間が神の教えと、神の記念日を変えて良い?そのような、思想こそが、ダニエル7:25に神に敵対するものと預言されたそのものなのです。
神の教え=トラーと、神の時=記念日を神に敵対するものが変える。
それが、ヤラべアムの罪であり、ローマ帝国は、神に反することを
平気でやってしまい、神の教えを塗り替える宗教を作ったのです。
キリストの名を語る、ある部分の真理は語る、でも、神の教えが廃れた!神の教えは、異邦人には今はもう関係ないという思想は、
異端思想です。
イザヤ 5:20 わざわいなるかな、彼らは悪を呼んで善といい、
異端とは、神の教えを、人間が否定し、神の言われた事とは違うことを主張し、実践する行為そのものなのです。
聖書が警告する偽の教え、パウロもトラー、預言書に記された
偽の教えに対して、厳重警告を繰り返しています。
聖書を教える教師が、聖書ではない教え、偽情報を聖書と信じて、
教えている!という大盲点に気が付かない限り、神を愛していると
考えながら、実はその行動は、神に敵対する生き方をさせられているのです。
知らない間に、神の前に罪であることを、発言し、させられている、
日々、神の前に神が罪とすること、神の聖別を汚す行為をしている事にさえ、神の言葉が廃れたと嘘を信じる人には、全く通じない生き方が浸透しているのです。
1000%あれもこれも、間違いなくやらなくてはならないのだ〜!という、神の教えは、そんな掟リストとは違うのです。
神が創造された人の生き方を、神が人に教えているのです。
それを、エデン=喜び=神の内側から外側に飛び出して偽物の
生き方を学習した人は、神が創造された本来の生き方に戻り、
再学習する事、それが神の元に戻った人の生き方であり、
神の家の家訓は、ユダヤ人、異邦人別物などではありません。
聖書を読んで、それが分からないのは、読者の側の問題なのです。
聖書を正しく教えられていない、それは、人間が歴史の途中、4世紀に人が作った西洋人宗教、神学で、神の言葉の方を歪め、曲げて、
終了したという思想を土台に、聖書を語るから、ズレているのです。
反ユダヤ思想はどこから来ているのか。
そして、パウロの手紙や、イェシュアの言葉で、ユダヤ人という
血筋、イコール、まむし、毒蛇、悪であるという、固定概念、
偏見は、人間の教えから編み出されたものです。
イエシュアや、パウロが議論している相手は、ユダヤ人、同胞なのです。
契約の中にある民なのに、それらしからぬ生き方をしていた、
時のパリサイ派、サドカイ派、神殿の祭司、政治のリーダー達
それら一部の人に対して、対峙し、警告、忠告しているのです。
イランでも分かるように、悪を働く独裁者がトップに立てば、
自国民を何万人も平気で殺害するのです。国民は、皆リーダーのように悪者ではない。ガザも同じです。
日本の隣の2つの国も同じです。一人のリーダーの意思で、人を簡単に粛清する。公開処刑する。
こんなことをする人たちにリーダーになって欲しい国民など、一人もいないのです。
国に、国民に害をもたらし、リーダーとして世界に対して恥ずかしい振る舞いをする人達が、国を代表する立場に立って欲しいなどと、
誰も願わないのです。
「割礼」という内容に関して、いくつかの誤解されている側面が
あります。
ローマ人の手紙の中に書かれているのは、ユダヤ人、イコールまむしの末ということではなく、彼らの中にどんな問題があったのか
正しく知る必要があるのです。
パウロの手紙を読む場合、間違った教え、一般的にクリスチャンの
間で浸透した聖書解説は、正しくないものです。
イエシュアも、パウロも、ユダヤ人は神の教え=トラーを人に捨てるように教えたり、神の教えが無効になったとか、異邦人とユダヤ人では別の教えだなどと、言うわけなどもないのです。
それは、神の言葉、教えではないからです。
もしそのように、神の教えを否定するならば、その人は聖書=神の
定義では、無法、偽教師、偽預言者、偽りものと呼ばれ追放されます。
そして、聖書に記された預言者、使徒、そしてイエシュアを信じていたユダヤ人、信じていないユダヤ人も、今のようなキリスト教の教えが語る、神の教えが廃れた!などと、微塵にも、そのような考えは
頭にも、浮かばない人達であることが、書かれているのです。
神が、一度でも、神の性質も、神の言葉も変わらない!と言われたら
それが永遠の真実なのです。人が勝手に、神の言葉が廃れた!という
偽情報、大嘘を拡散しているだけなのです。嘘は永遠に嘘です。
神の言葉が終了したという、偽仮説、偽情報を信じて聖書を読むから
パウロの手紙を、神の教えが廃れたという思想を持つ人の、歪んだ
翻訳や、間違った解説を信じ込んでしまうのです。
聖書には、そんなことは1つも書かれていません。
黙示録の最後に、神の書、トラー、預言の書に人が手を加えたり
差し引きする人の厳しい結末が書いてあるのです。
ローマ2:17–29は、ユダヤ人の人々に付いて書かれています。
ここでの文脈は、パウロが「すべての人は罪を犯したため、
神の栄光を受けることができない(3:23)」ということを
証明しようとしている場面です。
イスラエルの民であれ、異邦人であれ、その血筋、社会的立場、性別に違いはなく、すべての人が対等な条件、罪に捉えられた状態、
ズレた人、エデン=神の内側から外側に飛び出て奴隷として閉じ込められていたという立場にあります。
パウロは、先ずローマ1章で全人類について語り、次に2章の冒頭で
異邦人に焦点を当てて書いています。
そして2:17からは、ユダヤ人について言及しています。
パウロがこのような書き方をしたのは、当時のローマの群れが
ユダヤ人の信者と異邦人の信者の両方で構成されていたという背景があるからです。
黙示録の7つの群れ=カハール、エクレシアは、ユダヤ人の群れ
なのです。異邦人がその中に少数混じっているだけなのです。
この箇所は、カハール=エクレシア内、詰まりクリスチャンの中にいる反ユダヤ主義者によって、
少なくとも以下の2つの方法で悪用されてきました。
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割礼は誤りであるという主張。
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不信仰なユダヤ人は、異邦人に対してその契約上の地位を失うという主張。
この箇所を、より適切に解釈することをしてみます。
ユダヤ人としての召命(アイデンティティ)の再確認
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A. 神のみこころを知る者 (2:18)
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B. 神の御言葉=トラーを知る者 (2:18)
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C. 盲人の手引きとなる者 (2:19)
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D. 暗闇にいる者の光となる者 (2:19)
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E. 愚かな者を正す者 (2:20)
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「無知な人々の教師」
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「幼子のような未熟な人々の教師」
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F. 真の知識と真理を持つ教師 (2:20)
パウロはここで、そして3章の冒頭や9〜11章において、
アブラハム、イサク、ヤコブの肉体的な子孫に与えられたこれら
神聖な召命を繰り返し述べています。
II. 偽善に対する叱責 (2:21)
2:21から、パウロはユダヤ人の偽善という問題を取り上げます。
彼らは神の契約の民であると主張しながら、その召命とは矛盾した
歩み、生き方、行動をしているという指摘です。
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A. パウロがここで述べている異議申し立ては、当時のユダヤ人社会にとって決して新しいものでも、聞き慣れないものでも
ありませんでした。イザヤ書1章などの聖書の預言書を読めば、神がイスラエルのそのような偽善を絶えず叱責してこられたことが分ります。
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B. ユダヤ人が他のユダヤ人を叱責するというテーマは、
ラビ文学全体に織り込まれており、神殿崩壊以前の時代にも
確実に存在していました。
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ラビの著作には、自身の教えと矛盾した行動をとる個々の教師に言及し、これらの問いを例証する箇所が数多くあります。
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あるミドラシュ(聖書解釈)では、ユダヤ人の偽善者を次のように描写しています。
「人々は自分たちが聖書やミシュナ(口伝律法)を
読めると思っているが、実際にはできていない。
彼らは祈祷ショール(タリート)を身にまとい、
頭に聖句箱(テフィリン)をつけながら、貧しい人々を虐げている。彼らについて次のように書かれている。『見よ、虐げられる者の涙を。彼らには慰める者がいない。罰するのはわたしの役目であると主は言われる。
主の仕事を偽って行う者は呪われよと言われている通りである』(エレミヤ書 48:10参照)」
— 伝道者の書のミドラシュ (Midrash Ecclesiastes) 4章1節1項
続く
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