クリスチャンの間で多大に誤解されている事は、用語は、
「律法主義」という言葉です。
この言葉の意味を、完全に勘違いして取り違えているのです。
聖書には、律法主義という言葉は出て来ませんが、その本質を語っている内容がたくさん書かれています。
クリスチャンは、神の言葉=古い箇所は、律法だと翻訳されていて、
律法は廃れたので、それを生きる人は恵を捨てている生き方である
神の言葉〜古い教えを生きる人が、律法主義的な生き方だと言います。そして、神の教え=トラーに記されたこと、異邦人がやらないようなことをやる人、ギリシャ帝国、ローマ帝国が禁じたことを生きる人、神の教えを生きて、きよくない動物は食さず、割礼をさずけ
神のシャバットや新月、祭りを祝う人〜古い教え、律法主義的な
生き方をして縛られている人という偏見を、クリスチャンは持っています。
でも、イエシュアが何を教えて、何を生きたのか、クリスチャンは
聖書を読んでいても、知らないのです。
イエシュアが教え、生きたのは、トラーであり、正にクリスチャンが言う所の律法主義ですね。イエシュアが生きたのは、トラーに記された教え、割礼を授け、シャバット、新月、祭りを祝ったのです。
イエシュアが教えて、生きたのは、今まで聞いたことのない、新しい福音だと信じているでしょう?もしくは、昇天以降、神の教えが破棄された〜と信じている。まさか、イエシュアが父の教え=トラー=モーセの五書から絶対離れずに生きよ!などと教えているなどと、聖書に書かれているのに全く理解していないのです。
律法主義とは、神の前に「義」とされる事を自分の努力や行いで獲得しようとする事、金で聖霊の賜物を買うという思考回路と同じです。又は「天の国の一員」になる、来るべき次の世界で、「神の前に重要なポストを得る」それらを人間の努力、手柄又は神の言葉を生きて獲得するというずれた思想のことです。
クリスチャンの世界で分かりやすく言えば、洗礼を受ける事で、救われる事実を得ようとすること。どこかの組織に属して、その群れの
リーダーが命令することをやることで、神に特別な目をかけてもらえる、特別な恵や祝福をもらえるなど。
人間が作った宗教の階級制度のトップになる、イコール、神から特別に選ばれて、祝福されている、神の前に重要な存在であるという意識を持つ。
たくさん献金したら、神から倍返しがある。そのようなズレた思想のこと。自分の努力で、救い、義を手に入れるというのが主ですが
それは人間の努力ではできません、人間の努力で、救い、聖霊=義とされる事は、手に入らないことが最初から書いてあるのです。
クリスチャンは、神の言葉を生きること、イコール律法主義であると勘違いしていますが、聖書に書かれている意味と、人の思想を、
はっきり区別して下さい。
本当に支離滅裂な、聖書とは全く関係のない人の思想を刷り込まれているのです。なぜなら、聖書とは、モーセの五書に記された教えのみだからです。それが神の言葉、教えの全てであり、ヨシュア記から、
マラキは、全てモーセの五書を解説している書だからです。
そして福音書〜黙示録は、最初の箇所、タナック〜モーセの五書、
預言書、諸書の後書きにしか過ぎないのです。
しかも、神の教えの完全版が記されているのは、モーセの五書のみです。福音書以降は、預言者ではない、使徒が書いたものであり、
預言者たちが記した聖書の解説、註解なのです。
これよく考えて下さい。預言者により聖書が書かれたのです。
預言者が書かれた書を、使徒達は何も1つも意味をずらしたり、
変えたりする教えはしていない、イエシュアも含めて、そのような事は誰一人していません!でも、クリスチャンの世界では、その永遠の事実とは違う事を教えられてしまっているのです。
そして、使徒達は、1つもモーセの五書に反する、否定する、変える
教えなどしていないという理解が、クリスチャンの中にはないのです。
福音書〜黙示録の中、聖書に聖書は〜と書いてあったら、それらは
100%モーセの五書、それを解説する預言書、諸書のみだけを指して語っている!という事実に気がついて下さい。福音書〜黙示録が
記されている1世紀後半に、新訳聖書などという異邦人がタイトルを付けた書は、その当時どれも存在していない、書かれている途上で
あり、誰も一般的には知らないからです。しかも全て手書き。
特定の個人が読んだだけです。
使徒を読んで、パウロが新約聖書というものを持って、諸外国に
教えに行ったと空想しているでしょう?そして、古い教え=モーセの五書とは違う教え、モーセの五書を否定した教えをパウロは諸外国にしに行ったと空想、妄想しているのです。
パウロが教えたのは、パウロの書簡に記されているのは100%
モーセの五書、その知恵をどう生きるかの質疑応答が書かれているのが、パウロの書簡なのです。
パウロが教えたのは、モーセの五書。パウロは丸暗記していたのです。1つが、20−30キロもするトラーの巻物など、そんな重いものをいくつも携えて、諸外国に教えに行ったと空想していませんか?
ラップトップのように、パウロの頭脳には、トラーが搭載されていたのです。
ユダヤ人、パウロのようなトラー学者は全て幼い頃から丸暗記する
ほど、神の言葉が頭脳に記憶されているのです。
歌を通して、全部覚える、そんな教育を受けているのがユダヤ人なのです。
神の言葉、教えをしっかり握り生きることが、律法主義だと、
クリスチャンが勘違いしているのは、異邦人教師の思想、人の肉の目から考えた思想であり、聖書が出どころで、神の言葉、教えではない事だけを聞いているからです。
どうして、神が神の言葉、教えに敵対する生き方をせよ!と教えるのですか?聖書ではない、聖書に反するおかしな教えを信じて語っていると、はっきり気がつかないとならないのです。
「古い律法にもどるのか〜」「信じたらユダヤ的なこと一切やめよ!」クリスチャンはメシアがユダヤ人だと、聖書から知らないのでしょうか?イエシュアを信じることほど、ユダヤ的なことはないのです。律法?律法ではなく、同じ1つの神の教え、トラーしかないのです。律法などという翻訳は不適切です。
クリスチャンの間で言われるスローガンがそれです。
キリストを信じたら、古い教えに戻って生きてはダメだ!
古い教え?とは何ですか?聖書には、古い教え〜トラーしか書かれていないのに、そんな事実も把握していないのです。
では、メシアを信じたら一体何を生きると、神は教えていると、聖書には書いてあるのでしょうか?
聖書には、同じ神の言葉、教えしか記されていないのです。
時代ごとに変化する、神と、神の言葉という主張は、デイスペンセーション神学〜その大元は初代の西洋教父達のズレた肉の目で見た思想である事を知って下さい。聖書を本当には知らない人の思想を聞き続けている弊害、代償なのです。進化論を信じているのと同じ。
贖い、救いを人間の努力〜神の言葉を生きて手に入れること!
それが、律法主義の本質です。
贖い、救いは、神のされた業〜永遠の中に屠られている子羊の贖いの代価を、信仰により受け取る以外にない!と書いてあります。
それが、アヴラハムを通して、教えられていることなのです。
信仰義認は、ルターが初めて言ったのではない。最初から、エデンの園から同じ!神が教えているのです。この、人間では手に入れられないことを、人間の努力でやろうというのが、律法主義なのです。
しかも、クリスチャンが同じ間違いを言っているのです。
古代は、律法を生きてユダヤ人は義とされていたと言うでしょう?
そんなこと聖書には1つも書いてありません!聖書とは違う教えの
オンパレード=宗教の教えを、語っているのが、クリスチャンの世界のずれた聖書解説なのです。
救いの方法は、どの時代にも1つしかない!ということを、聖書からはっきり理解して下さい。イエシュアを通して以外、誰も父のもとに戻ることはできない!エデンの園、永遠の中から、同じ。
クリスチャンは、永遠の中、ヘブライ思想、神が語る思想とは違う
教えを信じています。全てをこの世の神が創造された時系列上で考えているから、神が伝えている真実が見えないのです。
全ては永遠の中に完結している!この事実から考えれば見えます。
全ての人〜神に選ばれたのは、永遠の中!この世が物理的に創造される以前!と、神が不思議なことを伝えている通りに考えて下さい。
同じ福音、同じ救いの方法なのです。どの時代も、どの人種も。
古代の人は、イエシュアを知らないと勘違いしているでしょう?
同じ福音が、聖書の最初から語られているのに、クリスチャンは、
その事実を聖書の記述から、読み取ってはいない、気が付いていないのです。ヘブライ聖書を学ばないからです。
アヴラハムがどうして、イエシュアを知っているのですか?
最初から、エデンの園からアダムとハヴァから、同じイエシュア=
救い、同じ福音が神の口から語られて教えられているからなのです。
それが、初めて文字となったのが、婚姻契約=モーセの五書なのです。
どの人もどの時代もどの人種も神の贖いの業により、信仰により受け取り義とされる。神は永遠から選び出された人の元に、神の方から
来てくださるからです。
それがクリスチャンが言う神に出会う体験〜新しく生まれ変わる
聖霊を内側に受ける、神のもとに繋がったスタートです。
それがなくて、いくら神の教えを生きても、自分の現実は同じままだと分かるでしょう。神との個人的な出会いがまず最初になくてはならない。モーセの五書に、それが書いてあるのです。アダムも、ノアも、アヴラハムもイサク、ヤコブも、ヨセフもみな同じように、
イエシュアと出会い、新しくされる体験をしているのです。
その事実が最初、始まり!それを、神の言葉を生きて、義、許されるという教えは聖書ではありません!
そして、贖われた人、神に聖別された人に対して、神の婚姻契約〜
トラー神の家の中を生きる詳細を、初めて与えられた、教えられたのです!この違いを、はっきり理解して下さい。
神が言われた通り子羊の血を信じて、それを実行し、贖われて、
出エジプトして後、シナイ山で婚姻契約〜トラーが与えられたでしょう。その事実を理解して下さい。贖われ救われ、聖なる民、神の花よめ、宝とされた後に、神の家に生きる家訓を教えらたのです。
贖われていない人に、神は婚姻契約を与えていません!
創造主の元に、イエシュアを通して戻った人は何を生きると、神は
教えていますか?
神の口から出た一つ一つの言葉により生きると、イエシュアが引用したのは、どこの箇所ですか?イエシュアが教えた教えは、100%
モーセの五書のみであり、神の意図通りモーセの五書=トラー、
父の教えを解説して、実際にその実態を生きてみせたのが、
イエシュアの地上での生き方なのです。クリスチャンの言うように、イエシュアが父の教えを破棄した?そんな罪を、救い主であるお方が教えるなどという空想の作り話の世界は終了にすれば良いのです。
申命記 8:3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを
福音書以降は、100%全て、モーセの五書に記された神の口から
出た1つ1つの言葉の短い、抜粋、要約なのです。
福音書以降には、神の教えの全ては書かれていません!なぜ?最初に全部書かれているから、重複して書いていない、モーセの五書に記された神の教えを知っている前提で、福音書以降は全て記されているから、重複していない。中学1年生の数学の教科書に、九九表が書いてないというのと同じだと思って下さい。
福音書以降は、最初の部分=神の教え=トラーを知っていることが
前提で書かれているからです。失われたイスラエルの羊の所だけに
遣わされた!とイエシュアが言われたのは、イスラエル=トラーを
受け取った人の元に来たからです。
トラーを知らない人には、約束の救い主など分からない、神の言葉を
理解しない人のところに行っても、それは時間の無駄。
イエシュアの地上での日々は限られていたからです。
イスラエルを通して、世界へ同じ福音〜神の教え=トラーが伝えられる、これが神の計画だからです。
人の思想=反ユダヤ、反モーセの五書=反神の教え思想を土台にしてしまっているから、聖書の教えとはずれて
いるのに、気がつけないのです。
続く