永遠普遍、変わらない神の言葉が、人間の教えにより別物の教えに
変えられてしまいました。
多くのクリスチャンは、人間が神の言葉を変えた、曲げた!という
事実を知らないと思います。
その代わりに、人間の教えで、神が神の言葉を変えた、神が人間に
神の教えをどのようにも変える権威を与えたと教えられ信じているのです。
この思想は、どこから来たのでしょう?弟子の一人ユダヤ人である
ペテロに、神の言葉を自由自在に変えて良い権威を、イエシュアが与えたというとんでもない誤解からくるのです。
ローマカトリック、初代教皇ペテロと言っているでしょう?
聖書、神の言葉には宗教は記されていません。聖書は、ヘブライでありローマ、西洋ではありません。
聖なる父は、唯一お一人だけ、イスラエルの神だけです。
人間が聖なる父などという名で呼ばれる冒涜は、神は許してなどいないのです。
異邦人初代西洋教父達とは、神の言葉の意味を理解しない、異教徒背景の出身であり、聖書を記したユダヤ人預言者、イエシュア、弟子達パウロ達とは全く違う背景、神の教えに根付いた教育を先祖代々受けていない、神の言葉をよく知らない新参者であり、トラーを正しく理解していない人たちだったからです。
正しく理解していたら、モーセの五書を捨てて、人造宗教など編み出しません。
外国人を連れてきて、日本の伝統芸能文化、歌舞伎、狂言、能など
古典芸能を教えようとしても、日本人でさえ分からないことを、
文化的、背景的、生まれつき身に付いていないものを、1から教えるのは、大変なことなのです。
神の言葉が何であるのか、神が絶対であるということが分からない、
異邦人、西洋人は、簡単に神の言葉を曲げてそれが神に対しての
罪、冒涜、不敬、反撃であるということが、全く分かっていない人達に神の言葉が取り扱われて、神の言葉が偽物の教えに乗っ取られてしまったのです。
イスラエルも、神の婚姻契約を代表として受け取り、それを世界へ
正しく教え、生きて伝える役割を与えられたのに、約束の地に入ったら、神の契約教えを必ず破ると、初めから神に預言されたでしょう。
アダムとハヴァも、神の似姿通りの完全な人として造られていたのに神の言葉を疑って、神の言われた事と違う事をしたでしょう。
そして神の言葉、教えたことをは違うことをした、これをイエシュア
昇天以降も、同じ罪、異邦人西洋教父たちがやってしまったのです。
イエシュアが弟子たちと、ピリポカイザリアに行った時のことが記されています。この地は、異教の神々、パンの神殿があり、そこで
異教の神々を礼拝し、神々に自分の子供を崖から突き落として捧げていた場所でもあるのです。異教の神々の神殿の下から、ヘルモン山から流れて来る水が出ている場所です。その水の様子で生贄を神々が
受け取ったか、受け取らないのかと、そんな事をしていたのです。
その場所に来てイエシュアは、人々がイエシュアはメシアと言っているけれど、「あなたはわたしを誰というか?」という問いに「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とペテロが正しく答えたのです。そのペテロの答えに、血肉ではない、ペテロの中に住まう聖霊=父がその回答を与えたとイエシュアが言われたのです。
昇天以降に初めて、人の内側に聖霊が住むという異邦人の考え、思想は聖書に記述されたこととは、全く異なるのです。タナックには、
人の内側に聖霊が住まわれていることを、最初から教えているからです。神の言葉を正しく理解していない読者が、聖書に記されたその事実を読み取れていないだけ、それが問題なのです。
神の言葉は最初から、同じ。福音も同じ。救いの方法も同じ、神の教えも同じであり、昇天前後で神の言葉、約束、契約は1つも変化などしていないのが、聖書の事実なのです。
マタイ16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしのカハール=エクレシアを建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
<イエシュアは、ペテロの上にイエシュアの別の群れ〜教会を建てようなどと言ってなどいません。ペテロが証言した、「イエシュア=救い主=岩!」この岩=イエシュアの上に、イエシュアの群れを建てあげ続けると言っている宣言なのです。
あなたはペテロ=小さい石=ペトロスが宣言した、岩=イエシュア=ペトラ、イエシュアの上に神のカハールを継続して建て続ける!と
イエシュアが言われた言葉を、初代カトリック教皇=ペテロの上に
教会を建てるという不適切な翻訳用語と、解説、聖書とはズレた解説が施されているのです。
そして、デイスペンセーション神学思想は、神の大家族が1つである事実に完全盲目な思想を唱え続けているのです。神が1つに修復しようとしているのを、完全に邪魔する思想〜分断思想を主張して神の言葉を遮り、妨害しているのです。
一緒にイエシュアとカハールを建てあげないものは、神の邪魔をしているのです。
無法〜トラー無しを生きよ!神の教えは廃れた!という教えは、
聖書、神の言葉が定義する、イエシュアも警告した、無法者であり、神に追放される!とある通り、イエシュアが宣言しているのです。
神の言葉とは真逆を語り、主よ主よと主の名を使いながら、神の言葉を蔑ろにするように教える人は、天の国で最も神から離れた存在、
蚊帳の外、無意味羽より軽い存在になるとイエシュアが言われたのです。
マタイ 5:19 それだから、これらの最も小さいいましめ=トラーの
一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で
最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
マタイ 12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。>
天国地獄に行く話をしているのではなく、イエシュアを信じていながら、神に対しての違反、敵対することを言っている、やっていることに気がつけない理由は、無法=トラー=神の教えを捨てよ!という
人間の教え信じて、神の言葉の方を捨てているから、神の言うことが理解できなくなってしまっているのです。
福音書以降は、カハール、エクレシアという言葉の翻訳は、教会と
いう造語にすり替えられていますよね。
教会という言葉は、聖書に無い人が作った造語翻訳なのです。
ヘブライ語=カハール又は、同じ意味の言葉、ケヒラ、そしてその
ヘブライ語の翻訳が、ギリシャ語のエクレシアであり、タナックでは、集会、会衆、群れと訳されている言葉なのです。
「(神に)呼び出された者たち」という意味です。
翻訳はトリックが多いのです。原典に無い文章や言葉を付け足す。
翻訳を一貫した言葉で訳さず、別の教えのように人に印象付ける、
印象操作がされている!違反です。教会とは、聖書にない言葉です。
そして、イエシュアが到来した後も、聖なる民〜神に呼び出された人の群れは1つであり、カハール、エクレシア、創世記の最初から
同じ1つのイスラエルの神の群れ〜大家族しか存在していません。
人間の教えは、肉の思想で、自由自在に創作話を作り出しています。
マタイ16:19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、
あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
この箇所も、つなぐ、解くとありますが、ペテロが神の言葉を自由自在に解釈し、神の意図とは違うことを言って良い権威など、神は
与えてなどいません。それこそが、人間の編み出した宗教の教えで
危険な思想なのです。
イエシュアと同じく、イエシュアは、父が言われた通り、父の言葉
教えの意図通りのトラーを人に伝え、実際に生きて示すために来られたと言われました。父とイエシュアは一体だからです。
それと同じく、使徒という言葉は、神に遣わされた人であり、その人は、神の言葉と異なることを1つも言えない、言ってはならない
神の意図通りそのままを人に伝える役割があるのが、使徒なのです。
神の言葉の意味通り人に伝える!それが、使徒の役割です。
つなぐ、解くとはそういう意味です。人間が勝手に神の言葉を塗り替える権威を、神が人に与えたという創作思想は、人間至上主義、
神が神であると、理解しない聖書とは、ズレた思想を持つ人の考えなのです。人間なのに、神になっている、危険な思想です。
だから、その使徒であるペテロが、人造宗教、ローマ教の教皇などには、ならないのです。大体人間が神の言葉を塗り替えて別の教えに
変形させる宗教を作ることなど、神が許可していないのに、勝手に
モーセの五書を禁じる!今は人間の判断で、神の言葉を人が変えて良いのだ!そんなことを言う人は、聖書の定義では神から任命された使徒ではなく、神に敵対する思想、行動を人に伝えている、偽物の教えをする偽教師です。人間が編み出した、神の言葉を塗り替えて作った宗教など最初から存在してはならないものなのです。
神が神の言葉を通して、「宝の宝庫」を人に教えよう、それをイエシュアに属する人達が自分のものと出来るようにと教えられ、そうして下さっているのに、それを人間の教えが、神からの宝、祝福を受けることを妨害してしまっているのです。
「言葉」を通して、神の深いところにある考えを人に伝えているのです。これによって、人は見えない神、被造物である人とは全く違う
私達の想像を遥かに超えたお方との、深い関係に入る手段なのです。
人の世界でも、深い対話が無い相手とは、浅い関係でしかないでしょう。上辺だけの関わり。物理的に同じ家の中に居ても、相手が何を
考えているのか、共有、話し、心を開いてくれなければ、何を考えて、何を感じて思っているのか、よく分からない。
ただ一緒にいるだけの、相手を深く知らない関係の状態なのです。
親しい人と深く対話、互いの中にあることを話し、理解し合う、
深い絆、繋がりが出来るでしょう。
神の教え、神の言葉を人が理解する、これは神との深い深い、神が
デザインされた通りの顔と顔を合わせる本来の関係に入る、留まり
続ける、神を知っていく手段なのに、その神の言葉、教えを捨てさせる声は、蛇の声であり、神から出たものではないのです。
神は2000年以前は、厳しくて人が生きられない「律法」を神は
人に与えて、イスラエルの人々が、そのままでは、神の教えは生きられない教えだから、キリストが必要であることを教え、キリストを
地上に送り、その厳しい律法から2000年前にやっと人を解放し、
そして今は自由の律法〜キリストの律法を与えて、ただ信じるだけで救われて、後は自分の意見で自由に聖霊に導かれて生きる聖霊時代になったと、そうクリスチャンは教えられ言っているでしょう。
それ、全部人間の作った教え、空想話であり、聖書とはズレた解説をしています。
神の言葉を、神の言われた意図通りに見えていないのは、洗脳〜神の言葉とは違う意味を教えられ続け、頭脳に刷り込まれ、神の教えが、別物の教えに変身している事を信じているからです。
「塗り絵」というものがあるでしょう。人の思想により、神の言葉の受け取り方が違い、神の言葉とは違う色に塗り替えることをしてしまっているのです。
怒りの神と信じる人には、神がいつも上から睨みつけて、何何できてない、神の言葉、教えを、する、するなの掟リストのように考えていて、できてないかもと、いつもビクビクしている状態にもなれるのです。
怒りの神?その発想、思想は、イスラエルの神像を、自分の中にある神像に塗り替える塗り絵をしているから、そんな思想が出てくるのです。イスラエルの神を完全に誤解している思想です。
神の考えを知る手段、方法は、神の言葉を通してなのです。
言葉=聖霊である事実を聖書から知らないとならないのです。
そして、神との対話、神の考えとピッタリ合う、神の目線、神の考えにピッタリ合わせること、これが「祈り」の目的なのです。
神の言われたこと、それとぴったり自分の意識が一致している状態。
これが、Under hearing, フパコウ〜ギリシャ語〜聞くことの下にいる、これが、ヘブライ語では、シャマ〜聞くという言葉で表されているのです。
神の言葉、神の教え、神の声を聞く!これが従うと訳されている言葉であって、神の言った事を人が正しく理解すれば、神の言われた通りに考え、行動するから、「従う」と訳されているのです。
神に言われたことが分かるのに、敢えて違うことをする、それは
反抗、反逆でしょう。ヨナと同じ行動。神に言われたことを、敢えて意図的に無視する〜破滅です。
翻訳の「従う」という言葉は、いやな、本来の意味とはズレたニュアンスがあることと、ヘブライ語の言葉の意味を正しく表せていないので、よくない言葉で、シャマを指して話す時には、使うのを意図的に避けています。
なぜなら、従え〜Obey、従順〜と言うと、力づくで神に服従させられているような感じ、威圧感がする言葉だからです。
でも、神の声は細い。神は、人にガンガン上から怒鳴って命令しているのとは全く違うからです。
神は人に、神の考えを聞くことを促している。あなたは命を選びなさいと、神が人に言われる。
それが最善であり、本来の生き方であり、安全な生き方だからです。
続く