聖書を記した人たち、それらはユダヤ人の預言者ですが、彼らは神の言葉、教え=トラーに関してどう語っているのでしょうか?
聖書は、創世記〜黙示録まで、全てモーセの五書の教えを指して
語っていること、その永遠の事実を先ず知らないとなりません。
モーセの五書、これが神の言葉、教え、聖書の土台なのです。
この土台、礎、岩の上に、聖書、神の言葉の全ては建てられているのです。
その土台、礎、岩=イエシュアを崩壊させたら、ピザの斜塔のように
建物は、歪み、元の本来の状態ではなくなります。
これを、宗教という人間の教えがやってしまっているのです。
永遠普遍の神の言葉の礎を、破壊、崩壊する人間の思想を、信仰の
土台としてはならないのです。
聖書には、異邦人が作った宗教思想が教えるような、モーセの五書
トラー以外の別の教え、トラーを人間の意見や考え、好みで、捨てたり、破棄したり、又は、無視して受け入れなくても良い、生きなくても良い、いや神の教えを生きるのは、律法主義だ!というそんな事、神が教えるわけがない、そんな事は聖書には1つも書かれていません!
神は1度も神の教えを捨て去るように語られていない、そのような
行為〜神の教えを捨てる事を、「無法」トラー無し!と警告しているのです。
詩篇や箴言を読んで、心に染み込んでくる神の言葉と考えるでしょう。神の言葉は生きていてとある、それは神ご自身の実態=イエシュアそのものだからです。
聖書は、100%全てモーセの五書に記されたトラーに関して語り、神の知恵に根付き生きること、神の言葉への賛美や、どれ程神の教えを慕っているのかが、記されているのに、気がついて読んでみてください。
異邦人が語る呪いの廃れた律法を、ユダヤ人聖書記者達は賛美している!それが、詩篇であり、箴言であることに全く気がついていないのだと思います。詩篇、箴言は、モーセの五書の知恵の宝庫、神の教えをどう生きるか、そして詩篇など、ユダヤ人の讃美歌集なのです。
聖書には西洋宗教が語るような、神が神の教えを破棄した、トラーとは別の教えなど1つも書かれてなどいないのに、別の教えが書かれている、モーセの五書を否定した教えが記されているという、空想思想旧約聖書=厳しい呪いの人間が生きられない律法、
新約聖書=呪いの律法を破棄した恵の時代の新しい教え、聖霊に導かれて神の言葉は無用、キリストの律法などと勝手な空想思想を編み出して、聖書に書いてもないことを言っているのです。
聖霊=言葉=イエシュアである事実に盲目状態なのです。聖霊は、
神の言葉に基づいて人に教えているのです。
ではどうして聖書を読んでいるのですか?聖書はいらない、聖霊に導かれるから必要ないと言っていた人がいましたが、本当に無知とは
罪を犯す事に繋がります。言動において、行動において、神に敵対
する生き方を主張し、行動してしまうのです。
神の教えを捨てる結末は、罪です。
罪とは、神のトラーに違反することであり、神の言葉=トラーを捨てる人は、神の伝える罪が何かも分からなくなっているのです。
キリストの律法、メシアのトラーとは、モーセの五書であるとも知らない、聖書を正しく理解していない人が、トラーとは別の教えが出現したという、空想ファンタジードラマのシナリオを語り続けているのです。
神は神の教えを、瞳を守るが如くに、ガードせよ!と言った言葉が
書いてあるのに、神の言葉を退ける人には、神の伝えている教えは、正しく通じなくなってしまっているのです。
神の教えは、神が創造された人間の性質、生き方を教えているものであり、その生き方はイエシュアがされた生き方であり、そのイエシュアの性質、人の本来の性とずれた生き方をすれば、人は破壊される
傷つく、不具合が生じる、病原菌をばら撒く、病気になるのです。
鎧兜、安全な囲い、敵の教えが頭脳に侵入してこないため、神の教えを正しく理解するために与えられているのに、呪いの厳しい律法を
怒りの神に与えられた〜という、どんだけ神の教えから意識がずれているの?という、別世界の思想を語っているのです。
詩篇 1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、
あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを
思う。
箴言3:1 わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。
<わたしの教え=תּוֹרָתִ֣י トラテイ〜わたしのトラー=モーセの五書
わたしの戒め〜ミツボタイ、ミツヴァ〜ミツヴォット(複数)仰せ、
戒め、命令です。
何を言っているのかと言うと、100%、トラー=神の教え、モーセの五書に記された神の教えを忘れるな!神の仰せ、戒めを頭脳に
留めよ!と神が神の子らに言っているのです。
異邦人の教えは、神のトラーを捨てよ、削除せよ、生きるな!と
神の声とは真逆の声=エデンの園の蛇の声を復唱しているのです。>
3:2 そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
3:3 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
<へセッド=いつくしみ まこと=エメット=真理、
この言葉は、神の教え=トラーに記された実態のことであり、真理と
信仰とアーメンは、同じ語源なのです。へセッド、エメットは全て
100%モーセの五書を指して話しているのです。>
3:4 そうすれば、あなたは神と人との前に恵みと、誉とを得る。
ヘン、ヘナ〜恵〜 目下の者に対する優しさのためにかがんだりかがんだりすること。恵と祝福という言葉の意味は繋がっています。
好意を寄せる、与える 使役的に懇願する(つまり、嘆願によって好意を示す) 懇願する、公平、好意、関わる、与える、譲渡する、懇願する、慈悲深い、)慈悲を与える、哀れむ、祈る、
2000年、昇天以降からは恵の時代、聖霊時代というのは、聖書に書かれているイスラエルの神の性質とは真逆の肉の思想です。
神は最初から、神のトラーに恵を知らせ、人々に与えていることが
書いてあるからです。
ほまれ〜セケル=裁量、知識、方針、慎重、センス、理解、知恵、賢明
3:5 心=レブ(頭脳、思索)をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない
<聖書では、心とは、思索のことです。その人が神と同じ目線で
神と同じように考えること、それに集中せよ!と教えているのです。
感情やフィーリング、気持ちの話をしているのではないのです。
意識、意思です。頭=かしらというでしょう。ヘブライ語では
ローシュです。頭脳が、人の全存在の機能を司り、支配するからです。思索が、ずれたら行動がずれて、全てズレるからです。
エゼキエル3:3 そして彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、これであなたの腹を満たしなさい」。わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜の
ようであった。
<神の教えが、密のように甘いという人と、律法は廃れた!そんな
教えに戻るな!という人の思考回路、意識が全く違うものであることは聖書の言葉から明らかです。>
3:4 彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家に行って、わたしの言葉を語りなさい。
<預言者が語った言葉、教えは、100%モーセの五書=トラーである事を聖書から知ってください。預言者の役割は、トラー=婚姻契約の生き方に戻れ!という託宣をする人であり、ナヴィム=預言者とは、神の言葉に導き、戻る事を促す人であるのです。
車のナヴィと同じ言葉です。目的地にその通りに導く〜神の教えに
生きることに戻る事を、伝える人、それが預言者です。
イスラエルは神に贖い出され、救われ、聖霊を与えられていたのに、
神の教え〜トラー=婚姻契約の生き方に根付かず、混ぜ物の教えに
引きずられ、高きところの礼拝で、イスラエルの神を拝みました。
異教の神々を拝んでいたのではない。異教の神々〜人間の宗教の
儀式、慣わし、シンボル、要素、教えを混ぜたもので、イスラエルの神に近づき礼拝していた。
だから、それを「姦淫の罪」と書いてあるのです。混ぜてはダメ!神が言う通りに、神に近づいて!と神が伝えているのに、イスラエルは違反したのです。
異邦人も同じなのです。神が伝えて教えている、神の教えを捨て、
自分達が編み出した教えや記念日にすり替えて、イスラエルの神を
礼拝しているのです。姦淫の罪の意味が分かっていない。別の神々を拝んでいるのではないから、何も問題ないと考えている。
神が、伝えているのは、混ぜ物の教え〜異教の神々のシンボル、儀式
記念日、イスラエルの神のものではないものを、人間が編み出して
それらを通して礼拝することetc etcそれらを、偶像礼拝、姦淫の罪と
書いてあるのに、全く通じていないのです。
1列王記12:26-33のヤラベアム王がやったことは、神の前に罪だと
警告されているのです。神の言葉、教えは永遠であり、今も同じです。同じこと、自分の考えを優先し、神の伝えた通りをしない!
これを宗教の教えは、ずっとやっているのは、今は神の教えを勝手に
人間が変えて良い、神の記念日もいつでも良いという、聖書ではない
人間の教えー宗教の教えを信仰の土台としているから、神に何を教えられているのか、全く気がつかないまま、神がありがたいと思っていると、空想しているのです。
異邦人とて、ズレたことをすれば同じ罪なのです。
預言者は、トラー=モーセの五書をイスラエル語り、トラーに戻れ!という警告を、神から伝えられていることを話したのに、人々に
煙たがられて、預言者は殺されたのです。同じ事をしていることに
気がついてください。神の言葉を伝えているのに、異邦人は神の言葉を捨てよ!という教えをして、イスラエルと同じ罪を、神に対して
犯しているのです。昇天以降、全てが許されて、前の教えは終了したという、まやかしの偽の教えを信じているから、神の警告、罪の定義、基準が今も同じであるということが、分からないままなのです。
罪の定義は永遠に、神のトラーに違反すること!これは、絶対に
変わらない事実なのに、通じていないのです。なぜ?無法〜神の教えを捨てるとは、罪の定義を捨てて、罪を罪と認識しない世界を教え
生きることだからです。それを「無法」とイエシュア、聖書〜神の
言葉が定義している実態なのです。
無法〜神のトラーを捨てて生きることが無法と書いてあるのです。
エレミヤ 15:16 わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。
み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。
詩篇119:103 あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです。
119:97 いかにわたしはあなたのおきてを愛することでしょう。
わたしはひねもすこれを深く思います。
<異邦人の教師は、神の言葉、教え=律法に戻るな!と、聖書とは
真逆の教え、神に敵対することを、人に教えています。詩篇の記者、聖書の記者は、100%モーセの五書の神の教え=トラーだけを指して語っているのです。>
19:9 若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。
119:10 わたしは心をつくしてあなたを尋ね求めます。
わたしをあなたの戒めから迷い出させないでください。
119:11 わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。
<罪の定義を捨てる人は、罪に陥ります。神が人に伝える罪が何だか分からないのは、神の言葉を捨てて、破棄された!という嘘を信じているから、神が伝える罪が何のなのかも、聖書を読んでも分からないのです。都合悪い箇所は、全部、律法は廃れた〜恵の時代だ〜自由に
選択できるのだ!と、聖書とは真逆の人間の教えを神の教えの如く
語るのが西洋宗教の教えです。
神が与えた自由は、無法地帯の自由〜罪の定義を取り払い、神の教えを終了させた自由など人に与えていません。それでは、野生動物と
同じ!異教徒と何も変わらない生き方をせよ!と神が言っていることになりますし、神が嘘つきになります。
神が人に与えた自由とは、ノモス=律法=罪の法則の下に縛られていた状態を、イエシュアの贖いの血により解放し、救い出して下さった。神の与える自由とは、神の性質通りを罪の法則に支配されない
罪の法則の支配に、NOさよなら!という事の出来る聖霊による力=
新しい人を生きる宣言をサタンに向かってすることが出来る!と
教えているのに、クリスチャンの世界では、トンデモなく神の教えを
勘違いしたことを語っているのです。
続く