救われたから安全と考えるのは選民意識を持つユダヤ人の意識と同じ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

例えば、親が子どもに、兄弟喧嘩で叩いてはダメよと教えます。

そのようなことをしたら、タイムアウト、ゲームもできませんというルールを教えたとします。

兄が親の言葉に違反し、弟を叩いたとします。そうしたら、お母さんは、伝えていた通り兄に、「してはならないことをしたから、30分間、タイムアウト、隣の部屋でじっとして、部屋から出て来てはダメですよ。ゲームもさせません!」と言います。

親が子に伝えていた通り、「刈り取る結末」遊べない30分間というものを母は与えます。

これは、親が警告していたことを、子どもが違反したからであり、

この行為は、親の言葉に基づいたら正しい行動であり、子どもの側に非があるのです。

子どもは、違反行為をしながら、親に向かって「こんな罰を与えるなんて、意地悪だ〜、不公平だ〜。」と子どもが言う権利はないのです。親が警告していた事を、子供が破らなければ良かったのです。

親の警告に違反したらか、当然刈り取るべき結末を被った子どもの

行動が悪いからです。

神の伝える言葉、教えは完全であり、それに違反する人間の方が

ズレている、間違っているというシンプルな事実があるのです。

クリスチャンの教えでは、生きられない神の教え、だから律法を

十字架につけて抹消したなどという、聖書とは真逆な思想を語りますが、もし神の教えを捨てたら、罪の基準もなく、神が警告する無法遅滞になり、罪を罪と定義するものが無いので、罪は罪でなくなり

その結果、罪の代価であるイエシュアの罪の贖いの代価も必要なくなり、よって罪を赦すということも必要なくなり、恵も必要なくなるという、意味不明ないことを、主張しながら、その意味不明の矛盾に気が付いていないのです。

罪という定義があるのは、神のトラー=モーセの五書に記された神の教えが今も有効だからである!ということに、気が付いていないのです。そして、罪の定義は、人間が勝手に決められるものではない!

ということも、クリスチャンは知らないままなのです。

 

パウロは続けて、こう応答しています。

 
ローマ 3:7 しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう
明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも
罪人としてさばかれるのだろうか。

3:8 むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」。彼らが罰せられるのは当然である。

 

自分たちが神の教え=トラーを破ることが、神の正義を示すのに役立っているのなら、なぜもっとトラー=神の教えを破ってはいけないのかと言う人もいるかもしれません。

パウロが、この議論を細かく分析しようとさえしないのは興味深い

ことです。なぜなら、この議論はあまりにも馬鹿げているからです。

当たり前のこと、誰でも分かることでしょう。

どうして神の教え〜トラーを破ることが良いことだと言えるのでしょうか。その代わりに、パウロは単に、そのようなことを言う者は当然の非難を受けると答えています。

 

ここ迄の時点で、パウロが神の教え、神のトラー=モーセの五書に

記されている神の教えに、聞いてその通りに生きる事は、もはや重要ではないと考えていることを示す兆候は見られましたか?

絶対にそんな事をパウロは言っていませんし、書いてもありません!それどころか、パウロは繰り返し、繰り返しトラー=モーセの五書に忠実に生きることを主張し、人々の教え、不法=神の教えを捨て去ること、や神のトラー=教えを破ることを主張する者は神の当然の非難を受けると述べています。

これは、クリスチャンの世界で語る、神の教えは無効だ!捨てよ!

律法に戻るなとは、真逆のことをパウロが語っていることに、

いち早く気が付かなくてはならない点なのです。

イエシュアが言われた通り、神の教え〜トラーのどの箇所の神の教えでも、人に破るよう、ないがしろにするように教える人たちは、

天の国で最も、意味ない存在になる!という、イエシュアの警告は人間の思想を信じる人には、神の言葉が通じなくなる現象が起き続けているのです。1700年以上にも渡って。マタイ5:19

 

このパウロの言葉を念頭に置いて、「律法の下」フポ ノモス

ユダヤ人は契約の中にいる民である、でも全ての人は神の提示する

ノモス=トラーの下で、同じように裁かれるとあるのです。

ユダヤ人は、契約の中に居る民ですが、それで神の前に有利になるなど、そんなことはありません。そして、異邦人もイエシュアを信じたら、同時に契約の中に加えられ入っているのです。その言葉の意味を調べてみましょう。

 

ローマ3:9 すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく

罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。

3:10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。

3:11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

3:12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。

善を行う者はいない、ひとりもいない。

3:13 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

3:14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。

3:15 彼らの足は、血を流すのに速く、

3:16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。

3:17 そして、彼らは平和の道を知らない。

3:18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべてトラーの言うところは、トラーのもとにある者たちに対して語られている。それは、

すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。

 

パウロは、この箇所を様々な箇所から引用して話しています。

10-12節 詩篇14:1-3、1節3 詩篇5:9、140:3、14節詩篇10:7

15-17節 イザヤ59:7-8、18節 詩篇36:1

 

パウロは、ユダヤ人、選民意識を持っている人、ここにある律法の下という意味は、エン ノモス「契約=トラーの中に居る」という意味です。

ユダヤ人が契約を与えられたから、それだけで安全、人種的補償があるから何をしても安全、異邦人とは違うというズレた意識を持っている人たちへパウロが話しているのです。

ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、全ての人は、アダムが神の言葉に違反して、神の教えを無視した結果、罪=ズレが入り、そして

この肉体が滅びていく、死が入って来たことは、全人類に平等、共通の現実であると言っているのです。

契約=トラーを代表として受けている、代表者という民族に選ばれている、それでも同じく皆ズレたという事実は変わらない、ユダヤ人に生まれているから、別、安全ではないということです。

 

神が伝える教え、基準によって、全ての人が神の前に同じ裁きを受ける、当たり前のことをパウロは言っているのです。

 

パウロが話している内容は、神の教え=契約に対して、ズレた意識を持ったユダヤ人への警告でもあり、同様にクリスチャンに対しても

同じ警告なのです。救われたら、後は何しても許される〜という、

ゆるい意識で、神の教えに注意を払ってなどいない、神の言葉を無視して、自由に生きれるなどと、勘違いしているでしょう。

これ、最初に戻る内容ですが、人は、贖われた、救われた、子羊の血の代価を神が払った結果、人は新しくされるという事実を、恵、信仰により得る以外には方法はない、譲渡契約=アヴラハムの割礼の印で表されている、神からの一方的な贈り物、譲渡、恵です。

恵とは、人の行いで得られるものではない、神の前に義と自分の行いによりされることは出来ない、新しくされる事実を、行動で得ることができない、それなのに、神が一方的に与えてくださったから、

恵なのです。

救われるということは、人間の努力、行いではできないからです。

この事実を正しく捉えて下さい。人間が自分の意思で生まれて来れない、自分という人を選べないそれと同じです。自分で自分を持ち上げられないそれと同じことです。

だから、人は何かをしたから、神の前に義、新しくされる、聖霊を

受けたのではないのです。

そして、これはっきり区別、識別、認識、理解しならないとならないのは、新しくされた人は、イエシュアの性質=トラーに記された人間の生き方通りをする!義とされた人は、神が伝える義の性質=トラーを生きる!と神が教えているのです。

この新生体験と、その後イエシュアにつながり新しい人として生きるという2つ別の事柄、意味を、クリスチャンは、聖書の事実を正しく理解していないのです。

信じる〜信じた〜それを生きて、表さない人の信仰は死んでいる

信じていることを、人は生きる!当たり前のことでしょう。

義とされたから、神の儀を生きる。神の儀を得るために義を生きるのではない、この違いを区別してください。

信じるだけで良いんですよ〜これは信仰の始めの一歩=信仰義認のことを言っているのでしょう!

でも、信じた人、聖なる民、花嫁とされた人は、神の家に迎え入れられて、神との関係を婚姻契約で約束、補償され、神との関係をこの

婚姻契約を生きることを土台、条件とされている!という事実を知らないまま、勝手に自由に生きる〜それが新時代、新しい教えの時代

恵の時代、聖霊時代などと、聖書ではない教えを、聖書の言葉を使いながら、別物の宗教〜人間の宗教の教えを語ってしまっているのです

イエシュアの名を使いながら、イエシュアの性質とは違うことを教えて、し続けているのに、そのことに気がついていないのです。

イエスキリストという名だけ言ったら、なんでもありの世界を語っているのです。主よ主よと主の名を使いながら、無法=トラー=神の教えを無視して生きる人へ、イエシュアは警告されたでしょう。

「わたしはあなたを知らない!」その意味は、婚姻契約の中にある

関係ではありません!という厳しいことをイエシュアは、言っているのです。ジーザスはそんな酷いこと言わな〜い?言っています。

これ、パウロが警告しているユダヤ人の意識と同じなのです。

救われたから、なんでもOK、安全!と思っているのです。

そうでしょう。夫が言うこと、神の言うこと=神の教えを無視し、

違反した生き方をし、夫が招いた聖別された記念日も祝わず、よその旦那=人間が作った宗教の教えや儀式、宗教の記念日を代わりに熱心に教え、実践し、祝っている!それはイスラエルの神の花嫁のすることではない、姦淫の罪と神が言われた無礼、不敬、不遜でしょう。

ローマ3:20 なぜなら、トラーを行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。トラーによっては、罪の自覚が生じるのみである。

20節は、内側の実態に欠けたまま神の教えをやってみても、義とされるものではない。

聖霊が内側に住まっている事実を行動、生き様で表すことが分からないままでは、罪の自覚をするだけに留まってしまうと言うことです。

神の教えを字面だけで理解するなばら、それは本物の生き方につながらないからです。文字は殺しとはそう言う意味です。

文字で書かれた内容=聖霊=イエシュアの実態を知って、その実態を生きるというピッタリ2つが合わさらないならば、罪の意識だけに

留まってしまうからです。

パウロが2章で使っている言葉、トラーの行いに頼るとは、聖霊が

内側にない、新生体験をしない人のことを語っているのです。

又は、頭脳に割礼を受けていない、神の教えを内側で正しく理解していない人、幼児のことでもあります。

他のパウロの手紙にも、乳飲子、義の言葉を理解出来ない、幼児、

信仰の弱い、浅い人など、神の言葉に根付いて生きていない、幼な子のままの意識、理解、レベルの人たちへ語っているのです。

 

誰一人、神の言葉、教えを生きたから、その結果「聖霊」を受ける

新しくされる、義と認められるのではない!ということを、一貫して

パウロは言っています。

大事なのは、頭脳に割礼〜聖霊を受け、聖霊により書かれた神の教えを理解して生きていること、それが大事であるということです。

表向きの印だけで、内側の実態が伴わない行動は、意味がないということです。そして、パウロはアヴラハムの割礼は無意味、終了などと言ってもいません。形だけあっても、それは意味ない!その違いが

分かりますか?

だから、ユダヤ人の血筋だから、安全、これこれやってるからそれだけで、オーケー、神の前に真実な実態を持って、神の教えを生きていることが、それが大事!と言っているのです。

外側の印は、それだけでは意味がない。割礼という肉に付けられた印の意味通りを生きている、内側の実態と割礼はぴったりマッチしていないとならないのです。

これは、クリスチャンも同じです。イエシュアを信じているというならば、イエシュアが伝えたトラーを信じる人は生きるという理解が

ないなら、イエシュアを信じながら、イエシュアが伝えるイエシュアの教え、生き方に反する生き方をしてしまっているのに、気がつけない、その理由?神の言葉は終了という人間が作った聖書ではない教えだけを聞かされ、それを信じて実践しているからです。

 

パウロの3章での警告は、ユダヤ人の中にあった歪んだ選民意識と

選民ということに依存した歪んだ信仰に対しての警告です。

これは、クリスチャンにも同じように言えるのです。

天国行き切符もらっているから、後は安全。自分が何を信じて生きているのか、注意を払っていないでしょう。

人の教えと、神の教えの区別も、聖書を読んでも識別できない状態なのです。

だから、信じたから後は安全という意識は、ユダヤ人が自分たちが選民だから、安全と考えているのと、同じズレた意識なのです。

 

 

続く