聖書ではない解説 誤解された聖書箇所を再検証 ガラテヤ3章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

律法主義とは、神の言葉を生きることではありません。

神の言葉を生きることに招かれたのは、イエシュアの血を通して、

贖われ、救われた人たちだけです。

神の花嫁とされた人達であることを、聖書から知って下さい。

婚姻契約〜神との関係にある生き方に、イエシュアを通して父の元に

戻った人全てが招かれているのです。だから、デイスペンセーション神学ように、イスラエルと異邦人を、2つ別の群れとして分けるのは、聖書の真理ではなく、人間の思いつきの思想なのです。

最後は1つ神に、1つ家族、元に戻る!エデンに戻る!

神がデザインした本来の状態に戻る、それが神の壮大な修復プラン

だからです。

神との関係がある証拠は、シナイ山で与えられた婚姻契約に基づいていることを、知って下さい。神の教えをどの箇所でも捨てる行為は、

神との関係に亀裂、隔たり溝を作る行為をしているのです。

花嫁が、花婿から与えられた婚姻契約を破棄して生きる!それが、

異邦人思想の教えです。そんな花嫁はひどいでしょう。夫の言う事

聞きません!好き勝手に生きる自由をあたえられました〜!それは

聖書ではない、人間が作った宗教の教えである事に、聖書から気がついて下さい。

聖書にはそんなことなど、1つも書いてありません!

 

ズレた思想、人間の作った宗教の教えは、神の教えや言葉を覆い隠す

妨害以外のなにものでもないのです。人が真実を知る事をさせない

あの蛇の騙しと全く同じです。

人が知らなくてはいけないものは、人の思想や人が作った宗教の教えではなく、純粋な神の言葉です。

クリスチャンの間で教えられているのは人間が作った宗教、思想の

教え、神学思想が教えられていて、純粋な神の言葉を原典に書いて

ある通りに教えられるものではないのです。神学校でも、ヘブライ聖書を学ぶのではなく、神学が教えられているのです。

だから、西洋宗教神学の教え、知識には長けているのに、聖書を知らないという事が起きているのです。

ショッキングですよね。本当のこと分かったら、世間で浸透している教えは、純粋な神の言葉ではない、人間の思想が混じっている不純物

混ぜ物の教えである。それは聖書ではないのです。

食品でも、製品でも、人に害のある欠陥品があれば回収するでしょう。でも宗教、信仰の教えの世界には、そのような点検がないのです。そんなシンプルな事実なのに、通じない、見えてない。

 

だから、聖書に戻り、聖書記者が何を書いているのか、本当の意味、

元の意味は何なのか、知らないとならないのです。

パウロは、クリスチャンの中で一番誤解されている人です。

パウロ=トラー=神の古い教えを破棄した教えをしている人だと教えられ、そう信じているでしょう?

もう嘘8千万の世界です。八百ではなく、完全なる嘘!

大体、聖書記者が、神の言葉を否定するなんてあり得ません!!!

神の言葉を否定する事を書く、それは聖書記者ではないと、どうして聖書の記述を根拠に分からないのでしょうか?偽預言者、偽教師は

聖書記者として、神から選ばれません!

そんな人を、神が選んで使徒や聖書を記述する人に、任命しません!

 

いい加減に嘘〜人の作った聖書を否定する教えから、完全に目覚めて、聖書だけに戻れば良いのです。

クリスチャン教師、牧師が誤解して解説している数々の聖書箇所。

神の教えが変化した証拠であると、取り上げられる箇所。

神の教えが変化したなどと書かれていると、解説されている箇所は

全部そんなことなど書かれていません!

 

その続きを書きます。

 

ガラテヤ3:11 そこで、トラーによっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。

なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。

 

ここ読み違えてはならない内容です。神の言葉に敵対する思想を持っている人は、これを読んで即座に勘違いしているのです。

ここで、パウロが伝えているのは、人は何かをしたから、義とされる

救われるのではない!ということです。

そうでしょう?人間には出来ない、それを人間の手柄で、それは神の言葉を生きる、又は何何の儀式をする、それら人が考えた方法を

実行しても救いを手に入れる事は、不可能です!と言っているだけです。

神の言葉を生きることが、悪い!なんて一言も言っていません。

救いを受けた、聖霊を内側に受けた人が、初めて神の実態=イエシュアの性質を聖霊により生きれる=それは神の言葉で教えられている

生き方を生きれる自由を与えられた!自由=罪に縛られず、本来の

性質=神のトラー、教えを生きられるのですと教えているのです。

トラー=神の教えを生きる、それは神に贖われた人全てが生きる

本来の生き方です。でも、救われていない人が、トラーを生きても

その事により、救いは受けられないですよ!と教えているのです。

義とされる人は、信仰によりその事実を受け取るだけです。

そして、新しくされた人の事実を、初めて生きる事ができるスタート地点に立てるのです。新しい人の実態とは、トラーに記された生き方を生きれるようにされた事なのです。

 

ガラテヤ3:12 トラーは信仰に基づくものではありません。それどころか、「トラーを行う人は、トラーによって生きるのです。」

 

一見すると、パウロはトラー=神の教え=モーセの五書を信仰と

相反するものとみなし、トラーに対して否定的な見方をしているように見える意味不明な文章に聞こえますよね。

しかし、そうではありません。なぜなら、パウロはアブラハムの例と申命記 27 、レビ記18:5の引用を通して、トラーは実際には、福音の

メッセージを説いていることを示しているからです。

パウロが引用する箇所は、100%モーセの五書!神の教えであり、

それを解説する預言書、諸書のみ。パウロが神の教え=トラーを否定する思想など、勝手に言いません!それでは偽教師、偽預言者、

反キリストになってしまうからです。

 

申命記27:10 それゆえ、あなたの神、主の声に聞き従い、わたしが、きょう、命じる戒めと定めとを行わなければならない」。

 

レビ記18:5 あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるで

あろう。わたしは主である。

 

むしろ、パウロの論点は、トラーに従うこと、生きる事は、義認を得る手段ではないということを言っているだけです。

パウロは、私たちが信仰によって義認されるということを、はっきり説明して確立したばかりでしょう。

しかし、トラーは信仰によるものではなく、神の言葉を生きる事は、義認の源、手段ではありませんと言っている事を、正しく読み取って下さい。

聖霊を受けていない人が、神の教えを生きたから、洗礼受けたら救われる、何かするから新生体験、神と個人的な出会いができるのではないと、クリスチャンも分かるでしょう?

その事を、パウロが言っているのです。

聖書の最初を学ばない場合には、パウロが何を指して、どこの箇所を

引用して、解説し言っているのか理解出来ないままになるのです。

 

ガラテヤ3:12 を、祝福の観点から理解することは、パウロがガラテヤ3章ですでに取り上げている、申命記に記された「祝福と呪い」の

文脈に完全に当てはまるものなのす。

上記のように、パウロはトラーの行いに頼る者〜自分の行いに頼り

自分を自分定義の義と認定する人は皆呪いの下にある (3:10) と

述べており、この呪いは申命記のトラーへの不従順の結果である呪いを直接指しています。

一方、神の教えに従うなら祝福されますと神が人に伝えているのです。神の教えは全て、贖われ救われた人に対してだけ語っている事を忘れないで下さい。

神の伝える人間の本来の本質、デザイン通りを生きる人は、神の与える本当の生き方、命を得ます!と言っているのです。

当たり前でしょう?

本来の性質〜神が伝える人間の生き方からずれて生きたら、傷つきます、破壊され、祝福を失い、壊れます。

 問題は、上で述べたように、私たち全員がある程度は、神の言う事を聞かない、従わない可能性があるため、呪い〜ズレ、本来の姿、本来の喜び溢れた神との関係、祝福からずれてしまうということです。

パウロが、神の教えを聞いて、その通りに生きるに者は、トラー=

聖霊=神の言葉によって生きると指摘していて、同時にその事に反対

する生き方をしてしまう事も、時としてあるのでしょう。

それがずれ〜罪〜的外れな生き方!神の言葉を知れば、罪が分かるのでズレたら、すぐに本当の生き方、考え方に戻ることをすれば良いのです。

神の戒めに聞かない、神がいう通りに生きない者は、当然のごとく

神の戒めによって呪われるのです。ズレる=罪に陥るからです!

罪〜犯罪と考えないでください。罪〜ズレとは、神の意図とは違うこと全てです!神が人に伝えた人間の性質、生き方からズレる=それが

罪です。ラア〜悪とは、神の意図通りではない、神の意図はズレているという意味です。

したがって、ここでも問題が提示されます。トーラーは、私たちが

神が言う通りの生き方に自分が生きる時に、当然のごとく祝福をもたらすことを目的としていますが、私たちが、神の言う事を聞かない、

無視していれば、その場合には呪いの下にあると教えているのです。

これ、よく考えた方が良いです。神の言葉=教えを否定する生き方

呪いの下に知らない間に置かれている状態になっている!そうです!ズレは破壊を、隔たりをもたらすものだからです。

 

イスラエル人は、神の教えを聞かない、生きない、そのような不従順の為に、亡命〜捕囚の民になるを経験をしてしまいましたが、

このメッセージは亡命、捕囚の民として国を追い出されたイスラエルだけに向けられたものではありません!

これは罪のために亡命している全人類の姿です。私たち全ての人は、神の言葉、教えを無視している霊的な亡命状態にあると言っています。

パウロはガラテヤの手紙全体を通して、罪がすべての人を神からどれほど引き離すかを説明しています。エペソ2章では、私たちは罪過と

罪の中に死んでおり(2:1)、不従順の子であり(2:2)、

生まれながらの怒りの子であり(2:3)、キリストから離れ、

イスラエルの国から疎外され、約束の契約〜トラーについては他人

無知であり、この世にあって希望もなく神もない者でした。

(2:12)。

コロサイの手紙では、私たちは疎外され、心の中で敵対し、悪行を

行っていました。(1:21)とあります。

私たちは皆、トラーの究極の呪いの下にいます。つまり、神との関係から切り離され、罪のため、神に聞いてその通りに生きない、従わないために、約束の契約から切り離され、亡命しているのです。

そして最終的には、黙示録 20 章に記されている第二の死、

つまり永遠の分離、別離、追放に至ります。

しかし、希望はあります。

キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちをトラーに記された罪〜その罪の奴隷状態、呪いから救い出してくださいました。

この箇所も、クリスチャンは、神の律法の呪いから解放されただの

とんでもないズレた聖書解説をしている箇所です!

違います。神のトラーに記された呪いの状態=罪の奴隷状態から

解放したとパウロは言っているのです。神の言葉、教えは私たちを守る防御服!保護ガード、安全な防空壕、囲いです。

神の言葉が呪いの律法などと考えている場合、どれほどその思考回路が神の意図からずれているのか、気が付かないと危ないです。

聖書に「木にかけられた者はみな呪われている」と書いてあるからです。それは、キリスト・イエスにあって、アブラハムの祝福が異邦人に及ぶためであり、私たちが約束の御霊を信仰によって受けるためです。(13-14)

人類の問題は、一言で言えば、私たち全員が呪い〜罪の奴隷の下に

あることです。贖われていない人は神の祝福を受けていません。

そして、この問題から抜け出す為に、人間自身の行いで出来ることは何もありません。人がキリストの中にいると認められない限り、

この状況は変わりません。なぜなら、神はキリストに於いて

罪の奴隷の呪いを取り除き、祝福を与えてくださったからです。

パウロが再びトラーを使って自分の神学を裏付けていることに注目してください。ガラテヤ 2:19 を思い出してください。

 

2:19 わたしは、神に生きるために、トラーによってトラーに死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。

2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

 

これは、トラーが示す罪に対して、死んだ!自分の行いで罪の状態から自分を贖い出せない事に気がつき、パウロはキリストに導かれた!それを言っているのです。

これを、パウロがトラーが無効になったと言っているなどと、完全なる間違った解説は削除して下さい。

だから、神に対して生きるようなったとあるのです。

パウロはここで、申命記 21:23 を引用しています。そこには、

「その死体を夜通し木の上に残しておいてはならない。その日のうちに葬らなければならない。なぜなら、吊るされた者は神に呪われているからである」とあります。イエスは私たちの罪のために神に呪われました。木の上での死に対するイエスの従順を通して、私たちは今、究極の祝福を受けています。パウロは、それが聖霊の賜物であり、

永遠の命につながると説明しています。自分の行い、神の教えを

生きる行動では手に入れられない、救いの事実を、信仰により得た!

私たちはメシアの働きを通して信じられないほどの祝福と命を受けています。この祝福を受けるという事は、神の伝える教え、命令を

聞かない、生きない、勝手に歩んでも良いということを神が人に教えているのでしょうか?トラーに記された罪の呪いから解放された今、そもそも私たちを呪いの下に置いた罪を犯し続けることも自由なのでしょうか?そんなわけありません!呪いから救われた私たちが、

どうして不従順な罪の道を歩み続けることができるでしょうか?

(ローマ6:1参照)。

クリスチャンの教えは、神の言葉は自由に無視〜終了、不要、破棄されたからと、聖書とは真逆の人の思想を教えられ聞かされています。

でも、神が教えている罪とは、神の意図からのズレです。神はズレ=罪の全てをモーセの五書に記しています。同性愛も、汚れた動物を

食する事も、シャバットを破る事も、割礼の意味も知らない事、

その他諸々全て神が創造された人間はどのように生きるのか、教えているのに、その神の教えを知らないまま、クリスチャンは罪の定義を知りません。だから、神の前に罪を生きても、自分が神の前にずれているとも、全く気がついていないのです。それは、損失、祝福を失う神のデザインとはズレた別物を生きてしまう、健康を害し、神との

関係に隔たり、距離を作るのに、気がついていないのです。

そして、人との関係にも距離を作るのです。

罪の正体は、神の伝える事を聞かない事、神の言った事を無視する事、人間の意見で神の言葉を仕分けること、そして、神の言葉、教えではない事を、神の教えだと信じ込む事、これらが罪です。

そして、神の言葉を知らない、聞かない場合には、何が罪なのかも

分からないまま自分勝手な定義の罪を考えて、自分勝手な聖別を生きるのです。

 

 

続く