エレミヤ31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。
それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、
もはやその罪を思わない」。
ここで書かれている点は、2つあります。
1)先ずは、イエシュアをメシアと知らなかった人、
ユダヤ人でイエシュアが約束のメシアであることを認識していなかった人、イエシュアがトラー、預言書に書かれたメシアであることを、
皆が分かるようになっている事実が、未来には起きると言うことです。
これが、イスラエルが救われて、刺し通されたイエシュアがトラー
預言書に記されたメシアであることを、誰も主を知ろう!と言わなくても皆が理解している状態になると書いてあるのです。
この「知る」という言葉は、頭脳の知るではなく、体験的に深く知っていると言う意味の言葉です。
なぜなら、この「知る」と言う言葉は、婚姻関係の中にある夫婦の間で、使われる言葉だからです。
アダムはハヴァを知ったと書いてある、その言葉です。
体験的に知る=ヤダと言う言葉なのです。
クリスチャンも、イエシュアがメシアであることを、ある体験を通して、神の言葉が真実であり、メシア、イエシュアと出会った体験
その事実を知っているのでしょう。
これは揺るがない確信を伴い、神がおられる、神との関係にあることを、自覚している状態です。
クリスチャンは、皆イエシュアと直接出会った体験をしているでしょう。新生体験とか、救われたとか、色々な言葉でその事実を表現していますが、神に出会う、これは、スタート地点です。
神の中、エデンの中から飛び出して、電源切れた状態で死んでいた。
イエシュアを通して、父の元に戻り、新しい命=イエシュアの性質
通りの、本来の自分が取り戻されている事実を得た!
電源に繋がれた!それが生まれると言うことです。
そして、イエシュアと共に死んで、イエシュアと共に復活した
事実を得た新しく生まれた人は、天、次の時代に移行するまで、
この地上で古い体、朽ちる体のまま中身は新しくされた人を赤ちゃんから成長する、荒野の旅が待っているのです。
信じた瞬間、新しい体にはならないでしょう。記憶も以前のまま。
思考回路も、行動も同じ。これを、新しい人として、再学習する旅路が、聖書には事細かに記されているのです。
魔法の杖ひとつで全部変わらないのです。
パウロが言った通り、新しくされた人は、注意深く、神の伝える本物の自己像、生き方に注意を払い、頭脳の一新により、イエシュアと共に死んだ自分の生き方を切り替えよ!と、トラーに記された事実を
説明しているのです。2コリント10:5
その地上の旅路、新しく生まれ、神の花嫁、聖別された人とされたことが過越の祭りで表され、花嫁となった人は神が提示する神の家の
家訓を学び生きる。それが、シャヴオーの祭りなのです。
花嫁とされ、未来イエシュアと共に永遠に住まう時が来る間、
春から秋の間、それが地上の歩みを表しているものです。
そして、歴史の最後が、仮庵の祭りです。
未来永遠にイエシュアと共に住まう。7日間の仮庵と、第8日目の
記念日は、第一日ではない。それは永遠にイエシュアと住まう事実が
継続することを、表している「第8日目」の祝いだからです。
クリスチャンは、1世紀、聖書に記された人は、キリスト教を生きていると思い込んでいるでしょう?
全く違います。聖書に登場する人は、今のようなカトリック、キリスト教、西洋宗教の教えも知らないし、そのような生き方はしていません。
同様に、今あるユダヤ教も、1世紀には存在していないものなのです。
皆、それぞれに人間の思想や実践を混ぜて、聖書とは遠くかけ離れた教えや、実践〜宗教に変身したものを、やっているのです。
これは、聖書に記された事実と、歴史の中で何が起きたのかを
学べばよく分かります。
聖書を読むだけでも、1世紀のイエシュアの信者は、今のような宗教の教えや実践などしていないことが分かります。
聖書の勝手な読み違えをし続けているから、マタイ以降には、
ローマ教が書かれていると勘違いしているのです。
話しが少しそれますが、イスラエルの気候、地形は全て神の教えを
教えているものです。
春の過ぎ越しの後から、秋の仮庵迄の長い期間、雨が一滴も
イスラエルでは降りません!これ、体験すると分かりますが、
大地はカラカラでひび割れて、灼熱、水が無いとすぐ乾く体験をします。
水〜生ける水、荒野のオアシス=湧水=イエシュアを内側に受けない
なら、生きられないことを教えているものです。
イスラエルと少数の異邦人が歩んだ40年の荒野の旅は、救われた人
一人一人の人生を表し、教えているものです。
私達、今の時代のユダヤ人含めて、実際に荒野で40年、天から降る
マナだけ、神からだけ全ての必要を与えられ、サンダルも服も擦り切れないで生きた人はいません。
救いの岩がついて来て、神の声を直接聞いたり、火の柱と雲の柱、
神の臨在が真ん中に存在し、そして神に直接導かれて人生の旅路を
歩むことをした経験はないのです。
でもその荒野の40年の旅は、新しく生まれた人が、その実態を
神の声=トラーを聞いて、それを生きて、頭脳に神の教えを刻み
変貌することを教えているものなのです。
2)そして、もう一つ、神との関係にある人は、聖霊により教えられた、記された神の言葉を捨てたり、終了と言い続けたり、神の教えは自分には関係ない!と言い続けることがない。
神の教え=トラーを裏も表も知り尽くし、それを生きている状態になる。
これは、今現在起きてはいないでしょう。
神の言葉教えに反している、夫に対する裏切り行為と書かれている
ことであることを、全ての人が認識することになるのです。
裏切り、姦淫の罪と聖書に記されている意味を理解していますか?
イスラエルが通った歴史、罪、ずれでも教えられている通り、
カナン人、アモリ人、ヘテ人、異邦人=異教徒、異教神を崇拝して
生きている人たちの、教え、慣わし、伝統、儀式を通して、
イスラエルの神に近づく、拝む、礼拝する、祭りを祝うこと!
これが夫を裏切った!神の契約に記された生き方を捨てて、プラス
異教神の宗教の教え、人間の考えで神の教えを塗り替えた行為を
通して、神に近づき生きること!
これが、姦淫の罪、バビロンの大淫婦という用語で表されている
実態、行動なのです。
この偽物の教え、人間が作った宗教に変身してしまった教え、実践
記念日の全てが、未来には全て消える状態になると預言されています。
偽物の教えを売る商人は、イスラエルの神の宮には存在しなくなるからです。
それが新しい契約、人の内側が変わり、誰も主を知ろう!と言わなくても、皆が神の大家族として、神の契約、トラーを生きて、
イエシュアを中心に生きることをする。それが新しい契約の中に加えられた人の状態であることが、預言されています。
これは、現在途上なのです。
神は神の提示した婚姻契約を通してだけ、人と関係を結んでいる事実を、聖書からはっきり捉えて理解する必要があります。
夫を裏切る、イコール、夫の言うことを無視することです。
夫の言うことをやらないで、夫が言わないこと勝手にやり、
夫が禁じている行為を、夫の言葉を無視してをする。
それが、この契約は〜 エジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない」と説明していることなのです。
シナイ山の麓での出来事、よく考えてみると、浅はかですよね。
しかし、これは全ての人の辿るズレです。
神の言葉をすぐ疑う!そして、神の言葉教え、声ではないことに簡単に騙されて聞き入り信じる。
この繰り替えしが起きているのです。
エデンの園の最初から同じなのです。
イスラエルも異邦人も、誰一人、イエシュアを通して以外、父の元には戻れないことは、エデンの園から教えられている、同じ福音です。
創世記3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の
歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
神と顔と顔を合わせてエデンの園の中で歩き、神に直接神の教えを
聞いて、エデンを生きていたのに、その関係に隔たり、ひび割れ、
距離が出来てしまったのです。
そして、何が入って来たのか。恐れです。
神はいつも人に質問しているでしょう。神が知らないから、人からの答えを要求しているのではなく、人に考えさせているのです。
そして神が見る通りの正しい答えを人が発見することに、
導いていること、最初から記されています。
正しい答え〜発見の手がかりは神が伝えている事実=言葉=教えの中にあるのです。
神の言葉、教えを捨てる人は、必ず迷い出るのです。
創世記3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、
「あなたはどこにいるのか」。
この箇所を最初からブログを読んでくださった方が以前こう言われました。「神が怒っていると思っていたけど、ここに神が怒っているなどと書いてませんでした。」と発見を教えてくれました。
そうです。読み込みです。空想で読み込みしているから、書いてないことを、想像で読んでいるのです。
この声は、親の声です。失われた子を探し求める声。
遠い隔たりが出来てしまった、本来の状態ではなくなってしまった
子らに向かって、憐れみの声で呼び出しているのです。
これを読んでも分かります。神の方から人にアプローチしてくださるのです。人間の努力では、神のもとには戻れません!!!
そうすると、行いにより義、神の元に戻る、認められるという教えや
行為は、聖書に書かれていることとは完全に違う思想と分かります。
そして、この問いは、人類全てに対しての問い。神を発見するための問いです。
どこにいるの?そこは、あなたの本来の居場所?本来の生き方?
本来の考え方?全て神の目から見ることから飛び出して、別の目が
開かれ、肉の目=別の目、今まで知らなかった別の見方、本来の
見方、考え方、行動ではないことを、学習してしまったのです。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、
わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
神との間に、恐れはなかったのです。この恐れとは何でしょう。
命の木、知識の木とあります。これ1本の木と書いてあるのです。
ヘブライ語を見ると、翻訳では見えないものが、書いてあることが
分かります。
例えば、奴隷と、礼拝、仕える、全て同じ言葉です。
同じことを、違う目から見る、違うアプローチをすると、実態が
別物になってしまうことを、教えているものです。
この「恐れて」と書いてある言葉も、「怖がる、恐れる」という
意味の他に、「倫理的、道徳的、正しい」又は、「畏敬」と言う意味があります。
人が神が言われたことを疑い、神が伝えて禁じた、食べるな!ということを破り、違うことを行動して、死、罪、関係の変化、そして
神の目から見る通りが見えなくなってしまう幕がかけられてしまったのです。本来の実態、関係とは違うものになってしまったのです。
神が、質問していますよね。
1)誰があなたが裸であるとあなたに知らせた、言ったのか?
裸であると言うことが見えない。いや神の義の衣を着せられていた
状態だったのでしょうか。
又は、裸であるということを知る目が開かれていない。
これ、深い事実がここに書いてあるのです。
神の目から見る通りにだけ見ること。人は神ではないから、神が
見る通りではない別の目が開かれてはならなかった。
3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
たったこれだけ?食べてはダメ!と言われて食べただけでしょうと
思いませんか?
今も言っている、やっている。神の言葉は無効という宣言は、この蛇がやったことと同一です。
蛇=嘘にそそのかされ、嘘を信じて、それが神の言ったことだと
考えたアダムとハヴァと全く同じことを日々日常の中で繰り返していても、気が付かないのです。
別の目から見て、神が見る通りを見ないから、神の言われることなど
もう関係な〜い!という人間の教えを受け取り、それを信奉して
生きているからです。
続く