世の終わり、そして再臨を信じる人たちが意識する時代、終わりの
時代になりました。
終わりの時代は、イエシュアが地上に到来したので、既にその時から
終わりの時代に入っているのです。
ユダヤ人、トラーを生きる人たち〜2000年前に地上に来られた
イエシュアがメシアであると認識していない人達でも、救い主の到来イスラエルの国を復興し、王の王がエルサレムから世界を統治する
預言の成就を待望しているのです。
イエシュアが再臨される時、それ以前にユダヤ人の頭脳にかけられた目隠し〜盲目にされていた幕が神により外されると預言されています。
同時に、今、異邦人の中にも、神の言葉が、人間の仕業で曲げられていた事に、目が開かれる、神の言葉ではない、人間が作った宗教の
教え=聖書ではない偽の教えという覆いがかけられていた事に気がつき、神の言葉を再検証している多くの異邦人が続出しているのです。
聖書を普通に読んだら、分かる通り、クリスチャンの世界の神の言葉を曲げる解説は、聖書とは辻褄合わない事、非論理的な聖書解説が
変だと分かってくるからです。
終わりの時代が来た、再臨が近いからです。
元に戻る、本物に戻る、本来の状態に神が戻す事をしているからです。
西洋宗教〜その発祥はローマ帝国皇帝が作ったローマ教です。
ローマ帝国皇帝コンスタンチヌスは、最初異邦人信者を迫害していましたが、迫害によって異邦人信者を撲滅することはできないと思い、コンスタンチヌスは、自分もクリスチャンになる事で、ローマ帝国の支配拡大、安定という政治的な目的を動機とするものだったのです。
ローマ皇帝はメシアを信じる異邦人に対して寛容な態度を施すようになったのですが、結局自分崇拝教〜コンスタンチヌスの銅像を作り、
異教の信仰や慣習を依然として持ち続けていたので、異教神の神殿、バシリカをその礼拝場としていたのです。
太陽神信仰は、太陽のシンボルであり、今もバチカンは、太陽神信仰のシンボルに満ちているのです。
コンスタンチヌス皇帝は、紀元 321 年のニカイア会議で、日曜休業令というものを定めていますが、それは次のような内容のものでした。
「都市に住むすべての行政官、すべての市民は、尊ぶべき太陽の日に休業し、すべての職場を閉鎖せよ」
これは日曜日に仕事をすることを禁じる法令ですが、この日曜日を
休む日という、理由は聖書、神の教え=10の言葉(十戒と訳されている)に根拠があるものではありませんでした。
それどころか、この日は「尊ぶべき太陽の日であるから」という
スローガンです。
日曜日はもともと、ローマ帝国において「太陽の神を祭る日」
そして「皇帝を崇拝する日』として尊ばれてきていたので、
太陽神のシンボルである日曜日には、いっさい仕事を離れて休日とするように、という勅令を作ったのです。
これに対して、当時の異邦人信者達はどのような反応を示したでしょうか。
日曜日を礼拝日とすることは、公の休日となった半面、土曜日を守ることはきわめて困難になりました。
週に二日も仕事を休まなければならないからです。
そして、その後どうなったかというと、これも人間が勝手に神の言葉を退けて、踏みにじり、決めた内容なのです。人間が神になりかわる
現人神は、西洋に最初から存在しているのです。
紀元 364 年ラオデキヤ会議で、教会は日曜休業に関して、次のような決議をおこないました。
「クリスチャンはユダヤ化して、土曜日を無為に過ごすことなく、
その日は働かなければならない。
<これは、完全に神に敵対する教え、罪を犯す事を人に奨励する教えであり、神の教え、記念日を捨てよ!という、神に対する反抗声明なのです。>
しかし特に主の日(日曜日)を尊び、クリスチャンとして出来る限り、仕事をしてはいけない」。
<聖書では主の日とは、日曜日のことなどではありません!主の日とは、レビ記23章の神の聖別された日であり、それ以外は神が地上で特別な業をされる日を指して、主の日と聖書では言っているのです。日曜礼拝〜神の教えでもない、これは神が聖別された日でもない、
日曜日は、週の最初の労働日!普通の日!神が世界を創造された
作業、働く日!第一日目であるのに、これを人間が神になり代わり
神の創造の事実と、神の仰せ、第7日目のシャバットを破る罪を
奨励してしまったのです。>
クリスチャンは、神の教えと人が作った宗教の教えの区別、識別が
聖書からできていません。
こうして、聖書に命じられている土曜日の遵守をユダヤ化と称して
排除しながら、この神の戒めの内容そのものを、別の日=日曜日に
移して、日曜日を安息日として守るようにクリスチャンを指導したのです。
神の教え、仰せではない、人間の仕業、人間が神が禁じるシャバットを汚す事、罪を犯す事を人に勅令として、宗教団体が強要したのです。
しかも、ローマ教会は土曜日を断食の日と定め、この日を意図的に、喜びのない暗い日とするように仕向けたのでした。
そのため、土曜日は徐々に人々から敬遠され、嫌われ、軽視されるようになって行ったのです。神に対して酷い冒涜を、ローマ教は働いたいのです。逆に、当時の異邦人イエシュア信者達は日曜日のほうを、あたかも神が定めた安息日であるかのように思い込み、錯覚し続けて行ったのです。そして、その変えられてしまった神の記念日が、
その後定着し、人の間で実践され、今に至るまで恒久化して、神の
言葉、教え、記念日ではない人間の教えを、クリスチャンが尊重し、神の教えや記念日を捨てる!という罪を実践する事に移行してしまったまま、その罪、ズレに全く気が付かないままの麻痺、盲目状態が続いているのです。
16 世紀にルターにより宗教改革が行なわれたのですが、改革者たちはこの安息日を、いったいどのように考えていたのでしょうか。
「安息日」の神の仰せは、クリスチャンならば、それは重要であることを認識しており、それは第七日であることも知ってはいましたが、当時もそれにこだわる必要はないとの考え方が支配的だったのです。
大衆の意見とは逆に、日曜日はキリスト復活の記念日ではあっても、聖書〜神の創造された「シャバット」〜安息日ではないから、
日曜日を安息日とすることに疑問を持っている人もいたのです。
1534 年から 1536 年にかけて、三回に渡り、ジュネーブやローザンヌ、ヨーロッパに於いて、宣教目的の討論会が開かれました。
その会議の中で、キリスト教教会の聖礼典についても討論されました。
このときプロテスタント側は、次のように主張しました。
「人間はいかなる聖礼典も教会に持ち込んではならない」。
これに対してカトリック側は、次のように反論しています。
「神はユダヤ人に安息日を守れと言われた。しかし教会(異邦人)は、教会に与えられた権威によって、土曜日を主の復活された日曜日に変更した。我々は、神の命令ではなく、教会の命令により、
また教会の定めた律法にしたがって日曜日を守る。
神の命令に文字通り従う人は、土曜日を休まなければならない」。
<これら結局、人間の意見、考えで神の言葉を判定している事に
気がついているのでしょうか?神に対する冒涜の罪です。
罪とは、神のトラー=教えに違反する事!それが、聖書の罪の定義なのに、聖書を正しく知らない人たち=異邦人だけで、こんな会議を
開き、好き勝手な教えや意見で、神の言葉、神の記念日を塗り替えた決め事をしたのです。人を罪に導く教えを、人間が編み出し続けているのです。カトリック側はこのようにも言っています。
「もしカトリック教会が聖書をこえて、聖典を定める権威がないとすれば、プロテスタントはなぜ土曜日を守らないで日曜日を守るのか。聖書の言葉についていかなる変更も認めないとすれば、土曜日を守るべきではないのか」。
<他の聖典を定める権威はカトリックに無いとプロテスタントは言いながら、結局プロテスタントも同じ、神の言葉を曲げる、違反行為をし続けているのに、矛盾する発言をしているのです。
これは、聖書は完全なる神の言葉と宣言しながら、同じ口から、
神の言葉は廃れた〜という矛盾を言い続けても、無感覚状態
麻痺状態である事、分裂症思想を主張しているのに、そのズレ
矛盾に気が付かない盲目状態なのです。おかしいと気が付かない方が
おかしいのです。
これに対して、プロテスタント側は、日曜日に神を礼拝することも、やはり聖書に準拠するものであることを証明しようと試みましたが、成功しませんでした。当たり前です。それは、神の仰せではなく
人間が神の言葉を退けて勝手に編み出した教え、記念日であり、神の言葉を退けて、人間の教え、記念日に固執しているのに、その罪、
矛盾に何も気が付かないままでいるからです。
安息日が、日曜に変更された証拠、証明、立証できる聖句、神の言葉、命令は、聖書のどこにも無いからです。
嘘なのに、本当だと思い込まされている。サンタクロースがクリスマスに家に来るよという子供騙しの嘘と全く同じレベルの嘘なのです。
16世紀於るルター達による宗教改革は、歴史を変える程の大改革であり、重大な意味と価値を持つものではありましたが、しかしそれは、かならずしも完全なものではなく、改革の本丸、本質ともいうべき核心的な問題〜人間が神の言葉、教えに手を加えて、変えているという罪を悔い改めない、本当の根本的な問題に手つかずの状態のまま今に至るのです。
なぜなら、神のトラー=教えは、特に神の権威のシンボルともいうべき、第四条安息日の戒めが人の手によって変更されていたのに、
それが見過ごしにされてしまったからです。
ルターは改革の基本原理としてつぎのことを標語として、高くかかげていました。
それは、「聖書、そして聖書のみ」という言葉でした。
ルターは、その宣言を完全には全うしませんでした。
それどころか、ルターは晩年、完全に反モーセの五書、神の言葉に
敵対する事に翻り態度を変え、ユダヤ人撲滅のための本を書いたのです。
反ユダヤ思想を、イエシュア信者でありながら、ユダヤ人イエシュアに対して罪を犯す行為を人に教えた、このような宗教改革をした人が
悪に身を売る結末を残してしまったのです。
「ユダヤ人と嘘」というルターが書いた書が、ヒットラーの教科書となり、ルターが示した、ユダヤ人を迫害、撲滅する事、その全てを
ヒットラーが実際にやってしまった事を、多くのクリスチャンは
教えられていない、知らないと思います。
神の言葉に敵対するものの結末は、惨めです。神の前に最もひどい
罪を犯すよう、人を先導してしまうからです。無法=神の教えを捨てる人は、神の国で最も意味のない存在になってしまうと、イエシュアが警告している意味がまるで通じていないのです。神の言葉を平気で変える、捨てる、そんな行為をする事ができる人は、神の教えなど
結局重要視などしないからです。それがホロコーストなのです。
聖書の預言によれば、この神の権威のシンボル、また印とされる安息日を元に戻す、神の教え=トラーに戻る!という、地上歴史における最後の改革の働きとして、世の終り、すなわちキリストの再臨直前におこなわれることが、神のご計画であったということとも考えられると思います。聖書には、イエシュアが再臨されたら、皆が頭脳に割礼をされている状態〜誰も主を知ろうと神のトラーを教えなくても
理解している、エレミヤ31:31に記されたようになる。
そして、全世界が神の記念日を祝うようになる。都上りの祭りで
世界中、海外から人がエルサレムに来て祝うようになると、預言されているからです。
偽物の教えを売る商人も、神の宮からいなくなると。
これは、ヨハネの黙示録14章に記されている3天使の使命と呼ばれるものがそれであって、ルターの頃は、この真理が宣揚される時が未だ来ていなかったということなのかもしれません。もしそうであるとしたら尚更、今日のプロテスタント教会はルターの意志を受け継いで、この改革〜完全に神の言葉だけに戻る事をする!という事を成し遂げなければならない重大な責任があるということになるでしょう。
ここで、はっきりさせておかなければならない問題の核心は次の点にあります。
神が人に伝えている永遠の真実が聖書には記されています。
1、神によって守るように命じられている安息日は、第七日土曜日である。
2、現代は一般の社会の休日も、異邦人クリスチャンの礼拝日も
日曜日になっている。
3、日曜日を聖日とすることは、聖書に根拠をもつものでは決してない。神は日曜日を聖別などしていない。今日も、今も日曜日は、
神の仰せ、教えでは、労働の第一日目、普段の日、神が神の子らを
呼び出している記念日などではない。
4、カトリック宗教が、カトリック教の権威によって、神の教え=神のトラーを勝手に変更したことによると主張しているだけです。
5、したがって、聖書に基づき、どの日が、神の聖別された日であるのか知る、土曜日なのか、日曜日をなのか?聖書には何と書いてあるのか?イエシュアを愛する人は、神の命、定め、仰せに聞いて生きるのか、それとも人間が作った宗教の権威に従うかの問題となるのです。
続く