ハヌカとクリスマス | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロの書簡、クリスチャンの間で一般的に、神の言葉が終了したという根拠にされてしまっている箇所は、100%全て、そのような

神の言葉が変化したことなど、実は聖書には一切記されてなどいないのです。聖書を、人の思想の土台=神の言葉は昇天以降変更、削除、無効になったという人間の思想を土台にしているので、聖書に書かれている意味通りに読み取れないまま、宗教の教えを通して、読み違えていることが、間違った聖書解説の本当の原因です。

 

神の言葉は、神が伝える通りに永遠に固く立ち、変化などしません。

神の言葉が変化したと主張しているのは、神は嘘つきだと、遠回しに言っているのと同じです。

永遠に変わらないと神が言いながら、歴史の途中で、神の性質も神の言葉も変わったと、異邦人は、そう言い続けているでしょう。

主張している内容が、聖書に照らし合わせて矛盾であるとも認識できないまま、二枚舌の解説が嘘であると気がつけないのは、頭脳が

別の思想=人の教えで占拠されてしまい、その箱の中だけしか、神の言葉の方を曲げる見方しか、できなくなってしまっているからです。

 

神の言葉を誤解した聖書解説は、1世紀後半からずっと続いていた

ローマ帝国の反モーセの五書=神の教えを実践生きること、レビ記

23章の神が創造された記念日を祝うことを、処刑、重税をもって

禁じた勅令に、西洋教父達もこぞって賛同し、同じ勅令をカトリックが信徒達に強要したことが本当の原因です。

神の言葉は終了、廃れた、無用、無効という思想が、異邦人の間で

根付いた始まりなのです。

神殿崩壊前後、70AD前後に、黙示録が書かれています。

ヨハネが警告した、異邦人が神の言葉=教えから離れたことが、

はっきり隠語として、警告されているのが、黙示録2:4です。

はじめの愛=トラー=シナイ山で与えられた婚姻契約の教えを忘れた、捨てた、離れた、それがその警告の意味です。

そして、その通りのことが起きた、起き続けているのです。異邦人は、神の本物の教えオリジナルの教え、トラーから離れて、同時に

ユダヤ人の群れと、ヘブライ聖書を知るパウロのような教師全てと、決別し、オリジナルヘブライ語ではない、外国語翻訳聖書、人の思想

宗教神学で作られた西洋宗教の教え、信仰の実践に離れて行ってしまい、今に至るのです。

神は神の言葉を、神が言われる通りに変更していませんし、永遠に

変更しません!もし、変化したならば、神は聖書に書かれている神ではなくなります。

その非聖書的哲学思想が、現代に至るまで継続され、20世紀には、イギリス人、ダービー思想〜デイスペンセーション神学がアメリカのクリスチャン達の間で爆発的に受け入れられ、その思想が聖書の神の言葉の横に、註解として1節ずつ人の思想による書き込みをされてしまい、それが聖書として印刷され出版され、その思想が、クリスチャンの中にどっぷり浸透することに大成功を収めたのです。

そのような、聖書は聖書と名づけて出版されてはならないものだったのです。

人体に悪影響、発がん性のある食品添加物や人口甘味料、アスパルテームも、世に出回ってはならないものなのに、認可され、堂々と売られているのと、全く同じことです。

20世紀、アメリカの神学校で、その思想を通して聖書を語ることが爆発的に浸透し、未来聖書を教える人達に対して、その非聖書的思想が、聖書であると教えてしまい、それを、その思想を通した聖書解説を学んだ人たちが、一般の人に教えてしまう。私含めて、その教えが聖書であると、教えられてきて、疑いもなくそう信じ込んで来たのです。

聖書は、福音書〜黙示録は、100%、モーセの五書、預言書、諸書

のみだけを、指して解説しています。聖書に聖書と書いてあったら

それは、モーセの五書を指していて、モーセの五書を解説する、

預言書、諸書のみだけを指して聖書であると、記しているのです。

聖書に登場する人で、新約聖書とクリスチャンが名付けた聖書の最後の25%は、1世紀当時誰も知らない、考えていない、存在さえしていませんでした。個人個人の聖書記者が、後で福音書を書き記し、

パウロが特定の群れに対して、手紙を書いていただけで、一般の人は読んでもいない、聞いてもいない、それらが聖書とも記者自体も、

そう考えていませんでした。

聖書は、クリスチャンの世界で解説されるように、古い教え〜レベルの低い教え、律法で、福音書以降に書かれた教えは、新しく霊的レベルがアップした新しい神の啓示、新しい契約、そんなことは、聖書には書かれていません!

最初から最後まで、完全なる神の同じ言葉=教えしか、聖書には

書かれていないという事実に、完全に目隠しされているのは、異邦人が編み出した思想のせいであり、神の言葉を破棄された、終了、

無用!などと言い続けて、その嘘を信じこまされて来たせいです。

神は完全なる神の言葉を途中で変化などさせていませんし、終了も

させていません。全部の箇所は今も永遠に有効です。

ガラテヤに書かれている内容を誤解しているのは、イエシュアが来られたら、トラー=神の教えが無効になるという勘違いです。

未来には、何が変わるのか?エレミヤ31章に書かれているように、イエシュアが言われた新しく再更新される同じシナイ山の婚姻契約は、未来、イエシュアが、エルサレムから世界を統治する新しい時代

世界が来たら、全員が、頭脳に割礼をされ、互いに神を知ろう

トラーに何が書かれているということを確認しなくても、皆が割礼された頭脳に腹にDNAに神の教えが刻まれて、全ての人の生き様が

神のトラー=教え=モーセの五書に記されたイエシュアの生き方を

する人だけが存在する世界になる!ということが、書かれているのです。確認しなくても、その人の生き様自体が、イエシュアの生き様

トラー=モーセの五書に記された人間の生き方が身についているから

その違いを認識してください。神の言葉ではなく、神の言葉を聞く、受け取り、生きる、人間の意識、態度、行動の方が変わる!ということを、覚えておいてください。

完全であるものが、歴史の途中で不完全にはなりません。

最初から完全である、神の言葉に訂正、変更は不要。

神の言葉、教えに対する人の理解、人の生き方を、神の言葉に照らし合わせて、軌道修正、変更する必要があるだけです!

神の側では、何一つ神の教えを変更する余地などない。

人間が勝手に神の言葉をなし崩しにする思想を、語り続けている

その危険に気が付かない人が、そのような教えを言い続けているだけなのです。

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、

主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

 
警告が記されています。使徒の書簡、パウロやペテロ、ヨハネ、
ルカ、マタイが記しているのは、100%モーセの五書の神の教えを
指して語っている事実と、そして神の言葉のどの箇所も聖書著者は
支持し、変更、否定、削除したモーセの五書とは違う教えなど、
誰一人として語っていない、人間の教え=神言葉がアップグレードされて変更、削除されたなどという空想、神話の方を、全て削除して
頭脳〜思考回路を、神の言葉を正しく受け取れるように良い地に耕しなおし、リセットしてください。
神の言葉の種と、偽物の教えの種、両方一緒に畑に撒いてはダメ!
別種の種を同じ畑に撒いてはダメ!と、神が教えているでしょう。
神の知恵を捨てるから、神の言われている教えが見えなくなるのです。
2ペテロ1:20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。
 

1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

3:16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

<神の言葉を、どの箇所でも無効、否定する教えは、上記された警告をやってしまっっているのです。聖書に書いてある意味を正しく

学ばない、人の思想を学ぶ〜無理な解釈、聖書とはズレた思想を

ずっと語り続けているのです。>

預言とは、未来を予測する預言と考えてしまいますが、神が与える

教え=言葉です。預言とは、ナヴィとは、神の言葉を正しく教え導くという意味です。預言者の役割は、神の教え、生き方から外れた人を

神の契約の生き方=トラー=モーセの五書に記された生き方に戻れ!ということを、促し教え導く人が聖書に記された預言者であり、

その預言者の言葉が、預言書となっているのです。

 

2テモテ3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・

イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

 

幼い頃から、モーセの五書=トラーに親しみと書いてあるのです。

異邦人の世界では、そのような教育は受けて来ませんでした。

事実聖書の最後の箇所は知っていても、大元の神の教えや生き方をしらない、実践もしてこない、西洋宗教の教えや、記念日しか知らないのが一般的でしょう。イエシュアや弟子達、1世紀の人たち、ユダヤ人信者達が過去も今も、ヘブライ聖書に親しみ、神の教えを生きて、

神のモアデイムを世界のどこにいても祝うようなこと、異邦人は

全く体験して来ませんでした。異邦人とはまるで違う、教育、育ちを彼らは持っていることは、これを読んだだけでも、分かると思います。

3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、

 

人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

聖書と書いてあれば、100%それはモーセの五書=神の教えの事であり、モーセの五書の解説である、預言書、諸書のみを指して、聖書では聖書と言っているのです。

クリスチャンは、これを読んで、新約聖書を指して語っていると空想しているでしょう?それはこの書簡が書かれている時は、存在しない、聖書として福音書〜黙示録がまとめられたのは5世紀です。

福音書〜黙示録も霊感により書かれたものであり、モーセの五書、

預言書、諸書を解説する短い註解書である役割なのです。

正しい理解を持って、聖書を読む必要があります。

 

今パウロの書簡で、クリスチャンの世界で、神の言葉が変更になった

証拠だとされてしまっている解説の箇所、100%誤解、間違った読み込みであることを書いていますが、今目の前にハヌカの祭りと、

そして、西洋宗教が作ったクリスマスが迫っているので、

その2つの祭りに関して、最初に書いてみたいと思います。

 

今年は、ハヌカはちょうど25日になります。

そして、クリスマスは毎年、クリスチャンの間では25日、

ロシア正教では、1月7日ですが、それらは西洋教父が決めた日が、クリスマスなので、12月25日か1月7日なのです。

誕生日が2回あるということ自体、変でしょう。キリストの誕生日は12月25日、1月7日などと、聖書に書いてありません。

人間が決めた日であり、聖書には書いてないキリストの誕生日を

異教神の祭りに便乗して、祭りをカトリック教的に作り替えたからです。

ハヌカは、レビ記23章で神が創造された、イエシュアの業、福音を網羅する預言的祭り、モアデイム〜アポイントメントの日、神の子らを神が全員呼び出している日とは、異なる記念日です。

でも、ハヌカは、イエシュアもエルサレムの神殿で祝われた記録が、唯一ヨハネ10:22に記されています。

 

そして、それは歴史の史実に起きたことであり、ハヌカの背景にある

反モーセの五書、反キリスト行為は、これから未来にもう一度、同じ事が起きる預言がされているものです。

悍ましい歴史の事実が、このハヌカの祭りの背景にあるのです。

そして、それは異教の神々、異教徒たちによる、ユダヤ人に対しての

違反、神の言葉に対しての違反、汚染、エルサレムの神殿を異教徒に乗っ取られて、豚と豚の血を祭壇に捧げ汚され、ユダヤ人も同様に

異教の神々を拝み、豚を食べ、異教徒のように汚れた生き方をするように強要された、そのような中、神が奇跡的にイスラエルの勇敢な

人々による戦いを勝利させて下さった歴史の史実に基づく祭りです。

ハヌカとは、ハヌッフ〜捧げるというヘブライ語から来ていて、

神殿の再奉献を意味する名がつけられた祭りです。

時期は、聖書の暦、キスレブの月の25日なので、毎年12月の5日の日にこのハヌカの祭りが来るのです。

 

続く