神が与えた印 日々の週の月の一年のリマインダーとは | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルのために祈ろう!と言うならば、まずクリスチャンは

神の教えを否定する宗教教理を主張している、聖別を汚す生き方をしている、聖書を否定する間違った思想を信じているズレに

気がついた方が良いです。

 

聖書を信じている!聖書信仰だ!聖書は絶対だ!と言いながら

実は、その宣言とは違うことをしているでしょう。

実際は、神の教えを神が昇天以降破棄した!と主張し、聖書は

完全と言いながら、不完全だから変化したなどと言い、神の伝える教えを破棄された古い無用なものだからと、捨てて生きない。ローマ帝国皇帝教を信じ、実践し、聖書とは別物の教えと、

神の創造された記念日を捨てて、ローマ帝国皇帝が作った記念日を代わりに祝っている。

聖別を汚す=神のシャバットを汚し、汚れた動物を食する。

神が食べ物ではない!と伝えているのに、今は神の教えは廃れた!これ考えたら矛盾でしょう。

主張と、実践が一致していないことに、全く気がついてないのは、聖書ではなく、人間の教えに照らし合わせているから、

昇天以降は神の教えは廃れた!という嘘を信じられるのです。

 

ユダヤ人の多くは、クリスチャンの言うことに対して全て逆を

言います。赤といえば、青、白と言えば黒と言う。

何故だと思いますか?

神の教えが廃れたという大嘘、聖別を汚す汚れた生き方をし

きよくない動物、清掃動物を異教徒と同じように無分別に食し、そして神の聖日、シャバットや祭りを汚し無視している!こんなことをして、罪を犯している人が語るメシアなどは、偽宗教の

偽物メシア!そして、ユダヤ人を迫害する教祖様の宗教であると考えているのです。

アジア人は違いますが、ユダヤ人には白人に迫害された悲惨な

重い歴史があるからです。

 

メシア、イエシュアはタナックに記された事実でも、

クリスチャンが解説するメシア、神の教えは、聖書に記されていない偽物の教えが混ぜられた、人間が作った新興宗教の思想だからです!

だから、トラーを知るユダヤ人は偽物の教え=ローマ帝国教や

ダービー教の教え、まやかしの教えには騙されないのです。

いや、ユダヤ人でも、変な思想を持つ人、ダービー教の思想を

刷り込まれてヘブライ聖書と言いながら、結局デイスペンセーション神学思想で、聖書を解説する人までいるのです。

だから、ユダヤ人とて、皆が皆正しい理解をしているのではないのです。

汚れた生き方をする野生動物が、神の教えとは違うことを主張して、一体何言っているの?と彼らは考えているのです。

ユダヤ人は、偽物の宗教の教え、ローマ帝国教、プロテスタント、モルモン、エホバでも全てカトリックと全部ひっくりめて

呼んでいるのです。

メシアを知ったユダヤ人が、名前を出したら誰でも知っている

人が言っていました。

クリスチャンの世界で語られているメシアのせいで、偽物の

メシア像で、本当のメシア=タナックに記されたメシアが覆い

隠されて見えなかった、見つけられなかったではないか!と

イエシュアに出会った時に、そう泣き叫んだそうです。

その通りなのです!異邦人が偽物のメシア像、イスラエルの神、

神の教えを破棄する神などと伝えるから、本物の神=イエシュアが覆い隠されて、見えなくしているのです。

偽物=ローマ帝国教の教えで、神の教えの真実が多く覆い隠されてしまっているのです。

それら偽の教えは、神の教えを人が否定し、神の教えを生きることを禁じたローマ帝国皇帝教であり、イエシュア=神=聖霊ではない。聖霊=言葉=神=イエシュアが、ご自身を否定する?

おかしな思想を、クリスチャンが教えられ続けてしまった代償は

大きいのです。偽物の教え〜人を縛る教えだからです。

真理を知らない人は、本当の自由を得ない!とあるでしょう。

真理を知れば、真理はその人を解放する。解放とは、神の教えを生きることから解き放されると言うことではなく、イエシュアの似姿にされた人が、罪の支配の下に閉じ込められたままにはならない、阻まれないで、神の性質通りを生きれるようにされているから、イエシュアの性質〜トラーに記された本来の人間の生き方を生きれる!と言う意味です。

 

神は神の教えを通して、日々の練習、神にぴったり一致、神の

考えとぴったり一致して生きる、行動する。本体に繋がる正確な影、イエシュアが示した通り、父の言われること以外やらない!と言ったことを、神の言葉を選択して生きる中で、日々練習することを教えているのです。

そして食べ物自体も、神が創造された、人が食せる動物、

神の創造の目的通り、食するにふさわしいものを人は食べて生きる!これが、最初の最初から教えられているのです。

 

神の教えが変わったという大嘘=砂=やがて崩れ去る崩壊する

思想は、最初は、こう神は言ったけど、今の時代は違う教え、

神のトラーを破棄した教えをしたと言う、これまた偽情報を通して聖書=神の言葉を歪めて考えることをずっとしてしまう、

しているのです。聖書ではない!

最初も部分の神の教えと最後の教えは違う。原始福音などと言う言葉も、本当にやめないとなりません。神の教えに、原始も進化も変化、近代も最新もないからです。ずっと同じ!

このような言葉、タイトル、名前により、人の中に聖書、神の

教えではない思想がずっと形成され続け、エデンの園=神の内側の外側、神の考えと外れた場所で、別の声を聞き続けている本当の原因なのです。

食べてはダメ!と言われて、でもそれが目にうるわしく美味し

そうと思う。今も今日も思うでしょう。あのお店の豚肉餃子美味しそう!エビチリソースも、アワビも美味しそう!クラゲも

豚骨ラーメンも食べたい!同じです。

なんでも食べて良い!自由だ〜と思うのか、神がNOと言われたことは危険、人のすることではないから、そんなものに手を出さないと考えるのか。

エデンの園と、同じ。アダムとハヴァが誘惑されたことと

全く同じ。

神の教え、言葉を取る選択をして生きるのか!それとも自分の

願望、考え、感情、判断に沿って神の教え、言葉を退けて、

罪を犯すのか!?全く同じ事です。エデンの園の教訓と同じ!

日々の訓練なのです。別に何も難しくない。

神の考えとぴったり1つに一致することは、神が言われる通りを常に生きることで、身に付けていくのです。

でも、そのズレをやっちまった〜のが、アダムとハヴァ。

しかも、全人類を罪、隔たり、エデンの園の内側から、外側、

神から切り離された場所に閉じ込められてしまったことを、

食べてはならないものを食べたせいで、そうなったこと、

クリスチャンは、考えさえしない、忘れているのです。

同じ警告であることに、気がつけない。

それは、昇天以降、事情、状況、神の教え、神の業、救いの方法

購い、そして神の教えが廃れたと言う大嘘を刷り込まれているから、変化したと言われて、そうか〜と思っているのです。

時代の前後で、神の教えが変わるという聖書ではない、偽情報を刷り込まれているから、聖書を正しく読み取れない!

でも、それは真実などではありません!聖霊は、最初から人の

内側に住んでいる。救い、購いは永遠の中に完結している!

何も変わらないのです。神の言葉、教えも変化しない。

清掃動物を食べたら、誰でも影響受けます。特に神に造られた人は悪影響受けます。他の人にも、環境にも菌をばら撒きます。

人間はイエシュアが昇天以降、進化していないからです。

聖書ではない、おかしな思想を、教え込まれて来たことに、今世界中のクリスチャンが、聖霊=言葉から気がつき、目覚めている。

それは、神が一人ひとりに嘘から目覚めるアプローチをしているからです。ユダヤ人に対しても同じ。イエシュアがメシアであることを、明かされている。神の時に、神が一人一人に近づき

真実に目覚めさせてくださるからです。嘘に騙されて眠った状態でいるのは、本来の生き方ではないから。主の道を備えよ!とは、偽物の教えを生きていれば、準備ができないからです。

 

神の教えを理解しないなら、なんでも食べて良い〜自由だ!

厳しい律法から解放された!嬉しい!恵の時代は大歓迎!なんでも出来る!お寿司屋さんで全てのネタが食べれる、幸せな時代っですね〜と言っていた牧師がいましたが、聖書を理解していないからそんなデタラメが言えるのです。

いや殆どのクリスチャンは、そう信じているでしょう。

でも、実はそれは人を、他者を、環境を破壊する行為でもあるのです。神の前に忌まわしい、おぞましい、神が最も忌み嫌われること、聖別を汚す行為であり、神の子らの振る舞いではない。

イエシュアを愛する人は、意味が分かれば2度としたいなどと

思えません!

 

イザヤ 65:2 よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。

 
よからぬ道とあれば、犯罪や不品行、その他に手を染めていると考えるでしょう。でもここに書いてあるのは、ロートヴ
神の意図とはズレたという意味、神の意図していないことを
やっているという意味です。それは、神の意図とは違う
詰まり、命と善悪の木、トヴ ヴ ラア
神の意図と外れたこと、全てを悪=ラアと言い、それを
ロートヴ、否定形で神の意図ではないと書いてあるのです。
その神の意図とずれた人は、何をすると書いてありますか?>
 
65:3 この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、
65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、
憎むべき物の、あつものをその器に盛って、

 

<ここに書いてあるのは、神の言われることとは違うことで、

勝手に犠牲を捧げること、自分の選んだ場所ー園、神が指定した神殿ではない。その捧げる犠牲も汚れた動物。

しかも、礼拝しているつもり。神が言われたことと、違うことをして、神を崇めているつもりでも、神の目には汚れそのものでしかないと書いてあるのです。

そして、4節に書いてあるのは、豚の肉、これ食べているでしょう異教徒と同じように。イエシュアが内側に住まわれているのに

神の忌み嫌うものを神の宮である体が取り入れる。

そして、憎むべきものとは、きよくない動物と書いてあるのです。詰まり豚のようにレビ記11章に教えられている、人間の

食べ物ではない清掃目的で造られた清掃動物を、聖別された人は食べない!と教えられているのに、神の言葉を理解しない人は

神の忌み嫌うものをなんでも無差別に異教徒と同じように取り入れる。憎むべきあつものとは、その汚れた動物のだし汁のことです。豚骨スープと同じです。>

 

物理的に、汚れた動物を食べることは、その汚れがずっと体内に留まり、そして血肉になる。聖別を汚す行為そのものです。

You are what you eat.と英語でぴったりな表現があります。

神の教え、神が禁じることをすることで、イスラエルの神を

否定した生き方をするのか、それとも神が言われた通り、

イエシュアと同じ生き方をして、地上にイエシュアそっくりの

実態を表し映し出す影になるのか。

別物と交わる、姦淫の罪とは、自分の性質ではないものを、

物理的にも、霊的にも、思索的にも取り入れることなのです。

神に造られた本来の性質とは異なることをする。

神が言われることに、逆らい生きる、それが神の言葉を無視する

思索、行動なのです。

車にガソリンではなく、水を入れるような行為です。

日々する普通のことを通して、聖別とは何か、神に聞いて生きる

主を愛するとは何か。神の言われた通りを生きる!と至るところに書いてあるのに、人間の作った西洋宗教は、神の言葉を捨てて

人間が主体にあり、人間の判断でなんでもして良い!と言う

危険な思想を、語り続けているのです。

聖別とは、神の目的通りに分かたれた事実を生きることです。

食べること、飲むこと、全てを通して主の栄光を表すとあるのは、主の栄光=目に見えないイエシュア=本体の影=人の生き様を通して表すこと。その人達が、神の宮である聖別を汚す生き方をしたら、それは本体を離れて、勝手に偽物を地上に映し出す

影であり、イエシュアの影ではなくなるのです。

ローマ帝国皇帝教の影を、映し出しているだけです。

 

 

 

続く