イスラエルの神は人に罪を犯すようには教えていない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2テモテ3:14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。

あなたは、それをだれから学んだか知っており、

<だれに聖書を学んだか!これ、本当に重要です。神の教えを正しく教えられたら、人は神の意図通りに正しく聖書を理解できます。

聖書を、聖書ではない人間の思想に照らし合わせて解説されてしまい、神の教えを人の思想に塗り替えて教えられてしまうことは、

大きなズレ、損失、神が伝える真実を発見できない、見えないままになります。部分的には理解しても、土台が歪んでいるのです。

 

テモテは、ユダヤ人の親、親族、ラビたちに、トラーを幼い頃から

教えられて育ち、神のトラーが身に染み付いて生きている人なのです。

私は、日本人であり、欧米の教育、いわゆるキリスト教のチャーチで、聖書とは異なる人造宗教神学の教えを通して、聖書解説を聞いてきました。それらの教えが本物の神の教えだと、疑いもせずいました。

もちろん、部分的には真実な聖書解説もありますが、土台がモーセの五書終わりありきという人間の思想であり、しかも神の記念日も

ローマ帝国が作った人造の記念日を祝い、イエシュアも教えられ

祝った神が創造された永遠に祝われる神の記念日、祭りも知りませんでした。

その当時、アメリカでは有名なメガチャーチ、聖書を満遍なく読むという事をしていた、割と聖書を知ろうとする健全な群れでしたが

(初代が去った後は違うようです)今のようにヘブライ聖書の解説をする教えとは、遥かに程遠い翻訳聖書を、西洋神学、思想を通して

解説された教えであった事は、ヘブライ聖書に出会った後に、初めて気がついた次第です。

教師を選べと言われても、パウロのような教師に学ぼうなどという

発想はその当時は無いし、ヘブライ聖書と、翻訳聖書、西洋宗教と、

聖書に書いてある、イエシュアが教えた純粋な神の言葉、トラーと

人造宗教の教えは違うものである!などという事さえ、分からない、知らなかったからです。

今のように満遍なくトラーをシャバットごとに、一年に渡り学び続ける、その他、ヨシュア、歴代史、士師記や列王記、預言書などを1章1章解説する学びが与えられ、そして、福音書以降も、詳しくヘブライの人が聞いて理解していた通りを、読み学ぶという教えられ方を、したことが、全くありませんでした。

しかも、ユダヤ人、トラーを知る人なら、当然知っているような事も解説されない、良く分かりません〜という教えをされていました。

その1つを、今でも覚えています。

「神はヤコブを愛して、エサウを憎んだ」という箇所でしたが、

その意味が分からない、神が人を憎む?不思議、分かりませんねと

いう程度の解説をしていました。でもそれは、契約用語なのです。

神はヤコブと契約を結んでおり、エサウとは結んでいないという意味です。そのようなヘブライ語で書かれて言葉の意味、基本的知識が

ない、言語、慣用句の意味が分からない、その他古代の様々な情報に欠けて翻訳聖書だけを読む。

事実が良く見えないという読み方をしていました。又は、空想で

西洋宗教の教えに照らし合わせて読み込みしていました。

ユダヤ人、パウロのような人達の世界の教育とは全く違う、聖書とは異なる人造西洋宗教、人造神学で、翻訳聖書だけを読んでいたので、神の言葉で記された本来の意味、ヘブライ聖書に書かれている中身を、全く知らないままでした。

もちろん、イエシュアが教えて祝われた神の創造された永遠の記念日、シャバットや祭りの意味を学び、実際に祝うことを、

17年前迄、全く知りませんでした。仕方ないのです。

育ち、生まれが違うからです。そして時満ちて、異邦人もトラーを

知ることができる、終わりの時代になったということでもあるのでしょう。

トラーに記された神の教え、その麗しさ、深さ、余りにも感動的で

そこから離れられないという状態になるのです。

私を教えてくださっている先生の中で、ユダヤ人のラビ、もちろん

イエシュアを信じている人が言っていました。

人を、神のトラーの虜にしたら、それだけで大成功!その人は生涯

神のトラーを離れず、ずっと追求していくからと。

本当にそうだと思いました。神の教え、言葉は臍帯のようです。

そして、人を神に本当に近づけます。>

 

3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに

対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物である

ことを知っている。

 

テモテは、ユダヤ人です。聖書に聖書と書いてあれば、それは

100%モーセの五書の教えのことだけを指して言っている事実を

知って下さい。預言書、諸書は、モーセの五書を解説している書なのです。トラー、預言書、諸書を知れば、その中には、至る所に

イエシュアが記されているのです。だから、残りの民は、イエシュアが来られる前から、イエシュアを知り、いつか地上に来られる日を待望していたのです。私達がイエシュアの第二の到来を待ち望むのと同じく、同じイエシュアの最初の到来を待っていた、メシアを信仰により現代の人同様、内側に聖霊を受けていた残りの民のことが、

タナックには記されているのです。だから、メシアの到来をユダヤ人はずっと待ち望んでいたことが、福音書にも書かれているでしょう。

 

 3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、

人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 

<モーセの五書、そして預言書、諸書は、霊〜神の息吹を吹き入れられて記された!それを、神が否定、終了、変更、破棄するのですか?

それは完全に人間が作った宗教の教えであるという事実を、聖書から

突き止めて下さい。人を教え、導き、戒め、正しい生き方に軌道修正させ、そして義に導くのに有益なものが、どうして呪いの律法〜

古い教え〜廃れた〜となるの?全部聖書の言葉と、異邦人の思想

主張が、矛盾している、相反していることに気がついて下さい。

神の教えを捨てる〜無法〜罪を犯すということです。

神は人に罪を犯して良いなどという教えは、絶対にしません!!!!

クリスチャンも、聖書は誤りのない神の言葉ですと言っているのに、どうして、途中で神の完全な言葉が変化しなくてはならないのか?

不完全で誤りありの神の言葉であった?と考えているのですか?

使徒信条宣言と、実際に信じていることが違う、矛盾しているのです。聖書は完全!これに信頼しよう!と言うならば、神の言葉を正しい本来の位置、場所に戻して下さい。

そして、もう一つの理屈が、人の生きられない律法を、神は最初

イスラエルに与えたなどと言っていますが、神は真逆を伝えています。神の教え、言葉とは、私達のDNAにマッチしているのです。

神は何と言われましたか?

 

申命記30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、

むずかしいものではなく、また遠いものでもない。

30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために

天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

30:14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。

 

この箇所で、近く〜とは、カロブという言葉で、腹の中、胎内の中と同じ距離、これ以上の近さはない近さ、人のDNAに神のトラーが

刻まれているから!と言っているのです。

本来の人間の性質=新しくされた人は、神の性質をその通りに生きれる!と神が教えているのに、人間の教えは神の言葉の真実を打ち消して、無理無理、神の教えなど難しいから、そんなの気にしないで

聖霊に導かれて自由に生きよう!などと言いますが、聖霊=言葉です。人は神の言葉を理解しないなら、本当はどう生きたら良いか

分かってない状態であるのです。

人は神の言葉で造られ、神の性質通り=イエシュアと同じ性質に造られたからです。神が造られた人は〜〜〜〜を生きるように

造られて、〜〜〜〜〜を生きるようには造られていないという

シンプルな事実を伝えているだけなのに、クリスチャンは神の言葉を

敵対心を持つように教えられています。古い厳しい呪いの律法!

などと、言い続けているのがその証拠です。

律法に戻るな!恵を捨てた生き方をするな!何を言っているのか

分かっていないのです。

救われること、義とされる目的、手段を、神の言葉を生きてえようとするのは、的外れ!と神が教えている、パウロが解説していることを

完全に取り違えているのです。

信じたら自由〜なんでもあり!それって本当危険な思想です。

そんな思想があるから、罪を罪とも認識しない、果ては神の言葉を

疑え!LGBTQokなどと言い出しているのです。

神の言葉は、創世記〜黙示録まで、全て矛盾することなく、同じ

神のトラーを解説している!その事実に戻ると、神が伝える永遠の

真実の真相が見えます!邪魔、妨害しているのは、人間が考えついた

神の言葉終了という思想、神学なのです。

 

2ヨハネ1:5 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、

新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるがわたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。

 

<新しい戒めではない!神の教え、トラーには、愛するとは何か

愛の生き方、その定義が書かれているのです。

クリスチャンの教えで、今は祈ればなんでもきよくなる!なんでも

食べて良いなどと言いますが、人が清掃動物を食べるから、環境に

ウイルスを撒き散らし、自分の臓器、体を痛め、同時に他者をも

ウイルスに罹患さえて苦しめ、そしてずっと環境にウイルスを

撒き散らし続けているのです。

食べてはならないものを食べて排泄して、そのウイルスが河川を通り、海へ辿りつき、そのウイルスを又貝や鱗のない魚、エビカニタコなどが食べて、それを人がまた食して病気になる。

これは愛の行為などではないのです。無法、違反、罪です。

そして、聖別を汚す、神が最も忌み嫌う!と言われている行為、

異教徒と同じ生き方であると教えているのに、聖別の定義〜神の教え、知恵を捨てた異邦人には、もともと異教徒の文化、衣食住をしているので、きよくないものと、きよいものの、聖別の区別が何も分からないままなのです。

肉体を汚す、内臓を痛める、病原菌を環境に撒き散らし汚染し、

他者も病気にさせる行為は、神が定義する愛ではありません。

 

清掃動物、タニシか貝でしたが、汚い水槽にそれらを入れたら、

タニシが全部掃除して、水が綺麗になったのを動画で見て、納得行きました。清掃動物。

陸海空の掃除機、ゴミ、ウイルス、死骸を食べて集めた動物、魚介類を人が食べる、それらの身に毒素が溜まっている、それを人が食べる。人は、清掃動物を食べるように造られていませんと、神が教えているのです。食べることを通しても、聖別を教えていることが、

聖書には書かれているのです。

神の知恵を捨てる場合、神が伝える生き方は分からないままになります。罪を罪とも認識できなくなります。神の教えは、人間を守るための鎧兜なのに、愚かな子供は知恵に満ちた親の言うことを疑う、

うざったく思い、親の言うことを聞きたくないだけなのです。

 

1ペテロ1:16は、レビ記11章全体を考えて、短く引用しているのです。レビ記11章には、神が人が食するために創造されたきよい動物、そして清掃目的で創造された人が食せない動物を教えています。

全部読んでみれば良いのです。何も難しくありません。

 

レビ記 11:43 あなたがたはすべて這うものによって、あなたがたの

身を忌むべきものとしてはならない。また、これをもって身を汚し、

あるいはこれによって汚されてはならない。

11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者で

ある。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。

11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、

あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

 

イザヤ 66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

 

<神が定義する聖別の意味を理解ない場合、人の考えた聖別を生きるのです。それは的外れなのです。>

 

エゼキエル 22:8 あなたはわたしの聖なるものを卑しめ、

わたしの安息日を汚した。

22:26 彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの

間に汚されている。

 

神の教えが廃れた、イスラエルだけへの教えと考える人には、

永遠普遍である神の言葉、教えは全く通じません。

 

続く