人と人との間に共に生きるとは、神を知らない人でも、その相手と
特別な関係にある場合、その人達の間には、様々な取り決め、
ルール、家訓、家族の大事な記念日や生き方があります。
人の中でその一番親しい関係は、夫婦、婚姻関係を結ぶ事です。
夫と妻の間には、色々な取り決め、ルール、してほしい事、
してほしくない事、しなくてはならない事、してはならない事、
様々なことがあるでしょう。
関係の中に入るとは、必ず責任を伴う生き方をするのです。
学校、会社、町内、その他、様々な形の人間関係に生きることが、
日常営まれているのです。
その関係の中にいる人同士は、その夫婦、家族、親族、組織、群れ、グループ、団体どんな形でも、その中での行動、振る舞いはお互い
理解して、取り決められているものなのです。
その関係の中にない人は、それらのルールや取り決めは生きないのです。
でも、お互いに結んでいる関係の中に生きる時に、お互いの中で
合意していることを、無視する、違反する場合、関係が壊れるのは、簡単に理解出来るものです。
お互いの取り決め、ルールに違反した場合、その修復をしないまま、
相手を不愉快にし傷つけていれば、わだかまり、怒りが積み重なり、相手との壁が出きて、関係が壊れて行くのです。
これは、恋人同士、友人同士、親戚や、同僚や、隣近所、どんな形態の関係でも、それぞれの間の、関わりの中でのルールというものがあるのです。
それらは、その家族、関係の中にいない人には関係のないルールや
生き方、その家々の家訓は違うのは、誰でも理解出来る事です。
神の教えを捨てよ!という教えは、神に対して違反、冒涜、無礼、
罪を犯してもそれが罪とも分からない状態になっているのです。
なぜなら、神の教えを捨てる、罪の定義を捨てる、無法を生きることであると、聖書には書かれているからです。ひどいことをしている
人間に忍耐しているだけなのです。イスラエルとて、混ぜ物の教え
シンボル、高きところの礼拝をして、イスラエルの神を真剣に礼拝していたのですよ!でも、神はそれを姦淫の罪!と言っている。
そして、ある時は1000年以上も忍耐したことが記されているのです。その教訓が、神の教えを捨てる人には、何も通じない、届かないのです。人の嫌がることはしないでしょう?だったらどうして神が
忌み嫌う!ということ、神の言葉を捨て、罪の定義が消えたなどという、神が言ってもいないことを、言い続けて、やり続けていることに
気がつかないとならないのです。
結局、人間中心。自分の考えが中心、人間が編み出した宗教、教え
やり方で、神に近づく。神の教えを退けて、勝手なやり方で神を
礼拝している、それって一体何?と聖書から考える時、終わりの時代が来たのです。
神も人に、神が提示する「ブリット」婚姻関係を通して関わるように
教えていることに気がついていますか?神の一方的な業、子羊の血の贖われ、救われた人は、花嫁とされ、聖別されて神のものとなったので、その人達は、もれなく神の提示する生き方を生きてくださいと
神が伝えていること、クリスチャンは知らないのです。
それは、信じるだけで後は何しても良いと、聖書とは真逆な人間の
作った宗教の思想を教えられ続けているからです。
神は人に、人を守る教え、そして神が提示する保証、約束を与えて
くださいました。
A. 契約は、神がご自分の民と関わるための手段。
B. 契約は、神がご自分の民に約束をするための手段。
C. 契約は神の民の歴史を理解する方法。
D. 契約は、神がご自身の民が互いに関係を持つようにデザインされた方法を説明しています
E. 契約は神が選ばれた、契約を受け取る代表である民族、
イスラエルに関して説明しています。
神の提示した婚姻関係は、古代中東の宗主国条約と同じです。
これは以前に説明した通りです。
申命記は、古代中近東にあった契約と同じ形式で記されています。
そして、その契約の性質が、婚姻契約なので、聖書は婚姻契約用語で
記されているのです。そして、神は一度結んだ契約を、決して破らない、終了、破棄されない!でも、宗教の教えは、聖書とは異なる
真逆を語り続けています。神の言葉、約束が、変化する〜進化する〜
それ全部嘘です。神は変わらない!神の言葉は変わらない!と神が
人に伝えている、神の言葉だけを信じて、神の教えに敵対する
人の作った教えの方を退けてください!
1. 序文 1:1-8
<宗主、王、神がどんなお方であるのか>
2. 歴史的序文 1:9 ~ 4:43
<イスラエルの神とイスラエルの民 今までの経緯>
3. 約定 4:44 ~ 26:19
<神の教え、神の約束、神の民が生きるべきガードすべき教えの
全て>
4. 制裁(祝福と呪い) 27:1 ~ 29:1
<神が伝える契約の命の生き方を生きる〜祝福、
それに反することこと〜呪い>
5. 表示の声明 27:1-4
<この契約に同意して生きることを神が人に伝える>
6. 忠誠の誓い 29:2 ~ 30:20
<神が提示された契約の命の生き方を生きることに同意する
宣言、誓い>
7. 証人条項 31:1 ~ 32:47
<天と地を承認にこの契約が両者の間で合意され、
結ばれた>
ブリット〜契約は、クリスチャンの世界で教えられているように、
神は変更などしない、できない性質のものであることを、聖書から理解しないとなりません。
西洋宗教〜人間思想の神学は、聖書とは関係のない空想の世界を語っています。人間の側で、神が提示された婚姻契約の中にある生き方に
違反をし続けていますが、神の側では、この契約の内容を1つも
変えていません!
異邦人が作った宗教〜ローマ帝国、ローマ皇帝が作った人造宗教は、
モーセの五書〜ユダヤ的な生き方全て廃止せよ!モーセの五書を生きるのは禁止する!という人間が神の言葉否定、終了、破棄した教えを土台に人間が作った宗教であるその事実を、先ず全てのクリスチャンは、ぜひ知っておく必要があります。
聖書を一般のクリスチャンが誤解している理由は、聖書を教えている人たちが、聖書を正しく理解して、正しく教えていないこと、特に
パウロの書簡を勘違いした読み込みをして、モーセの五書が廃れた
教えが書いてあるという、空想仮説を解説し教え続けてしまっているその間違った教えのせいを刷り込まれているので、聖書の事実が見えないのです。
実際、永遠と書いてあるのに、一時的と読み替え、7と書いてあるのに1と読み替えているでしょう。書いてないことを、書いてあるが如くに信じている、それ変だと気がついてください。普通の書や教科書に書いてあることは曲げないに、どうして聖書=神の言葉を曲げて読んでいるのでしょうか?という問いを自分にして、聖書=神の言葉からその答えを発見すればよいのです。
その時に人の思想を根拠にしてはならないのです。
信仰の土台は、神の言葉の事実のみ!
問題は、聖書を正しく教えるべき教師が、聖書ではなくて、人間が
作った宗教の教え、神学、思想を、教えて、それが神の言葉であると勘違いしていることが原因なのです。
科学者、教師が、進化論を信じて、人に教え続けているのと、全く
同じ、嘘なのに、証拠、根拠のない只の仮説にすぎないのに、あたかもそれらが真実であるが如くに、人に教えているのと同じ事です。
パウロの書簡の勘違いの読み込みは、使徒〜神のトラーを神が伝える通りに任命された人〜パウロの証言に照らし合わせても、全く辻褄が合わないことは、明らかなのです。そして、パウロが公に証明した
誓願、使徒21:21、議会での証言、使徒23:6,26:5
モーセの五書に100%忠実に人に教え、実際にパウロもトラーを
生きていることを、パウロ自身が、自ら証明しているのに、その聖書に記述された事実をクリスチャンは無視、読み飛ばし、矛盾した、
人間創作の教えを人に教え続けているのが、人間の編み出した神学
思想なのです。
神の言葉を、神ご自身も、そしてまして人間が変更できない!という基本中の基本、永遠の真実を理解していない人は、どのようにも神の言葉を曲げて、解説しても、矛盾を感じないのです。聖書に照らし
合わせてみたら、矛盾だらけの異邦人の教え〜それが今や、エラー、
誤りだらけの神学と呼ばれている、デイスペンセーション神学思想なのです。
2ペテロ3:16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。
その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、
無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
異邦人は、神の言葉に敵対する思想を植え付けられています。
これは、反モーセの五書〜ローマ帝国と、異邦人教師達の編み出した
スローガンであり、それに合体した、反ユダヤ主義です。
律法は廃れた、律法に戻るな!信じたらユダヤ人やめよ!という
人間の教え、神の言葉に敵対するとは、イコール、イエシュアご自身に敵対していることである事に、丸で気がついていないのです。
なぜなら、イエシュアは肉体を取って来られた言葉=トラーであり、
イエシュアの教えた教えは、100%父の教え=モーセの五書=
トラーだけ、それのみだからです。イエシュアもそう証言しているでしょう。父の教え以外に自分からは何も語らない!と。
イエシュアは影〜目に見えない天の父=神と一体であり、見えない神を見える神=肉体を取って来られた、父の言う通りを人に伝えているという事実が見えていないのです。
神の言葉、聖書の真実が通じないのは、宗教という人間が作った、
神の言葉を曲げる思想、哲学、宗教のせいなのです。
異邦人が、イスラエルの神の言葉=聖霊=イエシュアである事を、
知らないまま、神の言葉に敵対している一方、聖書に登場する人たちは、神の教え=トラーに関してどのように語っていますか?
神の言葉を愛して生きるとは、神を愛する事そのものなのです。
異邦人が神の言葉に敵対視する、蔑ろに軽視するのとは全然違う意識の世界が、聖書には書かれています。
イエシュアを愛すると言いながら、気が付かないまま、イエシュアの
実態である、言葉を軽視、退け、敵対視し、そして、人に神の言葉を捨てるように教える教師達。これが世の終わりへの警告だったのです。そして、神の禁じた事を生きるように人に奨励する!恐ろしい事を教えている、言っている、やっている。人に神のトラーに違反しても良いと教えている。罪を犯せ!と教えている。
なぜなら、無法とは、トラーを捨てる人たち、捨てるように教える人たちの事であると、聖書には書かれているからです。
神の言葉、教え、聖書では、罪の定義とは、神のトラー=モーセの五書に違反することを、罪と言っているのです。
そして、今は罪の定義=トラーが取り払われて廃れた!などと、勝手な解説をして、神が伝える教え=罪の基準、定義を人間が捨てている
無法を教えているのです。
ヨハネがコード化された言葉で、黙示録を書いているのは、トラーを知る人達だけが理解出来る用語で書かれているからです。
ローマ帝国の迫害から、逃れる知恵です。今の時代と同じ。ある事柄を話すとき、コード化された言葉で、みんな書く、語っているでしょう。動画や記事がバンされないために!同じ事が1世紀にも起きたのです。いや、ずっと起きています。神の教え=トラー=モーセの五書を語る事、生きることを禁じられてきたのです!ずっと。
666とは、人間、神に劣る人間であり、この数字をヘブライ文字で
表すとタスル『捨て去るもの』という意味のヘブライ語の言葉になるのです。そうです。神のトラーを捨て去るもの=反キリストの正体は、神の言葉に敵対するものなのです。エデンの園の出来事でもその
事実が教えられているでしょう。神の言葉をまげるやつ!
ダニエル11章に預言された、ギリシャ帝国の反キリスト、神のトラー=モーセの五書を捨て去るようにユダヤ人に強要し、汚れた動物、豚、血を食するように命令し、そしてゼウス神の偶像を拝むように、
勅令を出したのです。モーセの五書を生きる人全員、ギリシャ帝国に処刑されたのです。シャバットを汚し、破り、けがれた動物を食し、聖別を汚しそして、異教徒と同じような生き方をし、偶像まで拝むように強要されたのです。
それがイエシュアが誕生される前、紀元前167年前後の出来事なのです。同じく、神に敵対するもの、反キリスト思想があったのは、
1世紀も同じです。
ローマ帝国による迫害です。その結末が、70年の神殿崩壊であり、
この勅令に抵抗したユダヤ人110万人が殺害され、9000人が
ローマの奴隷とされ、その他のユダヤ人は、国外追放で、世界へ
散って行ったのです。
この1世紀の時代も、モーセの五書を捨てよ!生きるな!生きる人は処刑、死刑、重税を課せられたのです。666の正体。
聖書に書いてある言葉は、最初から最後まで同じ意味です。
「おきて、教え、さとし、仰せ、知恵、命令、etc etc」それら全ては、モーセの五書に記された神の言葉〜教えを指して語っているのです。モーセの五書以外の教えは聖書にはありません。モーセの五書
神の言葉を否定する、ある部分を削除する、破棄する、無用、ある人種には無用などという教えは、実は1つも書いてない、異邦人の空想
話しである事を、聖書から突き止め気がついてください。全部嘘!
だから、古い律法と、キリストの律法は別物と解説する異邦人の教えは、聖書に、実在しない教え=別の契約、聖書に根拠のない空想を
語っているだけなのに気がついていないのです。
聖霊に導かれるために、神の教え、律法と言い続けていますが、それが邪魔になるなど、もう支離滅裂な解説をして、イスラエルの神の
教えではない聖書ではない、人間が作った宗教の教えそのものなのです。
続く