聖書には宗教の教えは記されていない ユダヤ教 ローマカトリック教 キリスト教 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

一般のクリスチャンは、神と教会は一体的なもの、神が教会という

異邦人の群れに権威を与えている、何をするのも神が認めて、教会は間違った事は教えない、しないと考えているかもしれません。

 

神の教え、言葉に聞き従うことと、自分の属する群れ〜教会に従う

事とが、相反して対立するものとは考えていないのです。

いや、密かに考えている人も少なからずいるでしょう。上に従え!と言われて、上がずれている、腐敗している、闇の行為をしている事

そして、聖書とはずれた事言っていると聖書から気が付く人がいる

その事実を知った場合、どうやってリーダーに話を持っていくのか、リーダーを正すのか、実際に多くの群れがそのような問題を持っているのです。

牧師=イコール神と同等のような事を、カトリック同様、プロテスタントでも教えている人がいるからです。

牧師に意見する、イコール神を尊重していないと言っていた人が

いました。牧師を愛せよ!と言いながら、その人達が人を愛してない、いやリーダーが、人々にお手本を示すべきなのです。

 

又は、このように聖書は神の完全なる言葉であると言いながら、

違う思想を主張している、聖書の記述と、実際に信じて行動している内容に違いがあるから、その矛盾に気がついた場合、聖書とは違う事を言っているではないかと、上、牧師、教師に普通の人が質問したり、対抗して、対等に話し合う機会が与えられるのでしょうか。

 

対等に聖書の内容を議論するほど、一般信徒はそこまで聖書を深く

学んでいない〜パウロやユダヤ人の弟子のような人でなければ、

対等に議論できないから、それは、余りあり得ない事ではないのでしょうか?上に従えと、牧師は神から選ばれた油注がれた存在なのだから間違いを教えるわけないと、多くの人は思っているから、質問も

できないまま、納得のいかない丸め込まれ方をしてしまいます。

キリスト教が教える事が、間違いなどある訳ないと考えているからです。こんなに長い年月教えられている教えと、長い間大衆の間に

存続している教会は、絶対に間違えないと考えているからです。

神が認めている、正しい教えをしているからだ!と思うのですが、

どうして、こんな何十万という宗派、教え、思想、神学が存在しているのか?1つの神、1つの神の言葉なのに。

神の言葉に対する人間の解釈がずれている証拠なのです。

 

問題は次の点にあります。カトリック教会側が、神のトラー=教え、モーセの五書を変更したのは、教会が神から与えられている権威が

与えられている事によると主張していますが、しかしこれは、当然

聖書に根拠があるから、そう主張しているのではありません。

神は逆を教えているからです。神の言葉に人間が付け加えたり、差し引きするなかれ!!!申命記4:2、マタイ5:2-9,18,ガラテヤ3:15、黙示録22:8−9という厳重警告を、カトリックは破り、

その思想は既に1世紀後半から異邦人の間に存在している思想だからです。ローマ帝国と、異邦人西洋初代教父達が、モーセの五書を生きる事を禁じる!という、反メシア思想を掲げたからです。

 

異邦人キリスト信者の群れの初代教皇がペテロであると言われてしまっていて、カトリック教皇は、地上に於けるキリストの代理者であると主張して、「聖なる父」と人に呼ばせています。聖なる父は、イスラエルの神以外にはいません!神の名を人が使用してはなりません。名イコール、実態、評判を表すものだからです。

これも聖書的根拠は何もない人が作った教えなのです。前回解説したマタイによる福音書 16:18、19 を根拠にしていますが、ペテロ=初代ローマ教皇、でありそれに継続するローマ教皇が神から、神の言葉を自由自在に解釈し変えて良い権威を与えられたと主張していますが、この聖句の解釈には無理があり、単なるこじつけであり、無理な解釈を施している!という2ペテロ3:16の警告通りをやってしまっているのです。

ペテロが誰なのかも、全く理解していない人が作る創作の教えです。

ペテロは、ユダヤ人であり、ローマ人異教徒上がりの異邦人とは違います。100%、モーセも五書=トラー=父の教え=イエシュアの教えに忠実に生涯生きた、「使徒」と呼ばれる人なのです。

「使徒」は、神から遣わされて送られた人であり、神の言葉、教え=トラー=モーセの五書に記された意図通り、どれひとつ否定したり、変更したりする教えなどしない、神の言葉通りを神の意図通りにそのまま伝える人を「使徒」シャリアフと呼ばれるのが使者のことなのです。

ユダヤ人でありながら、しかもイエシュアから任命されたトラーをイエシュアと同じように正しく教え、生きて示す使徒が、神の教え=

トラーとは違う教えを人に教える宗教の教祖などには、絶対になりません!あり得ない空想話です。神の言葉を捨てるとは、それこそ、

神に対して敵対するものであり、裏切り者、偽教師、偽預言者、

偽使徒と認定されてしまいます。

1つ1つ聖書に記された事実だけを繋げていけば、世間一般で解説される、モーセの五書=律法は十字架に付けられて葬られた、廃れた〜終了〜無効という教えが、聖書には記されてなどいない教えであることは、聖書が証明しているのです。

なぜなら、イエシュアはトラーを破棄するためではなく、成就するために来たと言われたでしょう。成就とは、終わらせるなどという意味は1つもありません!ヘブライ語の「クム」は、固く確立させるという意味であり、神の言葉は永遠に固く立つという、イザヤ40:8の

言葉、永遠に変わらないと訳されていますが、永遠に固く立つ!という意味であり、変わらないのです。

成就、破棄とは当時のユダヤ人の中にあったラビ慣用句であり、

成就〜神の言葉を正しく理解して、人に解説する、生きる事、

破棄〜トラーを正しく理解しない、ずれた解説をする、ずれた生き方をする事を話している事なのです。

クリスチャンの世界は、2世紀以降から、聖書を聖書で解説することをしないで、聖書=神の言葉を、人の思想〜作り話〜神学で解説しているから、聖書とは辻褄合わない、違反行為をしているのに気が付かないのです。聖書の記述と辻褄が合わない箇所は、全部、律法は

廃れた〜という教えを持ち出して、解説すれば良いからです。

それに使われているのが、誤解されたパウロの書簡に記されている

数々の議論の内容なのです!神は神の言葉を変えません!

大体人間が、神の教え、言葉を変える!変えて良いのだ!というその発想、考え、態度、思考回路自体が、神の前に一番重い罪である!という事になぜ聖書=神の言葉、教えから気がつけないのでしょうか?なぜ聖書を注意深く検証、確認しないのでしょか?

マタイ5:19で、これらの戒めとイエシュアが言っている意味は、

モーセの五書=トラーに記された教えのどの1つでも!という意味

なのです。トラーも教えを、破るように人に教えていると警告されているでしょう!

西洋宗教は、神の言葉を蔑ろにし、軽視し、軽く取り扱い、今は

人間の判断、意見が中心!という人間至上主義の危険な教えを

教えているので、イエシュアの警告が全然耳に、頭脳に届いていない

それどころか、この箇所を真逆〜律法はイエシュアが来て成就されたから、終了などという、聖書に書いてない、無理な読み込み、こじつけの解説をし続けているのです。

 

神の言葉を捨てるように教える人、神の言葉を蔑ろ、軽視するように

教える人への警告を、イエシュアの口からもされているのに、どうして理解しないのでしょう?と考えないとならないのです。

神の言葉を捨てる人、神の言葉を人間の解釈で勝手に変えてしまえば

神が何を伝えているのは、それでは神が伝えている教えの意味など

分かる訳がないからです。

自分に都合の悪い教えは、全部『廃れた〜』やりたい人だけやれば

良いという、そういう発言をしているでしょう?

それは、人の思想、宗教の教えの幕、覆い目隠しで、神の言葉の真実に盲目状態になっているからです。

 

ここで、カトリックとプロテスタントの基本的信条の相違点という

ものがありますが、組織や構造、細かい思想には違いあれど、

結局信仰の基本の根、土台は全く同じなのです。

だから、両者、モーセの五書を今は廃れた教えとし、ただ読むだけ。

都合の良いところだけ信じる。そして、神の創造された記念日を

全部捨てて、ローマ教が作った宗教の記念日、日曜礼拝、クリスマス、イースター、カトリックは、万聖節まで代わりに祝っている。

その他、変えられた色々な儀式があります。

割礼を幼児洗礼。過越の晩餐の儀式を、聖餐式という種有りパンで

日曜日にやる儀式に変更。

カトリックトとプロテスタントの信仰の土台、、基礎は、どちらも

聖書とカハール、エクレシア、教会という造語で訳しているのですが、そんな言葉は実は聖書にない、人造の翻訳用語です。

便宜上、教会=異邦人の群れという意味で使われているので、

意味が通じるので、敢えて教会と使います。

ではどこがどう違うのかと言えば、カトリックの方は、カトリック

教会(教皇)に、神と同等の最高の権威を置き、教会の中に継承されている伝承ー言い伝え、伝統の教えもその中に含まれ、

神の言葉である聖書はその下に置かれています。

極端な言い方をすれば、カトリック教会が決定すれば聖書の教えを

変えることもできるということになっている思想です。

そして、実際それをやり続けています。だから最初からずっと今でも聖書ではない様々な教え〜聖典に記された教えが盛り込まれて、

それを信徒達は教えられているのです。デイスペンセーション神学と同じく、時代ごとに神の言葉が変化すると信じているからです。

近年、カトリック教皇が、同性婚を祝福するという、LGBTQの罪を

罪ともみなさない、罪を生きる事を容認する宣言をしましたよね。

プロテスタントの牧師も同じ事を言っていますから、結局同じです。

少なくとも聖書の解釈権はカトリック教会にあり、その人間、カトリックの教皇、司祭達の解釈によって、聖書の意味を決定できるという立場がカトリックです。

これに対してプロテスタントの方は、最高の権威を神の啓示の言葉である聖書に置きますと言っています。しかし実際に、結局カトリックと同じ事をしているのです。同じように牧師が組織の頂点です。

神から特別な権威を与えられていると信じているでしょう。

聖書では、群れがあれば、そのリーダー達は、トラーに根付き、生きている長老たちであり、神の言葉を正しく人に教えられる人、神の

教えを生きている人、神のトラー=知恵に満ちた人達です。

その人達は他の人に対してより責任を負う立場であるだけです。

他の人たちを、神の言葉通りに正しく教え、導くことができる人達、それが長老と聖書には書いてあります。

宗教組織のこの階級制度も、結局カトリックと同じ組織構造なのです。

口先、信徒信条では、教会は聖書の下に置かれ、教会の組織も運営も聖書の教えによって、規定され統御されると言っていますが、

実際には、神の言葉をその宣言通りには取り扱ってなどなく、

その宣言とは逆をやっているのです。

なぜそう言えるのか?置換神学、デイスペンセーション神学、人間が編み出した思想〜モーセの五書は廃れた!という思想の土台は

カトリックもプロテスタントも結局同一だからです。

イエシュア、使徒達、パウロはそのような神の言葉を捨てた教えなど

1つもしていません!そこが、聖書とは完全にずれている砂を土台とした人造宗教なのです。

 

モーセの五書禁じる!と言った、イエシュアが来られる以前のギリシャ帝国と、そして全く同じく1世紀後半のローマ帝国と、西洋教父達の勅令、宣言通り、モーセの五書は廃れた!人の意見で自由に神の

言葉を人間が自由に選択し、仕分けて良い、生きても生きなくても

良い恵、聖霊の時代になったなどと、聖書に1つもそんなこと書かれていない思想主張し、反聖書的人造神学の教えを編み出して、同じ

ことをしているのです。

人間が神の言葉を曲げて、変えて、塗り替えて、人間の意見を主張している、それが人造宗教の信仰の土台なのです。ある部分は神の言葉を信じていても、殆ど神の言葉、教えなどヘブライ聖書に書いてある通りに学ばない、学び続けるという教育習慣がない、それらの神の言葉は異邦人には関係ないと言い続けているのです。

関係ない教えを、熱心に知ろうなどという追求をしない方が、当然だからです。古い教えは参考程度に読むとクリスチャンは教えられて、そう言っているでしょう。

以上が両教の決定的な相違点とされていますが、カトリックもプロテスタントも結局、神の言葉を変えている!人間が神の教えを塗り替えている事、同じ事をしているのです。

それに全く気がついていないだけなのです。聖書を正しく読んでいない、教えられていない、特にパウロの書簡を勘違いした読み込みをしているからです。あたかも、パウロがモーセの五書を否定した教えをしていると信じているでしょう。

聖書には、最初の部分に、メシア、イエシュアが書かれているのです。そのメシアが、地上に来られたから、贖い、救いが初めて与えられた、罪の赦しと聖霊が初めて人の内側に住まうようになったと、

誤解しているのです。最初から同じ!最初から救い=イエシュアは

与えられているのです。エデンの園から同じ。

そして、神の救いの方法も変化していません。1つしか救いの方法はないからです。イエシュアを通して以外、誰一人として父の元に戻ることはできない!これは全人類、どの時代も同じ共通した事実です。

そして、2000年前の人は、仮の許し〜動物の生贄で許されていたっという教えも聖書とは真逆、聖書とは関係のない教えです。

神の言葉、教えを理解していない人が教えている思想です。

動物の血は人の罪を消さない!とあるでしょう。神の家、ミシュカン

神殿の中で、イエシュアの贖い、救い、神との関わり、神にどのように近づくのか、イエシュアのされた業、贖い、救いの1つ1つの深い意味、回復、修復、神との対話、カウンセリングでどう癒されるのか

全部教えているのです。そして聖別〜神に近づけないずれた状態は

何か、ものすごく深く、目から鱗の教えが、教えられているのに

それを教えてもらっていないから、分からないのです。

太古の人は、神の言葉、そして神殿、ミシュカンを体験した人たちは、イエシュアの贖い、救いの意味、赦し、聖霊を受けて生きること

それは今の人たちよりもっと深く理解していたのです。

五感を通して、実際に子羊イエシュアの贖いの事実を体験し

シャバット、祭りを通して、イエシュアの業を理解し、そして祭りは

最大限に喜び体験を皆でする特別な時だからです。

それを異邦人は知らないのです。神の言葉を捨てている、神の教えを

正しく教えられていないから、分からないだけなのです。

 

屠られた子羊の血の贖いの代価は、永遠の中に既に支払われて存在しているからです。そして、どの時代のどの人種も、神は

神が永遠の中に造られ選び出した人に与えているからです。

地上で大きな出来事〜これは預言的出来事ですが、シナイ山の婚姻契約を与えられた事も大きな出来事であり、イエシュアが地上に来られて処刑された事実も大きな出来事ですが、その前後に神の性質、

神の贖い、救いの内容が変化する事などないのです。

 

続く