神の語る永遠の真実は人の創作した教えの中ではなく聖書の中に記されている シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創造主である王の王、主の主が造られた、週に一度のモエッドであるシャバットを迎え、シャバットの主であるお方を歓迎し、祝福致します。

イスラエルの中にある伝統の祈りは、主を祝福します。

詩篇は、イスラエル〜イエシュアの時代も現在も同様、「イスラエルの讃美歌集」であり、読めば分かりますが、その中には、神のシャバット、新月、都上りの祭りの時に、詩篇に記された主への賛美と喜び

感謝の歌であり、主を祝福しているのです。

 

特別な日〜聖別された日を指して語り、賛美し、祝福しているのです。それは全て神のモアデイム〜イスラエルの神が創造された

記念日なのです。

聖書に主の日と書かれたら、それはレビ記23章にある、神のモアデイムであり、同時に神が不思議な業をされる日を、聖書では主の日

言っているのです。主の日=日曜日などと、聖書に無い定義を、神が言っても無いことを、人が主張してはならないのです。日曜日を指して、主の日と聖書では定義していません。神のモアデイムが、その年、日曜日になる日が来れば、それは神のモアデイム〜聖日〜主の日になります。

この違いが分かりますか?例えば、聖書の暦の第1月の1日新月が

日曜日になる時もある。春の過越の祭り、第一の月の15日が、ある年には、日曜日になる時もある。でも、シャバット=第7日目以外の

モアデイムの曜日は毎年違うのです。

しかも、クリスチャンは神の記念日を一切祝わないでしょう。

日曜日は、古代から太陽神の礼拝日であり、ローマ皇帝の崇拝日だから、西洋宗教の記念日は、日曜礼拝、イースターは、だから、いつも日曜日に固定されているのです。

そして、神が特別な業をされたのは、神のモアデイムとぴったり重なる歴史の事実もあるのです。

過越の祭りの日のイエシュアの処刑、種無しパン=初穂の記念日に

イエシュアは復活された、シャヴオートに婚姻契約を受け取った。

秋の祭りも全て、未来に起きるイエシュアの再臨の一連に関する時を表す、預言的祭りなのです。

「この日は主が造られた〜」とは、過越の祭りの日の喜び祝っている歌であり、詩篇113−118は、ハレルと呼ばれ、レビ記に記された

神が創造され、神の子らを呼び出しているアポイントメントの日、

それこそが聖日〜聖別された神のモアデイム、その日に歌う歌です。

 

都上りの歌120−134章も、過ぎ越しの祭りの時に読まれる箇所です。過ぎ越しの晩餐、イエシュアもされていた当時は、パリサイ派の

仕来たりで、イエシュアが行われていた、その儀式の中でも、この

箇所が読まれたのです。

イエシュアがされた過越の晩餐の中の、種無しパンと4つの杯の儀式も、当時の人達と、今も同じですが、やっていた儀式なのです。

セダーという、過越の祭りの晩餐、夜を徹して祝う記念の祝宴の中で

やるものなのです。

クリスチャンは、過越を祝う事を、ローマ帝国とカトリック教に

禁じられて以降、神の祭りを祝う事を一切やめました。

その代わりに、イエシュアもしていた過越の晩餐の儀式の1つを、

西洋人が、カトリック風に変えて、その儀式を「聖餐式」などと言う別の名では呼ぶようになったのです。

イエシュアがされたオリジナルの儀式は、過越の祭りを祝う中で

行うものであり、しかも種無しパンの意味を消す、種ありパンで

毎月やるものでもないのです。

日本人のお正月で、お屠蘇を飲む儀式と同じ、特別な記念日の時に

やるものなのです。

神が命じている代々永遠に祝う、過越の祭りはクリスチャンは祝わない事実、これをよく考えたら、神の記念日を神が伝えた通りに

クリスチャンはなぜ祝わない、ある1部の神の教えの要素だけを取り出してやる祝い方が、欠けていると分かると思います。

クリスチャンはイエシュアを信じているのに、神=イエシュア=聖霊が教える通りに、行動、生きていないことに、どうしてだろうと、

なぜ不思議に疑問にも思わないの?ということを考えたら良いのです。

そして「この日は主が造られた」とは、もちろん全ての「時」は、

主が造られましたが、主は、創造された時のその中で、主ご自身が、神の子ら全員を呼び出している相見える為の、特別な会見の日を、

特別に聖別〜会見目的の為に取り分けられているのです。

毎日主は内側に居られる。主の中にいる。でも、特別な日の特別な

会見には意味がある。いつもと違う!その日に主は約束通り、神の

言葉をガードする人に対して、報いて、祝福し、特別な出会いをして

下さると約束しているのです。それを失い、別物〜人間の作り物を

やるのは、損失です。

神のモアデイムに関して、特別な時を指す場合、原典言語では、

必ず定冠詞が付けてあります。ヘブライ語では、ハ、英語ではthe,

ギリシャ語では、τῷ トウ 単なる冠詞の 英語のa day〜日は、

ヘメラン。

言語だけ見ても、日本語訳では、分からないままになりますが、

ただの冠詞が付いた日、または複数で、定冠詞が付かない日は、

レビ記23章以外の、神が聖別されていない「普通」の日であることは、明らかに言語に基づき証明されているのです。

このような下知識があれば、読み違いは避けられる、プラス、神の

言葉が昇天以降、無効、破棄、削除、変更になったという、神が禁じている神の言葉に手を加える行為を人間がやり、その結果生まれた

人造宗教の思想、神学で神の言葉=聖書を曲げて解説している事実を、知っていれば、世間一般にクリスチャンの世界で解説されている、神の言葉が終了した証拠であるとされる箇所の解説は、全部人の空想、思想、パウロやイエシュアが語ったこととは、異なる真逆に

ズレた思想を解説していると、突き止められます。

 

翻訳聖書を読んで、聖書に書かれている基本的な理解、知識がない

場合、この日は〜と書かれていても、それがいつの日を意味して書かれているのか、漠然と意味不明のまま、書いてある意味、内容通り

正しく理解出来ないのは、当然の事です。

自分の世界の、西洋宗教の思想で、聖書を読めば、尚更、それは自分勝手な解釈を施し続けて行くばかりなのです。

 

創造の最初に記されています。天の万象は、「季節を司るために造られた」季節とは、モアデイムという言葉であり、神の特別な聖別された日を司る為に、天に光として置かれたイルミネーションなのです。

だから、そして、神の祭りは全て、「新月」「満月」聖書の暦の

月の第一日目は、新月で始まり、その新月を祝う。

一週間は、7日であり、どんな人種、宗教の人のどの時代の人でも、

創造主が造られた創造の事実、この「神の時」の中に生きる事実、

実態、デザインから、抜け出せる人は一人もいません。

人生のサイクル、生まれて、成長し、子供を産み、そして亡くなる

そして、次の世代が同じように、命を繋ぎ、産み、年老いて亡くなるこれがずっと歴史で継承されているでしょう。

神の創造された命のサイクルは、この「時」を巡り、デザインされているのです。

創造主を知らない場合には、創造主の暦も知りません。

イエシュアを知っていても、神の教えを捨てる人には、神の暦は理解出来ません。

7日、そして新月、春の過ぎ越しの祭りから始まる、一連のモアデイム

そして、秋のヨムテルア〜7の月の1日、新月〜角笛を吹く日から

始まる、大贖罪日、仮庵、第8日目の祝い。

これらの「神の定めの時=モアデイム」は、生まれてから、そして

イエシュアに出会い、そして、人生の旅路を天の聖別された人として生きる、命のサイクル旅路の中で、イエシュアを通して、神の教えを生きて、新しい人を再所有し続ける、命のサイクルの時〜レッスンとして、神が与えているものなのです。

神のモアデイムが分かれば、聖書に書かれている全てと、繋げて見る

事ができます。モアデイム〜人の人生〜荒野の中で約束の地を目指す、出エジプトで表された一連のこと、それが全てのイエシュアを信じる人の人生と重なる事実が書かれています。

エデンを出た、内側の外側に閉じ込められた、イエシュアが来てくださり、購い出され、新しい命をもらい、そして地上で、新しい人として、天に属しながら、地上に生きて、やがて約束の地〜神と顔と顔を

合わせて生きる場所を目指して生きる。

出エジプト=奴隷=偽の神の教えを生きる。

子羊の血で、贖われ、水を通り、荒野〜神の目から見る、新しい訓練の場所、神だけが語る、神だけが全てを備える、新しい人を生きる、

学習訓練、成長の旅。それは、荒野=ミッドバ〜ドバア〜言葉、神の言葉=トラーだけを聞き、それを生きることをする、学習の旅路。

荒野には、命が眠っているのです。砂漠とは違う。神の言葉〜生ける水を与えられたら、そこから命の芽が出る。絵画的教えです。

聖書には、イスラエルの辿った人生の旅路が、同じことが並行して

繰り返し書かれています。

 

神の言葉を捨てることは、神の与えた神の深い考え、知恵を捨てることなのです。永遠をかけて神を知る、その手がかりは、神の言葉でしょう。クリスチャンは影〜消えると誤解していますが、影とは、目に見えない実態を表すものなのです。

だから、イエシュアが言われたでしょう。「私を見たものは、父を

見た」それは、イエシュアが地上で、父の実態を表す「影」の役割だったからです。聖書に書いてある意味を、異教徒的、異邦人的、

西洋宗教的に考えているから、神が何を言っているのか、見えないまま誤解し続けて行くのです。

神の言葉〜聖霊〜神ご自身であり、イエシュアであると、書いてあるでしょう。神の言葉=目に見えない神の実態を表す影です。

ヨハネの福音書の冒頭にも、言葉が肉体を取ってこられたという意味は、それです。トラー=イエシュアと、ユダヤ人なら理解できるのに、異邦人には理解できないのは、神の教えをしらない、ヘブライ

聖書に書かれている内容を、ユダヤ人のように代々教えられ、実践し、生きる教育がないからです。それは、異邦人が頭が悪いとか

そんなことではない。正しく神の言葉を教えられた下地がないだけ。

聖霊=イエシュア=神は、神のトラー=言葉に反することなど、1つも言わない!という、神が伝える永遠の真実にまず立って下さい。

異邦人も神の言葉、教えを神が伝える通りに、教えられたなら

同じように理解できるのです。でも、異邦人は年数浅い。

賢人たちは、先祖代々、頭脳に肉に、思想、行動に染みついているのです。

異邦人が幼い頃から慣れ親しんでいるのは、西洋宗教の思想の聖書解説なのです。西洋宗教という、人間が作った、神の教えに人の教え、思想を混ぜた宗教の教えは聞いているけれど、それは純粋な神の言葉、教えではないものがたくさん混ぜられている宗教の教えなのです。

宗教の教え、宗教が作った記念日の実践は知っていても、イエシュアが生きて教えた、1世紀の弟子たちやイエシュア信者やユダヤ人が

知って生きていた神の教えや、記念日の実践ではありません。

それらが何かも、知らないのです。

だから、聖書に記されたシャバット、新月や、過越、仮庵を祝うのではなく、聖書に書いてもない、日曜礼拝、クリスマス、イースターを

祝っている。1世紀の人の生き方、思考回路、記念日の実践とは

似ても似つかない、聖書に登場した人が誰も知らない、神の言葉が

記念日が終了したことにされた教え、1世紀の人とは似ても似つかない、宗教の教えの実践をしているのです。

 

このブログは誰か個人に対しての批判ではなく、聖書に何が書いてあり、何が書いてないのか、シンプルな事実だけを追求して、知ろうと

いうことが、目的です。

なぜなら、クリスチャンの世界で語られていることが、聖書ではない

人間の教え、人が作った宗教の教えが盛りだくさんに教えられて、

神の教えや神が代々祝うと教えた記念日の方を、完全に退けた

宗教の伝統を生きていることに、教師、牧師が気がついていないまま

やっているからです。

聖書の事実に気がついた人たちは、皆本物に戻っているのです。

教師、牧師〜西洋宗教の教えを生業としている人には、損得勘定が働き、そのようなことを言い出したら、仕事干されるよ!と警告される人もいるそうですが、何を大事にするのか、永遠の価値を選ぶという

選択がない場合、チャレンジですよね。

 

生業に関係ない人の方が、簡単に、聖書の真実に戻る起動修正ができます。進化論を展示する博物館に勤める人は、それが嘘だと知っていても、それが嘘と言えないのです。

 

 

続く