聖書に記された真実、聖書に記されてもいないことを信じていたことに気がついた場合、必ず認知的不協和が、自分の中に起きます。
周りが皆嘘を信じ込まされている。ショック状態になります。
暗い部屋に灯りがついたら、そこはゴミだらけ、ゴキブリも、ネズミもいる!きれいだと思っていた部屋が実は、ゴミ屋敷。自分の居る
べき場所ではないことを、灯りが付いたら分かるのです。
進化論や偽科学に置き換えると分かると思いますが、真実ではない事を、大衆が騙されて本当だと思っている偽科学、その他の偽情報に関しても、それらが嘘と知った人はその嘘、偽情報に賛同するふりを
するのは、耐え難いでしょう。
人間は猿から進化したと、そんな嘘クリスチャンは、平気で言えますか?嘘じゃないか!と、はっきり分かることに、同意するふりなどもできなくなってしまうからです。
真実を知ったら、2度とその嘘には戻れない!
聖書に書いてある事が、真実であり、人の作った聖書を否定する教えは嘘!と分かる場合にも、同じ事が起きるのです。
でも、大衆が、真実であると本気で信じている嘘に対して、少数派である人が、それは聖書とは違う!と言うのは、勇気が要りますし、
時と語る相手を間違えれば、誤解して受け取られたり、誹謗中傷言われたり、仲間から追放される可能性があります。
神に敵対する教えをしている、その教えを指摘しても、そう主張する人が、異端、神の教えに反する教えをしている、律法主義者であり
古い教えに戻る恵を捨てる生き方を人に教えていると、聖書に反するトンデモない間違いなのに、そう言われます。
嘘であっても、大衆に受け入れられている偽の教えは、真実だと思い込まれているので、皆が称賛,賛同するのです。
最近、LGBTQを称賛する人々が、日本でも賛同発表しているのを
見ました。神が伝えている罪を生きるように人に促し、神の教えに
対して真っ向から反する、神を知らない人でも分かる、人として汚れた破壊的おぞましい生き方。神の創造のデザインを覆す汚れた冒涜的
生き方、産めよ、増えよ、地を満たせの神のデザイン、仰せを、
真っ向から、反逆する生き方であり、人を腐敗、破壊の道〜ソドムと
ゴモラへまっしぐらに誘う生き方であることです。
今や日本人の牧師や教師までもが、神が伝える罪を推奨する。それが愛の解釈だと、神が伝える契約の愛の生き方を丸で理解しない人が、そんな罪を生きる事を愛と勘違いして、教えているのです。
全てのズレの始まりは、神の言葉をどの箇所をも曲げることである事が、聖書を教える、人を正しい教えに導く役割をしなくてはならない
牧師や教師が、聖書を正しく理解していない、知らない、危険な状態なのです。
中には、当然そんな罪は、神の教えに反する!と、腹に書かれたトラーに従って理解している人も、もちろんいるのですが、聖書とは違うことなのに、その罪に反対する人が牧師だとしたら、同性愛擁護の
牧師仲間から、完全追放されるそうです。イエシュアを信じながら、同時に聖書を教える人が、神に敵対する罪の行動に賛同し、神の教えに反する、嘘、罪を生きる事を教えている。
世も末、ノアの時代なのです。全ては、神の言葉を曲げる事から
起きている事に、気がついて下さい。
そんな偽教師に、偽の聖書解説を聞いた人たちはどうなってしまうか?偽の教えにいざなわれ、嘘を信じこまされて、聖書の記述が読み取れない盲目に陥り続け、何が真理か見分けがつかない状態になるのです。破壊の道へまっしぐらです。周りへも、汚染を浸透させる。
パウロが偽教師に関する警告、それはモーセの五書にはっきり記されています。
異教神の習わしに従う人たちに習って、混ぜ物の教えをするなかれ!
です。
ズレた生き方の始まりは、エデンの園の蛇の嘘に騙されたことからでしたが、イエシュア昇天以降、今のような西洋宗教ができたのは、
1世紀後半のローマ帝国の迫害、70ADの神殿崩壊、そして、
カトリックの前身〜プロテスタントの元である、その宗教の教えを
作った人たちが、ローマ帝国と同調、反モーセの五書、反ユダヤ思想で、神の言葉を生きることを禁じたからです。それなのに、神が神の言葉を終了したのは、怒りの神が恵の神に変身したから、イエシュアが処刑されて、やっと怒りが収まったからと、これこそ、人間創作の作り話の思想を、放出し、浸透させ、神の言葉、神の性質の進化論説
〜西洋宗教が出来上がったのです。
いつ神が、神の記念日、シャバット、新月、春と秋の祭りは廃れた
又今は、いつでも人間が決めた日に、それぞれの創作した礼拝日を
自由に、それぞれが祝って良いよ〜などと神が言いましたか?
パウロの言葉を完全に勘違いする思想の解説、人の教えを信じているから聖書を正しく読み取れないのです。
神は人が神の教えや記念日に絶対に手を加えて、変形させてはならない、命に匹敵するほど、その行為がズレていることを、警告しているのに、神の言葉を捨てる人にはまるで通じないままになっているのです。
それより、一番やりたくないのは、神の教えや記念日を捨てて、
神ではない人間が作った教えや、人間が創作した記念日〜しかもその裏にあるのは、太陽神や多産の神の祭りや、異教神、おぞましい
シンボルや意味が混ぜらたものを、キリスト的に変えた記念日を祝うことは、神に創造された人の生きる、することではない!神に創造された人は、神の呼び出した日に、神が伝える通りのことを生きて、
神と特別な会見に招かれている!そのことの方を尊重したいし、
するのが当然であり、人間がつくた、コピー偽物なんかやりたくないという単純な理由なのです。
しかも、イエシュアを正しくリプレゼントしていない!正しく表し、代表し、伝えていない!影の役割は、目に見えない本体=イエシュアの実態通りを地上で生きて、神の性質、真実を人の間で生きて反映させる事でしょう。本体を映し出さない、偽物の影を表す事は、禁じられています。
嘘だと分かれば、嘘とは決別せざるを得ないのです。嘘だと分からないまま、それが聖書だと教えられてしまっているから、聖書に書いてあっても、何が本当で何が嘘かまことなのか見抜けないだけなのです。
聖書のどこに、日曜礼拝、クリスマス、イースターを祝え!
又は、祝っていた人々の記録がありますか?無いでしょう。無い!
ではどこから来たのそれ?と、調べれば、分かります。
神からではなく、人間が作ったのです。
イスラエルの国以外に住めば、時々は、土曜日も仕事に出なくてはならない、祭りの初日、最後の日などは、休みにならないことの方が
多いです。
でも、その異教の地に住む人々の事情は主はご存じであり、イスラエルも、異教徒の地に捕囚で追いやられた時でも、その中で神のモアデイムをガードすることを教えていたことを、忘れてはなりません。
イスラエルも、私たち異邦人のように、異教神の国での制限を受けて
長い間、暮らした経験をしているのです。
でも一般的に職業により、異なり違いますが、今は土日休みの人の方が多いでしょう。又はオンラインで常に在宅している人もいます。
神は人を縛り付けるために、神の子らを呼び出していると思いますか?
では人間が創作した記念日をどうしてそんなに死守して祝っているのでしょう?どうして神の教え、記念日を生きる事が、律法主義で、
人間が作った宗教の教えや、記念日を生きる事は、律法主義にはならないのですか?理屈に合わない事を言っているのです。
古い教えの記念日〜律法主義だと私は信じ込まされていましたし、
第一、神の記念日など、頭上を通り過ぎ、それらが何かも、はっきり
言って、こんな長い信仰生活なのに、まるで知らない無知でした。
変ですよね。子供が自分の親の誕生日や名前を知らない事に匹敵するほどの無知でした。親が大事にしているもの、親が伝えている教えを
まるで理解しない、勝手な生きかたをずっとしていました。
その代わり、神ではない人間が作った教えや記念日に邁進していた。
自分の中に聖書に書かれたことに基づいて、正しい疑問を持つことは
良いことです。
なぜなら、正しい疑問、質問は、答えに導く道を開くからです。
私の聖書の記述に対する、最初の疑問は、どうして今安息日は日曜日に変更された?というものでした。
それは信仰の最初の時、ずいぶん前のことでありますが、その疑問は、実は本当に的を得ていたと今は知っています。
結局こういうことです。私達異邦人は聖書に書いてあること、聖書に登場する人々が生きてた、イエシュアが教えた父の教えや、記念日、モアデイムを、聖書に書いてある事を、正しく教えられてもいないし、だから知らない。イエシュアが教えて、大事にし祝った記念日も知らないし、祝った事もない。聖餐式をやっても、イエシュアが祝った過越の祭りの晩餐の意味も知らない。
神の言葉を、人の思想で塗り替えられた思想を通して、聖書ではない宗教の教えが編み出した文化の慣わしや教えを、教えられてしまい、大事な神の言葉=教えを覆われて神の言葉を学び考え生きる、神の言葉に意識を向けることから、はぐらかされ、神の言葉を生きる事は
律法主義などという反キリストの教え、声に妨害されていることです。
そして、聖書の最初に書かれた事と、福音書以降には別の教えが
記されているという、完全なる空想を信じさせられている事。
それは、聖書の最初の部分を正しく学ばないから、福音書以降には
100%モーセの五書しか解説されていない事実が見えないだけです。聖書の最初を知る人ならば、福音書以降を初めて読んでも、
そこに書かれている内容は、ユダ族のメシア、イエシュアの言葉が
モーセの五書に何も反する事など無い事は、簡単に読み取れます。
パウロは、使徒21章に書いてあるように、公に大衆に対して、
100%モーセの五書に忠実に信じて生きて、人に教えていると、
宣言した事実を、クリスチャンは知らないまま、パウロがモーセの
五書とは違う教え、モーセの五書を否定した教えをしていると言う、空想を信じて、人にそう教えています。嘘はやめよう!聖書に書いてある、永遠の真実を、人間が否定しても、それは永遠に消えません。
そして、不適切な翻訳と、曲がった間違ったパウロの書簡やイエシュアの言葉の解説のオンパレード!それらの偽情報のせいで、神の言葉が変化した証拠だなどと、反モーセの五書思想、神に敵対するものの声が、大きく異邦人の世界に浸透してしまったのです。
しかも、神学校で、人の思想=不具合だらけの非聖書的デイスペンセーション神学が20世紀に爆発的に受け入れられ、浸透し、人の思想で語る聖書解説が、アメリカから、世界へ発信されてしまったのです。でもそれは、純粋な神の言葉、教えではないのです。
そして、終わりの時代に、その偽情報に気が付く、多くのクリスチャンたちが今いるのです。そして同時に1世紀以上に、ユダヤ人が
タナックに記されたメシアを発見している!
皆、人の教えの嘘から目覚めて、真実に戻る、軌道修正、イエシュアを迎える時の準備が着々と神により行われているからです。
オセロのように、最後は全部正しいものにひっくり返る、どんでん返しがおきます。
全部がリセット、神の創造のデザイン通りに戻るからです。
嘘でも良い?伝統で語り継がれた人の教えに固執して、神の言葉を
捨てることほど、損失はないのです。
人の教えは、聖書=神の教えでは無いと言う、基本に気がついて
聖書に書いてないことを、どうして信じてやっているのか疑問に思うだけで良いのです。それが正しい真実に導かれるスタート地点、永遠の真理の扉が開かれるきっかけだからです。
真理=エメット、信仰=エムナ、真実=アーメンは同じ語源です。
神=聖霊=真理=言葉は、互いに敵対し合い、相反する事など
言いません!神は人に罪を犯すように促しません!
罪=ズレ=神のデザインと違う事の全てです。
人は、神が伝える性質通りを生きる。それがモーセの五書に書かれています。神に創造された人は、汚れたものを食べない、神は人に
けがれた動物を今は食べて良いなどと言う、病原菌を撒くような
罪の行為を教えていません。
神は神のシャバットを汚す罪を人にするように、教えていません!
神は神が創造された人の生き方そのものの性質全てを教えているのです。それを無視するように教えるのが、人間の創作した宗教の教えであり、聖書を使いながら、同時に神の教えに反する事をして良いと
神が教えていると、人間が人に嘘を教える、それがクリスチャンの
世界に浸透した教えであり、神の教えなどではありません!
神は神の言葉に敵対する、反する、訂正する、削除する
そんな事はしません!もしするならば、それは聖書に記された
イスラエルの神ではなく、聖霊ではない、悪霊であると覚えておくと守られます。
神が2つの別の種を同じ畑に蒔いてはダメ!と教えられました。
二つ別の動物の毛で編んだ着物を着てはだめ。
これらは、物理的にも、アンバランスを起こし、別の動物の毛で編んだ衣服は、温度のバランスが崩れるそうです。
同じ畑〜頭脳に、嘘と神の真実両方蒔いてはダメ!霊的理解ができますか?
宗教の教えは、これをやっているのです。神の言葉の真実と、神の
言葉ではない、人間の思想哲学、考えを、同時に教えて、人の頭脳に別物の種を蒔いている、その間違いをしているのです。
あなたは何を信じて生きていますか?
神の純粋な言葉、教え?それとも、宗教の教えの先祖の伝統の言い伝えですか?
聖書に戻ろう!戻れば、聖霊=神=言葉に記された永遠の真実を
聖霊=神=イエシュアが教えて下さいます。
Shabbat Shalom