聖書は、創造主であるお方、イスラエルの神が創造された世界と神が創造された人がどのように生きるのか?
神がどんなお方で、人は神とどのように関係を結び、育み
どのように神と関わりを持ち、神の前に出るのか、生きるのか
その全てが書かれているものです。
人間ではない、私たちの想像を遥かに超えた存在であるお方
神が人に神の創造された世界と、深いところにある神の思索、
考え神が創造された人がどう生きるのか?が書かれているものが
トラー=神の教え、インストラクション 聖書と呼ばれるもので、聖書全体はトラー=モーセの五書に記されたことを解説しているものなのです。
神と聞いても、それは人間の考えている神であり、聖書に書かれている神ご自身が伝える神の性質とは違うことを教え続けているのが、西洋人が作った宗教教理です。
神は人間のように変化しない!神の言葉は永遠に変わらない!
と言っているのに、クリスチャンは神の教えを退けた思想だけを
聞かされ、神の性質と、神の言葉は変化した!と言うダービー教の教えを信じているのです。
ローマ帝国皇帝達は、1世紀以降意図的に、勅令、法律を持って
ローマ帝国下に生きる人々に、神の教え=トラーを生きること
割礼を授けること、神の記念日を生きることを禁じてきたのです。
彼らローマ帝国支配者達は、自分で何をしたのか=人間が神の
教えを変えたことをはっきりと知っていて、カトリックの質疑応答の経典にも記されています。
カトリックは、教皇イコール神と同等の権威があり、神の教えを変えて良い!などと、勘違いしているから、聖書ではない教理を
ずっと宗教会議で編み出し続けて、決定してきたのです。
人間が神の座に座る、罪です。違反行為、冒涜行為。
文盲時代〜印刷技術もない16世紀まで個人で聖書を持たない、文字を読めない人が、教皇や、教父、司教が唱えるズレた思想だけを、耳で聞いて信仰を生きた中世の暗黒時代の人々は、偽教師の偽物の教えでも、それらが聖書かどうかも、聖書から確認も
できなかったのです。
いや今も同じでしょう。聖書が手元にあるのに、聖書に書いて
あるのに、聖書に書いてあることを、人間の思想で変換して、
読み続け、神の教えの方を否定し、神の教えは廃れた!と
聖書ではない思想を唱え続けているではないですか。
聖書に書いてある神の言葉の意味、真実が通じないのは
人の教えで遮られ、神の言葉ではない、人間の教えに変換して
聖書を語り続け、読み続けている間違いをしているからです。
今の異邦人クリスチャン達は、ダービーや、置換進学を唱える人の思想が聖書であると教えられ、伝統で語り継がれ、神学校の
教師を通して講壇から教えられ続けて来た人間創作の神学思想が、聖書の事実などと、聖書に書いてないことを信じているのです。
不思議でしょう。どうして、神が言われることを、真実であると信じないで、神の言葉の方を拒否する教えを義、正義、恵の
時代の新しい教えだ!と言う嘘を信じられるのか。
聖書に書いてないことを信じて、実践し、神が伝える教えを捨てて、別物をやり、祝うのか。
メシアが地上に来られたと言う大きな歴史の中の出来事で
神の性質、性格、言葉、業、救いや購いの方法が変わると
思い込んでいるのです。
神人が生きるのに必要な全てが、神の言葉、それは人間が理解できる言葉を通して、人が理解できるように記されているものです。神の教え、言葉を捨てる人には、神が何を考えて、何を人に教えているのか伝わらなくなり、理解できない状態のままになります。その代わりに、神の言葉ではない、人間の考えを刷り込まれ続けて行くのです。自分の空想、憶測の世界に留まる。
神の言葉のどの部分でも捨てて良いと考えている思考回路こそが、エデン=神の中=喜びから飛び出した状態であり、別の周波数の下にいて、別の声=蛇の声が混じったものを聞いている状態であることに気がついた方が安全です。
ヘブライ語で書かれている言葉で、聞くと言うのは、「シャマ」
従うと訳されていますが、どんな状態のことが書かれているのでしょう?
この言葉は、ガードする、治めるなどと同じ語源なのです。
もし〜とあるのです。「もし、あなたが〜」とある。
これは神との関係に入ること、神に近づくこと全てに対して、
その願望があなたにあるなら、もしあなたがそうしたいと思うなら〜と言う、人に選択権が与えられていることが書かれているのです。強制ではない。
そして、もし神の声の下にいて、神の声の中で、神の声、つまり
神の伝えることは、神の言葉=トラー=教えを聞くなら〜と
書いてるのです。
もし人がそうするならば、神の声を正常に聞く状態にいて、
そして神の言葉を、神が理解する通りに理解して受け取るなら、神の言われる通りを生きる、それが最善であり妥当な行動です。
これが「従う」と訳されている言葉で、そのヘブライ語は、
シャマ=聞くと言う単純な言葉なのです。
神の言われることを理解しながら、違う行動、考えをする、
それ自体が「神に逆らっています!」と行動を通して宣言していることであり、普通そんなことなどしないから従うと訳されているのです。
人の教えの方を選択、買い、神の言葉を退けていることに、
気がついていないから、クリスチャンは、神に逆らうことなど
していないと考えているのが普通でしょう。
純粋にジーザスを愛している。でも、メシアが教えた教えではない、人間の教え=神の言葉=イエシュアを否定する教えを信じている矛盾があるのです。皆がそう教える、そう主張する、そう
実践する、伝統で多くの大衆が20世紀に渡り、聖書ではないことを継承しているから、それが真実だと思い込んでいるだけなのです。
一番目覚めないのは、非聖書的教えを、常に人に教える人です。
人に教え続けているから、ズレに気がつけない。
自分の思索の中で、ずっと違う教えを考え、こねくり回し、
人間の教え、思想の脳回路の枝を発展、育成し続けるからです。
進化論を教える、科学者や学者と同じ。
神は、神の子らに日々のリマインダー、それを見て、神が何を
教えているのか、直ぐに思い出されられること、気が付くこと
信号機にように見たら直ぐ、反応できる印を与えています。
クリスチャンの中には、自分たちで考えた印、十字架など付けますが、神の仰せの中には、そのような仰せ、教えはありません。
十字架、それはクリスチャンの間では、キリストの愛、命を
投げ出したと考えるから、それがキリストのシンボルだと考えますが、十字架、木にかけられるものは呪われるとある通り
ローマ帝国の処刑は、木にかけることであり処刑の印なのです。
大事なのは、神が伝えること、神が伝えている通りに生きる、
することです。
神が与えている印、リマインダーはたくさんあります。
それらは全て、神の子とされている、新しくされている、
神に属している聖別された人、聖別された人の生き方を
それを見るだけで思い出させ、そして考え、行動に実践する
ことをさせるためです。
古い廃れた教えという、偽情報を信じる場合、それは、偽情報で神の言葉を捨てさせられている危険に気がついてないことを
知ってください。危険な毒を、安全だから何度もやってね!
とそそのかされたのと同じ事です。
皆がそういうから、それに反対する人は、異常だ!陰謀論だ!
と言っているでしょう。世界で何が起きているのか、目覚めて
いる人は、理解しているのです。
神の与えているリマインダーは、信号機と同じです。
目で見てすぐ分かる、行動に移せる。
黄色!危険。赤!止まれ!青 安全、Go行って良い。
これ、見ただけで考えもせずに、反応、応答、行動できるでしょう。それと同じです。
日々のリマインダー、印は何と聖書では書いてありますか?
食べること!エデンの園の教えと全く同じで、同一です。
神の言われることを聞いて、生きること、これは神が人に執拗な嫌がらせや、嫌味や、神が人を縛りこき使う、するするなの
掟リストと、クリスチャンは考えているでしょう。
怒りの神だから、意地悪、人が生きられない律法を以前は与えたのだ!などと主張している教えがそれです。
だから古い廃れた律法などと言うエデンの園=神の考えの内側から外側に飛び出した思考パターン、神の教え、神ご自身を誤解する思想、神像、偽の教えを通して、偽物の教えを刷り込まれ
続けていることにはっきり聖書から気がついてください。
神が言われたこととは違う、神像、神の性質、言葉の性質を
ずっと最初から、聖書とは真逆の思想を語る、それがローマ帝国
製造宗教です。
シンプル!神の教えは、全て神の創造された人の性質を教え
〜〜〜するようにあなたは造られていますから、あなたは〜〜〜をします。〜〜〜するようにあなたは造られていないから、
そのような行動、考えはしません!と創造主が言っている、
人間が言っているのではないのです。
簡単でしょう。律法だとか、義とされる証明をする、その目的で
そのために神の教えを生きると言うローマ帝国教が編み出した
宗教思想は捨てないと、神の言葉、教えの真実、事実、真理は
見えません。
神が伝える、神だけが神が創造された人の生き方を伝えることが
できる唯一の存在であり、人間が勝手にあれこれ、神の言葉に
手直し、修正、削除、破棄、無視するから、こんな混乱、罪、
逸脱した宗教の教えに縛られた生き方にずれてしまったのです。
日々のリマインダーは、食べることです。毎日、ずっと何を食べるか考え、選択をすることで、神の教えを生きることを教えている。クリスチャンは神の教えが廃れたと教えられているから、
ジーザスを信じても、異教徒と同じ、神の聖別を汚す生き方が
何か、聖書から理解してもいません。
しかも、異教徒の生き方、異教徒文化、異教徒の食生活、
異教徒の日常生活が異邦人には馴染み、染み付き、周りが皆
しているやり方、食べ方、生き方なのです。だから、神が言われている、聖別された人の生き方、神の国、神の家、神が伝える
大家族の生き方が分からないままなのです。
ぴんと来ませんよね。どうして悪いの?と思いませんか?
でもそれが、神の言われたことを聞く!生きる!の基本です。
神が NOと言われたら、Noだからです。エデンの園のアダムと
ハヴァの誘惑と全く同じ!!!なのです。
当然そうでしょう。以前の異教徒生活のまま、罪の定義を捨てる人には、罪が何か分からないまま今は無法=トラー無し時代!
と言う大嘘、イエシュアが警告している罪を堂々とやりながら、それが恵の時代の解放された自由な生き方だ!などと、嘘を信じている。
でも、それは神の目には、完全に汚れた行為であり、神の家の
お茶の間に土足のまま、上がれないのです。
イエシュアが神の教えを破るように教え、シャバットを汚し
豚を屠って弟子達と食したとでも考えているのでしょうか?
そんな、おぞましい、神を汚す、聖別を汚す生き方をイエシュアはしないし、人にも教えない!そんなことをしている人は
聖書には記されてもいません!
いや、使徒15章にある、異邦人。イエシュアを信じたけれど
神の教えを知らないから、同じように異教徒生活をし続けていた人たちのことが書いてあるでしょう。
異教神の神殿で、不品行ー異教神の神殿娼婦と多産を祈願する
儀式=性的交わりをし、豚を祭壇に捧げ、豚を絞め殺し、
豚を食べ、豚の血まで飲む!こんなことをする人は、神の宮に
招かれない!と書いてあるのです。
使徒15に記された異邦人達は、メシアを信じても、神の教え
トラーに記された罪の定義を知らないのです。
異邦人が神が人に伝える罪が何かも理解していないのは、神の
言葉が廃れた!と言って、汚れた行為をし続ける場合も全く同じです。
神が伝える罪を罪だと分からないから、それは神の前に祈って
清められているなどという、無理な解釈をしているのです。
豚を祈っても、それは汚れた動物であり、それを取り入れることは、神の前に御法度、聖別を汚す行為、罪である!と書いてあることを、異邦人が理解していないだけなのです。
厳しい?いや、神がそう言われることが厳しいという人は
神が伝える意味が理解できていないというだけのことなのです。
人を破壊し、病気にし、環境、生態系を壊す行為、神が忌み嫌うと言われる聖別を汚す行為は、罪に決まっているのです。
神がそれをするな!と言われているからです。
するな!と言われていることに今も神に言われていることを、
神の言葉を捨てよ!というローマ皇帝のような偽教師の偽物の
教えを信じているから、神の言葉が変わらないことにも
聖書から全く気がついていないから、平気で罪を、聖別を汚す行為を実行できるし、無感覚なのです。
でも一旦、神の警告が永遠不変であることを、神の言葉から
正しく理解した人ならば、そんな聖別を汚す行為などしたいなどという、敢えて罪を犯す選択をして神に逆らいたい!
などという考えはできなくなるのです。
問題は偽情報を信じて、神の教えを退けていること!
神の言葉を捨てることこそ、死に匹敵する行為!と書いてあるのに、偽物の教えを信じるから、神の警告が聞こえない。
ずっと堂々巡りになります。
他のリマインダーも同じですが、霊的物理的肉体的全部丸ごとで
一体なのです。
これらを通して何を神から教えられていると思いますか?
神が言われることを聞いて、知り、それをよく考え、吟味して、常に神の教えを忘れずに生きる。神の考えと1つになること!
これをずっと練習させられているのです。
そのような生き方、生きることが、礼拝の本当の意味なのです。
神が真の礼拝者を求めているとあるでしょう。
どこかの動画に、主を愛します〜真の礼拝者です〜などと言い
続けて、何時間も部屋を、街中をグルグル徘徊している動画がありましたが、そんなのは礼拝ではなくて、彼らが考える宗教の
礼拝なのです。
神が人に伝えている意味は、イエシュアも教えられた通り、
神の言われたことをその通りに生きる!神を愛する人は、
神のトラー、仰せを生きるとあるでしょう。
神を愛する人は、神の教えを破るように人に教え、自分も神の教えを捨てて生きるなどと、聖書のどこに書いてありますか???
逆が書いてあるでしょう。神の教え=トラーを破るように人に
教える人は、神の国で一番無意味、価値ない存在、神から遠く
離れた場所に追いやられると。偽物を教えて人が神の伝える真実、真理を知ることを妨害するそのものをやり続けているからです。マタイ5:19