イスラエルの神は混乱の神 矛盾の神? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神は真実なお方なのに、混乱を生み出す神になるのでしょうか?

混乱と、矛盾を伝えるイスラエルの神?

神は、神ご自身と神の言葉は永遠に変化しない、昨日も今日もいつまでも永遠に同じ!と最初から、神の性質と、神の言葉の性質を人に

伝え続けているのに、昇天以降は、神の言葉のある部分は一時的で

あった?テンポラリー?そして、今は終了した自分には無関係の神の教え、言葉?と神が本当に言ったのでしょうか?

 

永遠と言いながら、一時的と言い換える、全ての人に対して教えて

いる同じ教えなのに、異邦人には無関係?

そして、パウロが、メシアご自身に対して矛盾する、反することを

教えている?

 

これらは全て、聖書〜神の言葉ではない、西洋人、ローマ帝国、

ローマ皇帝、西洋教父達が作った、聖書とは100%無関係の人間の思想です。最初は、人間の思想ではなく、ローマ帝国の勅令だった事が、この思想の始まりである事を知っていますか?

モーセの五書を実践、生きること、神の記念日、シャバットや祭りをを祝うこと、死刑、重税をもって禁じる!イエシュアが来られる

160年前のギリシャ帝国と、1世紀のローマ帝国が、同じ反キリスト、反神の教え=モーセの五書=トラーを禁じる勅令を出したこと、

それにより生まれた異邦人思想〜トラー(律法)は廃れた!と

いう思想を土台とした、4世紀にローマ帝国宗教を作ったのが

ローマ皇帝、ローマ教、ユニバーサル教なのです。

 

だから、神の言葉〜聖書と、実際にクリスチャンが信じている事の間に、矛盾、ズレがあっても、違和感なく言い続けているのは、

人の教えの色眼鏡、プリズムを通して、神の言葉を曲げて、人間の

教えに変換しているから、違和感がない、聖書ではない嘘の教えに

気がつけないのは、それが理由なのです。

 

今まで教えられてきた、神の教え=トラー(律法と訳されている)は

廃れた!という教えは、聖書の事実ではないから、神の言葉だけに

戻れば、神の永遠に真実である言葉が、輝いて、頭脳に響いてきます。

しかも、福音書以降に記されているのは、モーセの五書=トラーの

抜粋です。モーセの五書を否定した教え、モーセの五書とは違う教えなど、1つも記されてなどいません!

モーセの五書を終わらせた新しい教えを、イエシュアが、パウロが

使徒が説いているという、空想で読んでいるから事実が見えないだけなのです。

試しに、先入観、偏見、バイアスを捨てて、聖書を読んでみたら分かるでしょう。

神は、混乱、矛盾、不誠実、嘘つきの神ではありません!

そして、神は神の言葉と、神の記念日を人間が自由、勝手に決めて良い、変えて良い!などという事は言いません。逆を言っています。

神の言葉に手をつけるもの、神の記念日を汚す事、死に匹敵するとても重たい罪である!と、神が人に警告しているからです。

 

神を知らない人には、神の言葉、教えを理解しない人には

「それが一体なんなのさ?」位にしか思えないのが、普通の人には

理解できない、神の教えなのです。

だから、福音〜トラーに記された真実は、滅びに至る人には愚かに

聞こえるけれど、救いを受ける人には、神の力!とあるでしょう。

1コリント1:18

なぜなら、神の家の家訓は、神の内側にある深い教えは、神が伝える教えの意味を理解しない人には、全く愚かにしか聞こえないからです。過越の祭りの前の、パン種除去掃除?アホくさ?と思うでしょう。いや、クリスチャンはそれが何なのかも、全く知らないのです。

でも、やってみる人には、はっきり体験的に分かる神の教え、真理の

深さがあるのです。そして、毎年毎年別の発見をするのです。

神がその中に居られて、神が伝えた通りをする人に、教えるからです。

出エジプトで、鴨居に子羊の血を塗ると言われて、信じた異邦人!

アホくさ、それが何さなどと言わないで、分からないままでも、

イスラエルの神が伝えた通りを実行した人の家は、死〜初子の死が

過越て、守られたのです。神の言葉を軽んじる人には、神が伝える

愚かに聞こえる教えの裏にある、深い真理を神の考えを伝えている事を体験的に知ることができるのです。

 

一方神の言葉、教えを捨てる場合、神が伝える深い真理、真実が理解できない状態になり、頭脳に割礼がない状態だから、神の教えが

馬鹿馬鹿しく、厳しい呪いの古い律法だ〜とクリスチャンが唱える

ようにしか聞こえないのです。

神は人に自分の意見、判断で神の言葉を仕分けよ、どうでも良い、

なんでも良い、いつでも良いと言っていると勘違いして考えているのです。そんな人間主体を教える神なんて、それこそ信頼に値しないでしょう!神の権威を、人に渡して、神の教えを塗り替えて良い!?

それって、異教の神々であり、聖書に記されているイスラエルの神ではありません。

神の記念日がいつでも良いなら、神は最初からそう人に伝えます。

でも、神の記念日は、イエシュアそのもの、「7」完了を表す神の

暦で創造されているのです。神が時を創造され、神の特別に聖別された日を人に伝えるために、天の万象を創造されたと言っているのです。

人が神の教えや神の記念日に勝手に、手をつけて、作り替えてしまったから、神が伝えている意図は、神の教えを変える人には、永遠に

通じないままになるのです。

ダニエル書には、反キリストが何をするのか、はっきり預言されています。これが、イエシュアが来られる160年前のギリシャ帝国で、

そして、1世紀のローマ帝国で、そしてそれ以降も同じように、

神の言葉、教えに敵対するものへの、預言、警告なのです。

神の教えと、神の記念日を変えた、変え続けているのです。

 

神の言葉に敵対するとあるでしょう。反モーセの五書、反トラーです。無法という言葉の、聖書の定義は、神のトラーに反する、

敵対することなのです。

 

ダニエル7:25彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時とトラーとを変えようと望む。
聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。

 

以下、イスラエルの神が、ご自身のトラー=言葉に対して何と定義しているのか、人に伝えているのか、書いてある意味を曲げないで読めば良いのです。

 

イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。

しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

 

<神の言葉が変わる事がない!という言葉は、ヘブライ語では

クムです。

ヘブライ語なので、右から左ですが、こう書いてあります。

ヴ ダヴァル(そして言葉) エロヘイニュ(我々の神の)

ヤクム(固く立つ、確立される)レオラム(永遠に)

וּדְבַר־ אֱלֹהֵ֖ינוּ יָק֥וּם לְעוֹלָֽם׃

 

永遠に固く確立されるものが、どうして歴史の途中でぽしゃり、変更になるなどという、神の言葉とは違うことを唱えて矛盾感じないのか?それは、人間の教えに変換しているからです。だから、違和感がない、そして、神の言葉に照らし合わせて、神の言葉に固く立って、

聖書を聖書で読み解かず、聖書を人間の思想で読み解くことをし続けているから、聖書の事実が見えないまま、目の前に書いてあるのに

その事実、真実が読み取れない盲目状態に陥っているのです。

 

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

 

119:89 主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり

 119:90 あなたのまことはよろずよに及びます。

あなたが地を定められたので、地は堅く立っています。

 

<神の言葉が、天に於いて堅く定まりとは、ニツアブという言葉です。これも、任命する、確立する、選ばれているなどの意味です。

永遠の中に、堅く確立された神の言葉!それが、歴史の途中で変わる?聖書〜神の教えではない!とはっきり聖書から気がついて

下さい。そして、この大地も神が神の言葉で定められたので、堅く

立っている!今日もあなたの足元に地が堅く立っている事実があるので、神の言葉も廃らない!永遠に確立されている!という、イエシュアも言われた事実だけに戻って、真実だけに立って考えて下さい。

この箇所、マタイ5章でイエシュアが言われた言葉と同じです。

イエシュアが、成就と言われた言葉は、ヘブライ語のクム〜固くたつです。そして、地が神の言葉で造られて、永遠に固く立つ、だから

地が今存続しているならば、神の言葉も永遠に固く立つと、

イエシュアが強調して言われたのが、マタイ5章なのです。>

 
マタイ 5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
 
<トラー、預言者とは、モーセの五書、預言書です。
それの解説の諸書も聖書という意味で含まれています。
タナックです。トラー、預言書、諸書。
廃するためではない!とはっきりイエシュアが言っているのに、
どうしてイエシュアが神の教えを破棄するために来られた!などと
言い続けるのか?聖書に書いてもないことを言い続けて、矛盾さえ
微塵にも感じないのですか?それは、人の思想で聖書に書いてあることを、捻じ曲げている、そんなことをしても不真実が見抜けないほど、神の言葉の真実に対して無感覚になっているのです。
人間の書、学校の教科書に、破棄するためではない!と書いてあったらその通りに読むのに、どうして神の言葉=イエシュアの言葉を
クリスチャンは曲げて読んでいるのですか?聖書ではなくて、人間の
教えを土台として、聖書解説しているから、間違った空想の読み込みをしている、それが問題の原因です。
そして、成就、破棄というのは、1世紀のユダヤ人の中にあった
慣用句なのです。破棄〜トラーを神の意図通りに理解してない、
解説していない、生きていない、成就〜トラーを神の意図通りに理解し解説し生きているという、慣用句なのです。
どちらにしても、イエシュア、メシア=神が、父の教え=トラーを
破棄などしません!1つ1つ教えられてきた、偽情報、不真実、嘘
人間の創作した空想話を全部捨てて、聖書に書いてあることだけに
戻って、偽情報を全て削除する必要があります。パン種全部除去。
 
 5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、
一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

<天地が滅び行く〜滅びないから、強調です。ルカには、天地が

滅びる方が、神の言葉が滅びるよりどれほど簡単か!と書いてあるでしょう。それです。強調。詰まり、神の言葉は、神が伝える通りに

永遠に廃らない!永遠に固く立つ!変わらない!という強調なのです。

 5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、

またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と

呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、

天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 

<戒め〜トラーに記された教え、ミツヴォット=神の仰せです。

それを捨てるように教えているでしょう!クリスチャンの教師、

牧師が!神の古い教えは捨てて良いと教え、人間の教えを信じて、

神の教え、イエシュアの教えを捨てている!神の教えの小さいなものの1つでも破るように人に教えている。そして、そうするように人を間違った教えに導く人は、天の国では、意味ない存在!軽い!羽や

埃より軽い、無価値な存在になる!とイエシュアが言われたのです。嘘でも脅しでもない!警告です。

空想のイエシュア、ローマ化けしたメシアは、なんでも許してくれる〜なんでもあり〜!それは、人間の空想であり、イエシュアの言葉通りを聞く、受け取る人は、神の言葉を捨てて、神の言葉に違反して罪を犯し、人にもそのように教えることなど、危険!神の前に罪!

とはっきり理解しているのです。

1世紀、これを、聞いた人は少なくとも、イエシュアの意図通りの

意味で、イエシュアの言葉を、受け取ったのです。

でも、現代のクリスチャンの世界では、イエシュアの教えは、

イエシュアが意図した通りには通じていません。なぜ?古い律法は

廃れた〜自分には関係ない〜自由に選んで後は自由に破棄、律法に

戻るのか〜、恵を無駄にするのかと言っている意味も分からないまま、ローマ帝国皇帝が作った宗教の教えを信奉しているから、

神の教えが聖書を読んでいても、見えないのです。

 
1ヨハネ3:4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。
不法=トラー無し!という意味です。神の教えを捨てて、主の名を
使い、色々やっている、それが正義と思っている人のことなのです。
神が罪と定義したことが、歴史の途中で罪ではなくなるのですか?
そして、罪を犯して良いと、イエシュアが教えたのですか?
支離滅裂な聖書解説〜それは聖書ではなく、人間の考えを主張しているだけなのです。
罪は罪、罪の定義を神は変えていません!
それは、異邦人が勝手に言っているだけで、神の側では不法〜罪の定義を変えていません。
罪とは、神のトラーに違反することが、罪と神が伝えているのです。
これイエシュアも言われたでしょう。
 
マタイ7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
<神の教え〜トラーを行う者とイエシュアが言われたのです。>
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、
わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。
また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

 7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 

<知らない〜婚姻契約を生きないなら、婚姻契約に違反している人とは、親しい関係にない!神は人に、神が提示した婚姻契約に記された

生き方に基づいて、生きて!と伝えているのです。それを無視している、それは夫の言ったことを、妻が蔑ろにしている行為だからです。

知らない〜親しい間柄ではない!と言っているのです。

そうでしょう。イエシュアが伝えるトラーを違反するよう、人に教え神の教えや記念日も知らない、神の言う事を無視しているならば、

それは夫に対する不忠実さ、無礼、不敬、尊重し愛していることではないでしょう。

愛するならば、神の教えを聞いて生きる事を、どうしてしないのか?

神を愛すると言いながら、神の教えは、廃れた〜無視〜!どうして

そのように考えられるのか?人間が作った宗教の教えを、新しい神の教えだと、勘違いして刷り込まれてきたから、聖書に書かれている

神の言葉の真実が、目の前にこうやって書いてあっても、人間の教えに変換しているから、その人には通じないままになっているのです。

神を愛する人は、神の教えを捨て、自分の意見や判断で自由自在に

生きる?それが恵の時代、聖霊時代?それって人間の教えであり、

神の教えとは全く真逆の教えです。>

 
どううまく解説しようと、聖書に書いてない教えは、神の教えなどではありません!という事、それが、西洋宗教〜人間が編み出した
神の言葉を否定、終了、破棄、無用という、聖書には書いてもない教え、その伝統の教えに固執するのは、無意味というか危険です。
なぜなら、その出所はエデンの園のあの蛇の声だからです。
神に敵対せよ、神の言葉に反する事をせよ、罪を自由に犯しても良い!というのは、666の正体そのものです。
続く