神の教え、トラーは丸ごと全部でシャローム、完全版です。
神の教えの全てを通して、人の生きる全貌を教えているからです。
この教えは、要らない、あれは自分には関係ない、そのような意識、思想で神の言葉を捉え、考えているのは、人の体で、手は要らない、
髪の毛もいらない、内臓も頭も要らない、足は要らないというのと
同じ事を言っているのです。
全てが揃って、神の意図通りに機能する!という、それが神の言葉
教えなのです。
全部が揃って完全なエハッド、1つ、ワンセット、シャローム、欠けのない完全な状態だからです。
神が創造された人の生き方を、神が伝えている、それを人間が端折る捨てる、無視する、理解しないままであると、人は本来どう生きるのかが分からなくなってしまいます。
神の教えに人間が手を加える行為は、それがたとえ小さいことでも、死に匹敵する罪と神が人に伝えていることを、異邦人は、神の言葉を捨てているから、罪の基準を捨て、何が神の前に罪、ズレなのかも
分かっていないと思います。
人間が神の言った言葉を変えるという行為は、人が神を退けて、神の
座に座る、人間が神になることなのです。なれませんが、神の権威を
勝手に奪い、勝手に神が言ってもいないことを、主張し続けているのです。神のある教えだけ、同意、賛同しながら、神のある教えを退ける、そのように神に敵対する違反行為をイエシュアを信じる人が
やり続けているのです。
神は、人間が考える道徳的な違反以外に、神の子らの生き方で、
何がズレているのか、詳しく教えているのです。
ズレ、罪は人を破壊するものなのです。それが肉体的でも霊的でも
ぴったり一枚岩。神がデザインされた通りからずれたら、人は破壊に導かれるのです。
神の言葉〜神の国の家訓、憲法、法律、神の意図通り、デザイン通りを生きるために必要な全ての教えが、トラーなのです。
1ヨハネ3:14すべて罪を犯す者は、不法=トラー無視、無しを
行う者である。罪は不法である。
罪〜神のトラー=教えに反すること!とはっきり書いてあるのに、
この箇所読んでも、クリスチャンは書かれた言葉の意味通りに
読み取り、理解していないのです。
不法〜犯罪行為程度に考えているでしょう。まさか、神の教えのどの箇所にも違反する事!などとは、考えてもいません。
なぜなら、律法は廃れた〜という人の教え=嘘を信じているから、
神の言葉、真実が通じていないのです。
罪とは、普通の人でも分かる、道徳的なことだけが、罪ではないのです。神の定義する罪とは、神の意図から外れていること全てが罪、
的外れ!と神は言っているのです。それは神が創造された人間の性質
デザインとは外れているから、的外れなのです。
シンプルな事実でしょう?それを律法主義だ〜などと、意味不明なことを言い続けているのは、クリスチャンの考える自由とは、神の教えに束縛されずに自由に生きるという、無法=トラー無し、神が警告している人間の教えを信奉しているから、神が伝える事実が覆い隠されて、盲目状態になって、蛇の声を代弁していることに気がついていないのです。
特にクリスチャンは聖別の意味を正しく理解していません。聖別の
定義を捨てているから、自らきよめ〜とある通りの、自己基準の聖別を聖別と考えてしまっているのです。
聖別の定義は、トラーに記されているのです。
人は罪人〜救われてもずっと罪人だから、神の教えを生きるなど無駄無理!というのを聞きます。これは、イエシュアがされた業を、それこそ台無しにしている、恵を捨てている宣言なのです。
人が神の性質を生きているのか、いないのか、イエシュアの実態を
生きることに成熟している達人なのか、赤ん坊レベルなのかに関わらず、復活の命を頂いている事実があるのです。
復活の命を頂いたという事実を、罪人という言葉で帳消しにし、
イエシュアの贖いの代価で、新しくされている事実を否定し続けている発言、行動をしているのです。
人は絶対にズレないと言ってなどいません。アダムとハヴァもズレたでしょう。神の似姿通り完全に造られていたのに。
新しい命を頂いた〜これは赤ちゃんが生まれたのと、同じ。
赤ちゃんでも、小さくても人間でしょう。
新しい命=イエシュアの命を頂いた人は、成人として歩むようになるため、地上での訓練が残っているのです。
それが、聖なる者となった人を、神の教え、イエシュアの性質を神の伝える言葉から学習しながら、実際に生きて、身についていく、これを端折っているのです。信じたら、神の教えは生きなくて良いですとまで、言っています。そして、人はずれます。
以前の記憶、思考、行動パターンが頭脳にあるからです。
だから、パウロも言ったでしょう。自分=新しくされた人が罪を犯すのではなく、イエシュアと共に死んだ以前の自分がゾンビ〜イエシュアと共に葬られた人が罪を犯すと書いてあります。
イエシュアと共に復活した人を生きる、訓練、練習があるのです。
それは、神の言葉を捨てる場合には、できません!
自分の自己像〜神が伝える人の生き方とずれてます!ズレたらすぐに戻れば良いのです。本物の自分で生きることを、常に頭に置いて
行動する。それがパウロが説明した2コリント2:5です。
2コリント10:5 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を
打ちこわし、すべての思い(ノエマ)考え、思索、頭脳をとりこにして
キリストに服従させ、
神の性質〜教えに根付いて生きる訓練をし続けている成人は、
新しい人を生き続ける練習をして行く中で、本来の性質通りを
考えなくても、生きれるようになるのでしょう。
それが約束の地を所有するということにも、繋がっている事です。
本来の自分を取り戻す!
それが、よちよち歩きの赤ちゃん〜1歩1歩、神の言葉、教えから
ズレていないか注意を払い、気をつけながら歩む事なのです。
神の教え、トラーは、神が創造された本来の人の性質を伝えている
イエシュアの性質通りの人が生きる全てを教えているのです。
あなたは、〜〜〜〜するように造られているので、〜〜〜〜を生きる
あなたは、〜〜〜〜するように造られていないので〜〜〜を生きない。シンプルでしょう?神の教えを掟リスト、律法などと考えているから、神の教えに敵対心を持たされているのです。
神の教えは、人を守る鎧兜!と書いてあるのです。
アヴラハムのその鎧兜としてのトラーを理解していたことが、書いてあります。
創世記26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。
シナイ山で、ブリット(契約)に忠実であると約束し、誓ったのは神だけではありませんでした。
イスラエルとイスラエルと共にエジプトを出た異邦人達もまた、
「主が言われたことをすべて行い、従います」と誓いました。
出エジプト 24:7。
出エジプトした最初の世代のイスラエルと異邦人は悲しいことに、
彼らの言葉、約束に忠実ではありませんでした。
パウロはこれに気づき、彼らを対比して「彼らの不忠実さは神の忠実さを無にするのでしょうか?」とローマの群れに尋ねます。
別の言い方をすれば、「もしある人々が神の命令を守ることに忠実でなかったらどうなるでしょうか?彼らのトラーに対する違反行為は、これらの命令を与えることに於いて、神が何らかの形で忠実でない、または不義であることになるのでしょうか?」と彼は答えます。
3:4 断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、
義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。
<パウロは詩篇51:4を引用しています。>
3:5 しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか。
3:6 断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、
どうさばかれるだろうか。
神の教え〜言葉、トラーは、人が神の言葉、教えに聞いて生きるか
生きないかに全く関係なく、神の教え=トラーは、完全であり、
神の教え、言葉がどれほど素晴らしいものかを、神の教え自体が
証明、示しているのです。人が無視しても、神の言葉は完全であり
永遠に固く立つと神が言われた言葉が真実だからです。
続く