ローマ ガラテヤ 割礼 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

反ユダヤ思想を、パウロやイエシュアが語っているのではないことの続きです。ユダヤ人が同胞に対して、そのようなことなど語るわけが

ないからです。家族内論争です。

ローマ2章は「ユダヤ人が、他の同胞のユダヤ人を批判している」

場面なのです。

ローマ 2:23 トラーを誇としながら、自らはトラーに違反して、

神を侮っているのか。

2:24 聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。

これは、「家庭内、家族内に起きている問題に対しての家族議論」なのです。この点を、正しく理解する必要があります。

なぜなら、パウロは非ユダヤ人=異邦人のイエシュア信者として、

ユダヤ人に対し反ユダヤ主義的な発言をしているわけではないからです。

私たちはここから、1世紀当時のユダヤ人同士がどのようにお互いを

批判し合っていたかを知るヒントを得ることができます。

 

すべてのユダヤ人が、ローマ2:21–24に記されたような振る舞いを

していたわけではないのです。

パウロの時代、そのような罪=神の教え=トラーに反した生き方を

して、神のみ心に叶う生き方、神の教えを犯していなかったユダヤ人も大勢存在していました。

ローマ2:23−24にある、彼らの誇りとは何でしょう?

 

この箇所の背景を、知る必要があります。

 

1 彼らの誇り (2:23–24)

パウロがユダヤ人の信者たちの「誇り(自慢)」を耳にするとき、

事態はより深刻になります。パウロは「誇り」について、

肯定的と否定的の2つの文脈で語っています。

  1. 主を知るようになった人々にとって、真理と主にあって誇る事は、イエス(イェシュア)を知る者として適切な反応です。(第1コリント1:31、第2コリント10:17参照)。

  2.  しかし、否定的な種類の誇りも存在します。

    それは「肉」において誇ることです。この種の誇りは高慢と

    傲慢につながり、結果として「神を愛し、隣人を愛する」と

    いうトラー=父の教え=モーセの五書の本質を全うすることを妨げます。パウロは、神の民の間、そしてイエスを通じて主を知らない人々の間で、このような誇りが蔓延しているのを耳にしているのです。

  3.  パウロはこの否定的な誇りに関する主張を裏付けるために、

    イザヤ書52:5を引用しています。したがって、これはパウロの時代のイスラエルにとって新しい概念ではありませんでした。ここでもイザヤ書でも、イスラエル人が高慢と傲慢さゆえに

    誇ったことが、諸国民が神を汚す(冒涜する)原因となって

    いたのです。

  4.  故に、この箇所におけるパウロの叱責を、ユダヤ人に対する

    反ユダヤ主義的な攻撃として捉えるべきではありません。

     

    この最後の箇所では、言葉の使い方が少し複雑になります。

    少なくとも、以下の3点に注意してください。

  5. パウロが使っている**誇張表現**に注意することです。

     

    ローマ2:25 もし、あなたがトラーを行うなら、なるほど、

    割礼は役に立とう。しかし、もしトラーを犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。

     

  6. パウロが「割礼」という言葉(およびその派生語)をいくつかの異なる意味で使い分けている可能性を慎重に認識することが必要です。

    この箇所の主要な論点を見失わないこと。それは2:13に記されている通り、「神の前に正しいとされるのは、トラーを聞く者ではなく、トラーを行う者である」という点です。

     

  7.  使徒たちの書簡(新約聖書)において「割礼」は少なくとも

    4つの別の意味で使われています。

     

    ①割礼の儀式そのもの(割礼を施す行為)

    ②割礼を受けている状態

    ③割礼を受けた人々のコミュニティ

    (ユダヤ社会全体を指す表現)

    ④異邦人が、完全にユダヤ人になるための人造改宗儀式、

    行為、これは特に使徒行伝15章やガラテヤ人への手紙で見られます。

    この異邦人がユダヤ人になる改宗儀式を割礼と名付けていますが、これは神の教え=トラーにない、当時のユダヤ人が作った

    改宗儀式のことです。それを、アヴラハムの割礼と同じ名、「割礼」と名付け、この改宗儀式に関して語られていることが多いことを知って下さい。

    詰まり、異邦人は、元々汚れた人種、契約の中に入ってない民、神とは関係ない、神の教えも知らない。野生、犬、豚などと教え込まれていたのです。その理由は、異邦人は、神の教えを知らないから、汚れた生き方を平気でする異教徒だからです。

    それが使徒15章に記されている異邦人イエシュア信者の汚れた生き方を継続していた事でも分かるでしょう。

    イエシュアを救い主と信じた後もなお、何を生きたら良いのか知らない、神の教え=トラーを知らない、教えられていない人は、続けてズレた生き方をしてしまうからです。

    彼らは、清くない動物、神が禁じている動物を異教徒と同じように食し、異教神の神殿に詣でる。動物をくるしめて殺す儀式をする。異教徒の祭壇に豚を捧げ、その血を飲み、血をまく

    儀式、行為をする。異教神神殿娼婦と、多産を祈願する不品行を行う。

    普通に考えても、ドン引き、罪そのものを続けていても、

    罪を罪とも認識しない無感覚さ。それは、異教徒上がりで、

    神の教え=トラーを知らないから平気で、神の前に罪、

    聖別を汚す行為、違反をすることができてしまうのです。

    当時のユダヤ人は、元々異邦人との付き合いは一切しませんでした。

    それが、隔ての壁と、エペソ2章に書いてあるものです。

    汚れた生き方をする、聖別を汚す異教徒異邦人たちと、

    交わりなど持てない!出来ない!と考えるのは当然なのです。

    だから、一切、ユダヤ人は異邦人を拒絶し、関わりを持ちませんでした。ペテロでさえ、その意識があった事が、使徒10でも、パウロの警告でも分かります。

    異邦人に対する、関わりの躊躇があったのです。

    神の教え、罪、聖別の定義を知らない異邦人には、罪を罪と

    認識しない場合には、それが何?くらいの感覚しかないからなのです。

    でも、一旦神の教えは永遠の真理であり、神が定義する罪とは

    神の教えを違反する行為であると、神が説明した通りを理解する人には、神が伝える罪、ズレ、聖別を汚す行為、そんなことができなくなるのです。

    神の教えを、理解していない、分からないから、神の目に

    罪であることを、無感覚にやっているだけなのです。

    無知から来るのです。神の教えを捨てるとは、人を神の教えに対して、無知にしてしまうのです。

    ユダヤ人が唯一関わりを持った異邦人は、ユダヤ人になる

    改宗儀式をした異邦人だけです。

    だから、「割礼」という儀式をしていない、ユダヤ人になってない異邦人と関わるのは、自分も汚されると思うから、

    付き合いをしなかったのです。

    改宗儀式とは、洗礼のように、簡単なものではありません。

    今もそれはありますが、1年以上もかかる、トラーの学びや

    その他の学び、諸々の人間が作ったルールを学び、やらされる。果ては、異邦人の家族や親戚と関係を断つなどと言われたら、そんなユダヤ人でさえ負えないくびき、できないような

    ことを、異邦人に強いるな!と、提案したのが、パリサイ派のイエシュア信者である長老達なのです。

    よく考えて下さい。律法主義者、偽善者の代名詞として

    クリスチャンは、パリサイ派などと言いますが、本当に

    ズレた聖書の読み方をしていることに、気がついてください。

    日本人と言ったら、日本人全員のことではないのと、同じです。

    ガマリエルは、イスラエル議会の任務に就く程、優れたトラー学者であり、パウロのトラー教師であり、パリサイ派であり、イスラエルの全国民から尊敬され、信頼され、敬愛されていたとあります。使徒5:34

    偽善者、律法主義者は、人から尊敬、敬愛などされません。

    このように、善良なパリサイ派のイエシュア信者の知恵と

    思慮と愛ある人たちが、このようにズレて、汚れた生き方をしている、異邦人イエシュア信者に対して、先ず、最低限

    4つ!神が禁じていることを知り、それらを今すぐやめて!

    そうすれば、ユダヤ人の交わりに加えます。改宗儀式などという面倒で厳しく、自分の生活、異邦人との交わりを断つようなことまでさせられなくても良い。人間が編み出した改宗儀式をしていなくても、神の家族のメンバーとして加えますと提案したのが、エルサレム会議と呼ばれるものです。

    よく考えてください。この中には、汚れた動物を食さない!

    とはっきり書いてあるのに、クリスチャンはそれを見逃して

    いるでしょう。

    パリサイ派は当時、善良な人で、人に無理な教えの解釈など

    強いたりしない、人たちが殆どだったのです。

    そして、当時のユダヤ人は、パリサイ派だったのです。

    神の教えの4つだけ教え守れば、後は神の教えを捨てて良いなどと、このパリサイ派の長老達は言ってもいません。

    彼らは、何と言いましたか?

     

    使徒15:20 ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。

    15:21 古い時代から、どの町にもモーセのトラーを宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしで

    あるから」。

     

    毎週シャバット、第7日目には、会堂に保管してあるトラー、

    預言書を読み上げ、ユダヤ人からトラー=神の教えを

    次第に学んでいくだろうから、今ここで、神の教えの全てを

    即座に理解して、それを生きよ!という無理なことは言わない。

    時間を与えて、猶予与えて、神の教えを知り、それに生きる

    ようになるまで、忍耐して、受け入れよう!それがパリサイ派のイエシュア信者の長老達の提案なのです。

    歩き始めた赤ちゃんに、急に走れ!と言わないのと同じ。

    ゆっくり、成長を見守る。トラーを正しく教えて、それを理解してもらい、神の教えに根付いた生き方をすることを、教えよう!それが、パリサイ派の長老達の知恵の提案なのです。

    パリサイ派の長老は、神の教えを異邦人は生きなくて良い!

    などという罪を、人に教えなどしません。

    クリスチャンの間では、神の教えが、終了、変化した、異邦人には関係ないという、聖書ではない、神の教えではない

    異端的教えを主張し、とんでもない偽情報を最初から教え込まれているので、神が人に何を生きることを教え、

    何を禁じているのか、罪の定義もごっそり捨てて、神の教え、神が人に教えている罪の定義、聖別の定義を自己定義し直し、

    主張しているから、ここに書いてある意味が見えないのです。

    聖書を読んでも、それは廃れた教えと、偽情報に、勝手に変換して読み込んでいるのです。