神が創造された世界 神が創造された聖なる集会 聖日 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神のアポイントメントの日は、季節と訳されている、モアデイムと言う言葉です。

この言葉は、創世記の最初に出てきます。

天の万象は、神のアポイントメントの日、聖日=定めの日を

司る為に造られたと書いてあるのが、その言葉、意味です。

 

創世記 1:14 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、

 
「季節」と訳されている言葉が、モアデイム、神のアポイントメントの日を司る為であると神が言われました。
そして、人の生きる命のサイクル、日、年は、全て神の創造された時を巡り、行われているのです。
神が創造された全て、時を含め、神の聖別された日全て、
神が創造主であり、神が人に神の創造された通りを、神の意図
通りに生きて!と教えている、それが神のトラーであり、
婚姻契約神の家に住う人の家訓なのです。
 
2つの事実があります。

神の伝えること、神の言葉、教えは、永遠に変わらない真実で

あり、人種別に、時代ごとに変化するものではない、それは、

人が神の言葉、言われることをどう受け取ろうと、どう考えようと、何を信じようと、どう感じようと、無視しようと、捨てようと、神の言葉の事実は永遠に固く立つと神が言われた通り、永遠に揺るがない、変わらないものなのです。

 

人が何かを信じる、私はそれが本当と信じるから本当だ!と考えていても、それは実は嘘かもしれない、偽情報かもしれないのです。人が信じる、イコール、その事実が本当か嘘か決まらない。

事実は永遠に事実、真実、嘘はどんなに時が経っても永遠に嘘。

それらが真実ではなければ、どんなに熱心に信じて、信奉し

生きても、それは永遠に虚構、嘘です。

偽情報、嘘を生きること、嘘を神の教えと信じれば、

それは、その偽情報を生きる人の生き方に影響を与えるだけで、

神には、神の言葉には何の影響もない、変わらないのです。

それにより、嘘がまことに変身しない。

神の性質、神の救いの業、神の言葉、教えが、時代ごと、人種ごとに変わる!と、どれだけローマ教、ダービー教の教えが主張しても、それは永遠に嘘!真実などにはならないのです。

 

人間の意見の投票で、これが真実!と大多数が投票したからとて、神が伝える永遠の真理、真実が変えられることはないのです。宗教会議の投票=これが、ローマ帝国教がやり続けていることですが、そんな人間の会議で、神の言葉を曲げようとも、神の前には、無意味、意味は全くありません!虚構。

真実は、人がどう受け取ろうと、どう信じようと、拒否、破棄

無視しようと、永遠に存在し、固く立つのです。

神の言葉は変わらないと、神が言われる真実に立たない場合

本当に砂の土台の上に立つ状態のままになるのです。

砂の土台の上に建てて家は、必ず崩れる。部分崩壊し続けているのです。

 

神が創造された世界を、神が伝える通りに人が聞いて生きる!

という基本中の基本が、人間が編み出した混ぜ物の宗教には

欠けています。その代わり、人間の考えに変えたもの、神が言われることを無視して、それぞれの考えを編み出して生きることをしているのです。

 

でも、神はずっと人に語りかけています。

神のモアデイムを生きる、これは、世界の中で、イエシュアの

姿、性質、そのものを生きて表して、神が真実であること、

購い、救い、そして新しくされたこと、そして未来にイエシュが戻られて、エルサレムから永遠に世界を治めることを、神の

モアデイムを通して、世界へ宣言し続けるものなのです。

 

ヨム テルア テルアとは、叫ぶ!という意味でもあります。

宣言!声明!神の声が、目覚ましコールが世界にとどろく。

神の元に戻れ〜!その方法、神が伝える生き方を知り、それに

戻れ!エデンの園の命の木に戻れ!

 
天の万象は、神の時、アポイントメント、聖日、神ご自身が
神の子らを呼び出していることを伝える為、同時に神のモアデイムを中心に、神の時、日、月、年の命のサイクルが巡っているのです。
 
神の創造された人の生き方は、サイクル。円です。
そして、時代、人種に関係なく、神が中心にいるので、どの地点でも、神とアクセス出来るのです。中心は神。
それが、出エジプトして荒野で宿営した12部族と、少数の
異邦人の宿営でも、表されているのです。絵画的な教え
見てすぐ分かる。神のミシュカン=神の臨在がある移動式神殿。ミシュカンとは、神が宿る場所!という意味です。
それを中心に、ミシュカンに向かって、12部族全てがぐるっと囲んで宿営をすることを、神に教えられたのです。
神の目を通して、神を中心に、互いが向き合い生きる!
エデンの園の、アダムとハヴァが互いに向き合い、そして神を
通して、互いを見て、知り、生きる。それを、最初からずっと
教えている。それが、神が創造された人の生き方だからです。
 
同じことが繰り返し行われ、命が命を繋いで行きます。
農業、収穫も同じ。人の生きる命のサイクル、そして新しくされた人が、成長するサイクルも同じです。
 
聖書を注意深く読むと、翻訳を読んでいても気が付くことが
ありませんか?
神の教えは、同じ内容、テーマで実は語られていること、
気がついていますか?神の教えは変わらないからです。
7という数字、3、4、5という数字。
40もたくさん出てくるでしょう。
それには、意味があります。7は、神の創造、命のサイクルであり、7日目が、週の節目、神が創造を全て終えて止まった。
人も40週で誕生します。命のサイクルは、40。
荒野の40年間、40日40夜。新しく何かが生まれ出る数字
です。
祭りと、定めの日の違いは、両方神の聖別された日であり
聖なる集会と呼ばれる、ミクラ コデシュ=聖会と訳されている
言葉です。ミクラという言葉は、呼び出す、声=コルと同じ
語源です。神の声に呼び出される。カハール=群れ、会衆、集会
と訳されている言葉、マタイ以降には、意図的に「教会」という
造語で訳されていますが、カハールも、声=コルという言葉が
入っているのです。
エクレシア(ギリシャ語)エク=Out of〜から外へ、クレオ=
呼び出す、神の声に呼び出された人の群れ同じ意味です。教会という造語では、表されない言葉、カハール、エクレシア。
 
祭りと聖書に書かれているのは、ハグ、ハギムであり、都上りの
祭りです。エルサレムの神殿に男子が上って、その家族も行けたら行って祝う祭りです。
年に3度、エルサレムに上るのです。
イエシュアも両親と一緒に少年時代にエルサレムへ祭りで
旅していた時に、親とはぐれて、結局神殿でイエシュアを見つけたことが記されているでしょう。ルカ2:41−52
これ、神が何を教えているのか、トラーから知る人、実際に神の
聖別された日を祝い続ける人には、クリアーにその意味が見えます。
イスラエルの神は、異邦人の世界で教えられているような、分裂の神ではありません。エハッドの神とご自身を紹介している
通り、1つ以上で全く1つの性質の存在です。申命記6:4
そして、その神に造られた人も、同じように1つ、エハッド
です。一体、主に在って1つと、マタイ以降に記されていることはトラーに記されたエハッド性なのです。
日本にも、お盆休み、正月休みに帰省するというのがありますよね。国に、実家、故郷に戻る。
 
イスラエルが、エルサレムに上るとは、神の家、故郷、そして
1つ神に、皆が登って行く、1つ場所、1つ神に全ての人が
1つに集められて行く様子が目で見ても分かるでしょう。
 
1)過越 2)シャヴオート3)仮庵の祭りが、エルサレム に
上って祝うハギム、祭りです。
そして、他は全てモアデイム=神の定めの時、アポイントメントの日、主の日、聖日、会見の日。それらは、
1)シャバット、2)新月(聖書の暦の第一日目)」今日がその日、そして2025年の第七の月の1日、ヨムテルア、神の
ミクラコデシュ、聖なる集会の日です。
春のモアデイムは3)種無しパンの7日間。これは過越の祭りの日から7日間です。
4)初穂、イエシュアが実際に復活された日が、初穂の日。
種無しパンの7日の真ん中にあるモエッド=神の聖日。
過越(祭り)から、7週後、小麦の穂を数えるシャバットを7回祝った後に来るのが、シャヴオート、(ヘブライ語で週複数)の
都上りの祭りです。
 
春は、シャバットと新月以外では
1)過越(初穂)種無しパン、初穂、シャヴオート(祭り)
です。4つの祭り。
秋は、
1)ヨムテルア ショーファーを吹く日。ユダヤ人はローシュ
ハシャナと呼びます。新しい年のサイクル、農業のサイクルも
秋から始まるからです。そして、仮庵を境に、トラーを又最初から読むサイクルに入るのです。
2)大贖罪日、ヨムテルアから10日後にある聖会です。
神の前に、一年を振り返り、神のトラーに照らし合わせてズレた
生き方をした全てを軌道修正し、新しい年を、神の教えに根付いて生きる決意をする日です。これは、個人ではなく全員でする。
3)仮庵の祭り7日間 第8日目の聖会
イスラエル全体、そして神の子ら全員!クリスチャンは、神の
聖なる集会に呼び出されていることすら、教えられいない
認識していないのです。神は神ご自身が人々を呼び出された日に
特別な会見、出会いをする!と約束して下さっているのに、
神の特別な会見、宴会を信じた最初から、1つも教えられていないのです。それは、神の教えではなく、人間が作った宗教、
ローマ帝国が作った宗教の教えと、伝統、記念日を、本物とすり替えて教えられしまったからです。
 
そして、神の祭り、ハギム、アポイントメントの日必ず止まります。シャバットとして取り扱います。
だから、全ての祭りの中心は、シャバット。神の創造された事実
実態から全ての人が生きることを、最初から教えているのです。
神の子らは、神の印が付けられているのです。
それが、シャバットなのです。偽物にすり替えても、それは意味がないのです。
 
春の祭りと、アポイントメントの日は4つ。秋は、3つ。
これも、7です。見えますか?神は最初から、神の完了の業で
修復をすることを、ずっと教えているのです。
第一の月の1日。新月から、二週後、7日が二回巡り、過越の祭りです。7日間の祭り。
そして、シャヴオートは、過越から7週後、7回のシャバットを経て、婚姻契約を受け取った祭り、小麦の収穫祭でもあります。
そして、雨の降らない夏を通して、秋の祭りは、第7の月の1日
ヨムテルア、その日から10日後が、大贖罪日、そしてその5日後から、仮庵の祭りの7日間。
全ての記念日、祭りは、シャバットで祝い、シャバットで閉じるのです。
神の教えを塗り替えて、人間の教えを、神の教えだと言い変え、そして神の記念日も同様に作り替えて、人間創作のものにするから、神が教えている教えが見えてこないままになっているのです。
 
これら全てで、イエシュアの業、そして人の生きる、命のサイクルを神と共に生きて、新しい人として、御霊の実がなる神の
プランした命の生き方を、神が教えているものです。
そして同時に、人類の歴史のサイクル。エデンから出てエデンに戻る。
 
神の定めた時の中、神の聖会から聖会へ、新しくされた人の
事実を生きて、神に色々教えられるとあるのです。
イエシュアが教えたのは、100%モーセの五書であり、
イエシュアが教えて、祝われたのは、レビ記23章にある
上記の神が創造された神が「わたしの記念日、永遠に代々に渡り祝われるわたしの記念日」と言われたものなのです。
未来、イエシュアがエルサレム に戻られたら、全ての人が、
上記の神の記念日、アポイントメントの日、聖会にこぞって祝い
集うのです。どの場所に住んでいても。
そして、人間が作った全ての宗教の祭り、記念日は消えるのです。それは、まやかしであり、イスラエルの神に属するものではない、人間が勝手に創作したものであり、イエシュアとは異物
元々何も関係のないものだからです。