本物を知ったら偽物が見える 聖書に戻れば非聖書的人間の教えは見分けられる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

タイムマシーンが無くても、歴史の中で起きた真実、出来事の

真相が分かれば、今まで聞かされてきたことが、全て100%

本当ではない、真実ではない、誰かの創作した作り話や、思想、そして人を印象操作するプロパガンダであることが多くある事を知ることが出来ます。

 

「箱を出て考える」という英語の表現がありますが、箱とは

イコール自分の中にある既存固定概念、思想、先入観、物事の

考え方のことです。

自分の頭の中にある脳回路の枝、引き出しからしか人は、外部にある情報を取り入れ、分析し、処理をできないからです。

教え込まれた思想は、それが、正しくても正しくない概念でも

ガッチリ根付いて自分の一部になってしまうのです。

 

真実か、真実ではないかなど関係ない。その人が信じる事

それが箱=固定概念であり、その人がそう思うから、そうだと

考えているだけで、それは真実か否かには、全く関係ないのです。

宗教の世界は、一般の学問の世界とは異なります。

科学も、歴史も改ざんされた思想、仮説、情報が混入していますが、一般的には、その道での熟練された研究や、学びがされた

教師達が教えています。

そうでなければ、学校に行く意味がないのです。

正しくない教えを学びに行っても、正しい事を習得できない、

意味がないからです。

 

聖書を読むとユダヤ人は、神の教え=トラーを受け取り、

世界へ神の教えを正しく伝え、生きる事を教える役割を与えられたことが、記されています。

アヴラハムが、全民族の父とされたのはそれが目的です。

全世界へ同じ、購い、救い、祝福、新しくされた人として、

神の似姿=イエシュア=トラーに記された神に創造された人の生き方をガードして生きる事を代表として教える役割です。

 

12弟子達は一般の人たちで、それぞれの職業を持っていた人たちです。でも、異邦人との大きな違いがあるのです。

彼らは、代々、テモテと同じように幼い頃から、トラー=神の

教え=モーセの五書に記された教えを、家族や、親戚や、会堂で教えられ、そして、神の教えを実際に実践し生きて成長した人達です。

そして、シャバットを祝い続け、新月を祝い、過越、仮庵を

祝ってきたのです。トラーに記された生き方を、日常生活の

中で実際に実践し、生きてきた人達なのです。

異邦人とは違うのです。異邦人は、メシアを信じても、

実践してきたのは、神の教えや、儀式、記念日ではない、

ローマ帝国皇帝が作った宗教の教え、思想慣し、伝統、記念日であり、聖書とは異なるものをやってきたのです。

神の教えは廃れたと教えられ、聖別の意味も教えられないまま

異教徒と同じような生活をしているのです。

そして、人間が作った記念日を、イエシュアが創造された記念日

とすり替えて、祝ってきたのです。

世界中も、異教徒でも、クリスマス、イースターを祭りとして

祝うのはそのせいです。その裏には、元々の祭りが異教の神々

女神の祭りだからです。

 

だから、誰に聖書=トラー、預言書、諸書を教えられたのか?

とパウロが確認し、言っているのです。

聖書に登場する人達は、西洋宗教の教えや、神のトラーを捨てた教えや、別の記念日、日曜礼拝、クリスマス、イースターなど

知らないし、祝ってもいません!

聖書に記されている全ては、ヘブライ思索のヘブライ語が土台

言語の内容であり、西洋宗教の西洋哲学思想で考えるような

内容とは異なることが記されているのです。

西洋では無く、ヘブライ人が、ヘブライのトラーを語っている

という事実だけに立って読み直す必要があります。

 

1テモテ4:13 わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。

 

この箇所で、聖書とあれば、福音書〜黙示録と空想していませんか?パウロが語っているのは、クリスチャンが否定するトラーを律法と呼び、悪い古い廃れた恵のない生き方に戻るな!と

主張することが記されていると考えていますが、それが「聖書」に書かれた「聖書」なのです。聖書と言えば、それはトラー=モーセの五書=

神の教えであり、異邦人クリスチャンが空想していることとは

全く異なる事を聖書では語っているのです。

トラーを教えること、勧めることに、頭脳を用いよ!とパウロが言った意味とは逆をしているのです。神の教えは廃れた!という

教えは、ローマ帝国皇帝の勅令、神の命令、仰せなどではない事を、聖書からはっきり知ってください。

聖書に聖書と記されていたらそれは、トラー=モーセの五書

であり、トラーを解説する預言書、諸書のみを指して語っている

永遠の事実だけに立って正しく聖書を読み直してみてください。

 

2テモテ3:14  しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。

あなたは、それをだれから学んだか知っており、

 

テモテは、西洋宗教=神の言葉を改ざんした人間の教えや

思想など1度も聞いてなどいませし、ローマ帝国皇帝が作った宗教の教えなど教えられてなどいない、学んでもいません。

昇天以降、神の教え=トラーが廃れた!などというまやかし、冒涜も

もちろん聞いていません!テモテが知っていた学んでいた

生きていた教えは、トラー=モーセの五書のみ!!

律法は廃れた〜、十字架で釘付けにされ破棄された〜恵を捨てた生き方の律法に戻るのか〜!などという、ローマ帝国皇帝、

教父、ルターやダービー教の教えなどテモテは知りません。

もし、聖書に登場する人が、律法は破棄されたのだ〜という

ローマ帝国皇帝と同じ主張をするならば、その人達は即座に

偽教師、偽預言者、偽の教えをする人と認識され追放されるのです。

だから、パウロが巷の噂で、トラーに反する教えを教え、

割礼を施す事を禁じているのではないか?という嫌疑をかけられてしまったので、使徒 21:20−24で、パウロ自身が

100%モーセの五書に忠実に生きて、人にトラーを否定する

教えや、生き方など示していないという証明を、神殿でナジル人の請願を通して証明したと、証拠として書かれているのです。

そのように、もしクリスチャンの世界でまかり通っているような

教えをする人が、聖書に登場する人の中にいたとしたら、その

人達は即座に神に敵対する教えをする、神の言葉に反する事を教えている偽教師として認定され、追放されてしまう事を理解しないとなりません。

 

2テモテ 3:15  また幼い時から、聖書に親しみ、それが、

キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、

あなたに与えうる書物であることを知っている。

 

<ここにはっきり記されています。幼い頃から、トラー=

モーセの五書、預言書、諸書に親しみと書いていあるのです。

タナックに記された神の教えは、メシアに至る信仰に導くものである!と書いてあるでしょう。

異邦人は、その箇所の聖書をユダヤ人のようには学びません。

福音書以降だけを、主に読むだけです。

それらの箇所=タナックに、イエシュアに対する救いに至る知恵

が記されている!と書いてあるのです。

イエシュア、恵、購い、許し、人の生きる全貌は、トラー

預言書、諸書に完全版として記されているからです。

福音書は、聖書の最後のほんの短い註解書です。だから聖書の

たった25%であり、その箇所は、預言者が書いた書ではありません。使徒達が書いた書簡です。その意味は、神の教えを塗り替えるような別の教えや、別の神学、別の宗教の教えは記されてなどいないという意味です。

まして、聖霊により書かれた、イエシュアご自身である言葉を

否定する、終了、削除、破棄、無用として良いなどという

まやかし、虚偽、聖書とは異物の教えなど1つも記されていません。

もし、そのような神の教えを否定する主張をするならば、同様に

それらの教えはパウロも警告する偽物の教えであり、偽教師、

偽預言者の思想そのものです。

そして、イエシュアが警告された通り、無法=トラー無し、

アノモスは、イエシュアが「あなたを知らない!」と追放すると

警告しているのです。

神の警告がその意味通りに届かないのは、人間の教えという

間違った思想のフィルターを通して、神の言葉の方を歪めていることが原因なのです。

 

2テモテ3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもので

あって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 

律法!という誤訳でクリスチャンが語る、ここに記されている聖書とは、トラー=モーセの五書、預言書、諸書のことです。

クリスチャンが否定する神の言葉=教えは、実は永遠不変の神の教え、イエシュアそのものであり、イエシュアが生きるように人々に

手本を示した教えです。聖霊=言葉=イエシュア=神。

福音書以降に記されている神の教えは100%、モーセの五書の短い解説であり、そして、神の教えを破棄せよ!などという

神に敵対する666、獣の刻印、バビロン、大淫婦、龍の主張など記されていません。

そして、律法=古い、悪い、廃れたとクリスチャンが主張する

神の教えは、何であると神は教えていますか?

「神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、

正しくし、義に導くのに有益である。」聖霊=言葉だからです。

神の教え、言葉を捨てるとは、人を正しく教えず、神の戒めを

理解せず、矯正されることもなく、無法地帯を生きて、義に導く

道から外れる!と言っているのです。そうでしょう。

その通りのことが、実際に起きているではないですか。

果ては、LGBT容認に至るまで、人間が神の教えを勝手に塗り替える、時代に沿った、合った解釈を施して良いと教皇も、教師も

プロテスタントの牧師までもが言っている。

聖書を教える人が、神の教えに敵対する教えを、堂々と人に

教えてしまう。この問題の根は、エデンの園から同じ。

人間が神の言葉を勝手に変えること!これが、本当の原因であり

そんな事をしてはダメである!と神が言っているに、クリスチャンの世界では、それが昇天以降の恵の時代の教えなのだ〜と

神の教えに真っ向から反する異物の教えを、聖書に書いてもない事を、信じて主張し実践しているのです。

 

神の前に罪が何か分からないまま生きている。聖別を汚した

生き方、神の、自分の聖別を汚しても、無感覚。

感覚麻痺、火傷をしても、怪我しても、痛くもなんとも感じない。

詰まり、神の言葉から離れる、イコール、電源から離れ、

血流が止まり、危ない目にあっていても、気がついていないということになるのです。

神の言葉は、人を守る鎧兜そのものなのです。

だから、堅固なやぐらとあるでしょう。安全地帯。

神の言葉の内側から外側に出るとは、神の中にいることから

神の中に留まる意識が外に飛び出すことなのです。

神の声=教えの周波数の下にいないで、人間の宗教の教えが流れるチャンネル、周波数の下にいるのです。

 

信仰義認は、エデンの園から全く同じです。永遠から同じ。

アダムとハヴァも同じように、神から問われて、何をして

神から隠れて、裸である事が恥ずかしいを知り、そして、恥、

責め、責任転嫁するような意識を持ったのか。

「どこにいるのか?」と神に問われて、罪を犯したいきさつを

告白して、神に許されたでしょう。

神ご自身が屠った獣の衣を着せた、義の衣=イエシュアご自身の犠牲、子羊の購いの事実で神の前に義とされていることは最初から教えられて、記されているのです。

そして、エデンの園、神の中から外に飛び出しても、イエシュア=神がずっと付いてきたことが、モーセの五書に記されているのです。

語りかける神、雲と火の柱、荒野を付いてきた岩=救いの岩とは

イエシュアのことです。

そして、生ける水を与えて、人を支え生かしたのです。

水は神ご自身ではないですが、水という物質、性質を通して

神の性質を人に教えているのです。水がないと、人は死ぬでしょう。

物理的と霊的なことは1体なのです。切り離して考えるのは

西洋哲学思想、思考回路です。怖いものを見て、鳥肌がたつでしょう。自分の存在は、全てエハッド=1つで繋がっていること

日々の出来事でも体験しているのです。

 

西洋人=異邦人の間に浸透した教えは、純粋な神の教えではなく

人間が作ってしまった、作ってはならなかった宗教の教え。

真実ではない事を土台にした、異教神、太陽神の教えと混ざった

作り物の宗教です。

そして、その宗教が編み出した様々な教え、教理を聖書だと解説されて聞かされてしまってきたのです。

これは、人間=ローマが1世紀以降神の教えを塗り替えた!と

いう事実を、理解しない人には、全く真相、事実は通じません。

神が神の教えを変えた!とクリスチャンは、聖書に書いてもない事を、間違った偽物の聖書解説を通して、そう教えられ、疑いもなく偽情報を信じているのです。

偽物札と、本物札が見分けられる人には、本物と偽物の区別を

聖書からすることが出来るのです。偽物=人間が作った宗教の教えや教理を聞き続けても、本物=神の言葉の真実は見分けられません!本物を聞くことに戻る!本物を学んで、初めて偽物の教えがはっきり、聖書に照らし合わせて見えてくるからです。

 

異邦人の世界で、解説されている聖書の内容は、人造宗教

人間の思想=神学を土台とした人の教えが解説されています。

それらはもちろん、聖書を使用していますから、その解説の中には、神が伝える真実もありますが、元が混ざり物なのです。

真実と、嘘が混じっている。

元が土台が砂=人間の教え=教理だから、歪んでいるのです。

神の言葉が廃れた!とクリスチャンは疑いもせずその偽情報を、神が聖書が伝える真実だ!と思い込んで誤解しているでしょう。

考え直しもしないでしょう。聖書に基づき、言っていることが

矛盾だらけなのに、その矛盾にも無感覚のままです。

その偽情報が、クリスチャンの思索の王座にどっかり居座っていて、本物の神の言葉が追いやられているから、真実を語るのが

少数派、狭き門状態が続いてきたのです。