ガラテヤ3章 パウロの説明を完全に誤解している解説を正しく読み直す | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロが「トラーを守ること、実践する行動に頼り、自分を義とするすべての人々」のような記述を使用する場合は、パウロは2つの立場をとる人達に対して、言及しているのです。

まず、パウロは、血筋=ユダヤ人である生粋の生まれか、又は異邦人でありユダヤ人に改宗した者かに全く関係なく、民族的地位に応じて、神によって契約の地位、立場、位が上、拡大されたと信じる人々

宗教エリート、ズレた思考回路をしている人に対して語っているのです。

そのような人々は、神の祝福の中で生きるのではなく、実際には

神の呪いの対象であることが分かります。

神の意図からズレた意識で、神の言葉をズレたアプローチで生きているからです。

なぜなら、人を義とする為の神が与えた唯一の方法を、神に聞いて

理解して受け取る、信仰により受け取る代わりに、彼らは自分たちの作った定義の、義の道を築いている事をやっているからです。

ズレたやり方、金の子牛、異火です。

神が伝えた事をしない、神が伝えている意味を理解していないのです。

これはクリスチャンの世界でも同様に行われ続けているのです。

人間の手で編み出した方法、独りよがり定義の聖別、神への近づき方、やり方で神に義とされ、自分たちの方法やり方で神に近づく事をしているからです。

ローマ9:31,32, 10:3でパウロ自身が、不信仰なイスラエルに対して

そう非難した事からも、分かるでしょう。

1つ1つ確認してみます。

 

ローマ9:31 しかし、義のトラーを追い求めていたイスラエルは、

そのトラーに達しなかった。

9:32 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

ここに書かれている意味を読み違えると、クリスチャンが教えられているように、神の教えを生きる、イコール悪い事、律法主義だ!と

いう、これも同様に全くズレた聖書の理解になってしまうのです。

パウロがずっと語っている内容、文脈から逸脱せずに、正しくパウロが書いている内容、意味通りに理解して下さい。

ここに書いてある事も、ガラテヤ3章も同じです。

信仰により受け取るべきものを、行いで受け取ろうとしていた人の

アプローチがずれている!という事がパウロが指摘している問題点であり、義とされようとして、神の言葉を生きようとする人は、神の

教えている生き方、実態には達せないと書いてあるのです。

なぜなら、順序が逆だからです。義とされるのは、神の一方的な

ギフト、無償の代価、だから恵なのです。人の行いで相当しない

実態を与えられているから、それが恵の意味なのです。人の行いや

努力では、手に入れらない、人がそれに値する価値のことは、できない!でも、それなのに、何もしていないのに、与えられた=それが

ヘブライ語の恵の意味です。

贖いの業のみにより信仰により受け取れるのみであり、行動、努力で聖霊を受け取ることなどできないからです。新生体験なしに、

実際聖霊が内側に無いのまま神の言葉を生きて、新しくされた事実、復活の命、聖霊を内側に受けることなど、人にはできません。

やり方、順序が逆。

義とされた人が、トラーを初めて神の意図通りに生きれる!

方法、順序が逆、理解していないことが問題なのです。

お金で、使徒達の賜物を買おう、得ようとした、シモンと同じ思考

回路です。使徒8:18お金払えば、聖霊の賜物が買えますか?と

同じことを、パウロはここで、話しているのです。

それが律法主義という生き方なのです。

神の言葉を、信仰により義とされイエシュアを救い主として

信じた人が、生きる生き方は、神の教えであり、神のトラー=モーセの五書を生きることが、律法主義などという話は、パウロは微塵にもしていない事実を、はっきり正しく理解して下さい。

神の言葉を生きることが、律法主義というのは、人の思想を土台に

神の言葉の方を曲げて、神の言葉は今は破棄されたと信じている

異邦人クリスチャンだけであり、それは聖書=神が伝えている真実などではありません!

そして、「順序」を忘れないで下さい。何の順序でしょうか?

出エジプトの一連で教えられている通り、①先ず最初に受け取る実態は、信仰により受け取る、贖い、救い、義、新しくされた実態、聖霊です!!!

それは信仰で受け取るしか方法がない事を、人の教えは行いで受け取ろうとしてる、それが、ズレ、律法主義!間違った意識のアプローチと、警告しているのです!この違いが、分かりますか?

新しくされている=義とされている=聖霊が内側に住まう、信仰によりそれを受け取っているという大前提があって、その大前提の実態を受け取った後、初めて神の契り〜婚姻契約が、神から初めて与えられたでしょう!!!この事実を、順番を、はっきり理解して下さい。

新しくされていない、聖霊を受け取った事実のない人に、神の教え=トラー=婚姻契約は、与えられていません!

聖霊が内側に住まわない人は、本当の意味で神の言葉を理解し、

その事実を、生きることができないからです。

パウロが言っているのは、順序、物事の本質をすり替えているという事なのです。聖霊=義=新しい復活の命は、神の教えを生きたから

獲得、得られるものではない!信仰により受け取る以外にない!

義とされた事実が、先ず最初に来ないとならないという事を言って

いるのです。

これを、神の言葉を生きた結果、修行、努力、苦行で何かの賞、報酬をもらうが如くに、義=聖霊を与えられるという思考回路は、神の

言葉、内側に住まう御霊=神の元に神の贖いの代価によりのみ、引き戻された事が分からない人がやってしまうのです。

そして、永遠の中に屠られている子羊の血の贖いにより、イエシュアに連なる新しい人とされた人は、全て!神が伝える通りの教え=言葉

神の口から1つ1つ教えられているモーセの五書=言葉=トラーに

より生きる!と、はっきりイエシュアも、モーセの五書を引用して

教えていること、その真実を見ようとして下さい。

人の編み出した教え=デイスペンセーション神学=神の言葉は廃れたという非聖書的、不真実、嘘を聞いて、信じて、頭脳にインプットされ続けているので、矛盾を矛盾とも認識できないままいるのです。

信じたら、神の言葉、教え(律法と呼ばれてしまっていますが)は

破棄されたのだから、今は生きる必要はない、それを生きる人は、

神の恵を捨てているのだ〜これ、聖書=神の言葉、教えだと、

クリスチャンは勘違いしていますが、とんでもなく神に対する反逆、罪、冒涜の教えです。

エデンの園にいた蛇の声そのもの!神の言葉を捨てる事は、鎧兜を

捨てて、人を傷つけ、破壊し、罪の道へ大きく扉を開く路線に入る事だからです。そんなことを教えるイエシュア、神、聖霊、預言者、

教師、使徒は聖書に記されていません!ここで語られているのは、

順序が逆!やり方が、間違っているという指摘です。

①、信仰により義とされること。これを行いで得ようと

するから、逆噴射が起きます!という事です。

そんな事はできませんと言っているのです。

②義とされた人は、全て神の言葉=教え=トラーを生きる!

聖書に書かれているこの意味、事実を、クリスチャンは正しく理解していません。

最初の部分、信仰により受け取る、これは理解しているでしょう。

でも、それも理解していない人もいるのです。

だから、はっきり理解しないまま、洗礼受ける人もいるのです。

そして、次の段階、花嫁とされた人は、今は古い律法は廃れて、恵の時代になったので、それぞれの考え、意見、フィーリング、感覚で

生きるとクリスチャンは教えられ、そう考えているのです。

それを、聖霊に導かれるままに生きるなどと言っていますが、

聖霊は、モーセの五書=トラーに反する教え、否定する事など1つも言わないという事が、全く分かっていないのです。

聖霊=言葉=トラー=イエシュアだからです。

聖霊により書かれたトラーを聖霊が否定する?自分の顔をボコボコ殴って自傷行為を聖霊がする?聖霊=神は嘘つき?それでは、聖書に

記された本物のイスラエルの神ではない!それでは、空想話と同じ、「ウルトラマン、ウルトラの父を撃退し、家族兄弟をみんな殲滅するの巻!」になります。そんなの漫画の世界のストーリーにもあり得ない筋書きなのに、クリスチャンの教師、牧師、教皇がこぞって、

そんな聖書ではない人の思想を主張しているのです。

 

それ以外のユダヤ人の中にあった思想は、血統、血筋がユダヤ人なら

救われる、神の国の正式メンバーになれる!と勘違いしている人。

血筋、血統が、その人を義とするのではありません。

聖書を読めば、アダム、ノア、アヴラハム、イサク、ヤコブ、その他

全ての残りの民達、全員、神との直接の出会い〜信仰による義、

新しく生まれ変わる事なしに、父の元に戻った人など一人もいないことは、読めば分かります。

血筋が自動的に救いを与える、これも行いで義とされるのと同じ意識です。

そして、異邦人に対して、義とされる、神の国のメンバーになるのは、ユダヤ人になる改宗儀式をしないとなれないという、偽教師の

教え=人の教えが当時蔓延していたのです。そして、人に当時の

ユダヤ人の中にあった戒めの律法=神の教えではなく、人が編み出した伝統の教え、しきたり、細かい規定、厳しいルールを生きさせていた。

ローマやガラテヤ、コロサイなど、それぞれの場所であった偽教師の

教えは、モーセの五書=トラーとはズレた、人間の思想である!

これが何なのかを、はっきり正しく理解しないとなりません。

 

詰まり、義とされる、神の民と認められる事は、人間の努力で出来ると考えている、ズレた思考回路が神の教えとズレていると言っているのです。禁欲主義、肉体に対する苦行が、人を罪から離れされると

いう、偽教師の教えもそうです。

第二に、生まれ変わる〜義とされるという実態がない、真の信仰を

持たない人に対して、トラー=神の教えに服従して生きたら、義と

されると主張し、それが神が契約の地位を与えるからという、迷信的な考えに対して、パウロは正しているのです。

これは、「すべて…に頼る者は」という条件節によって証明されています。当時の宗教エリートたちの人造の教え、個人が義のために頼るものは何だったのでしょうか?

それは①ユダヤ人としての民族的地位か、②又は、異邦人が改宗儀式を通してユダヤ人としての民族的地位を神の前に得る、③又は、義を獲得する目的のために、神の言葉を生きるという、そのどれかだからです。そして、神の言葉以外の、人間の規定、掟を生きる!

パウロはどちらの見解にも反対したのです。パウロは人間の編み出した、思想、哲学、宗教の教え、偽教師の教えに反対しているであって神の教え=トラー=モーセの五書に対して、反対などするわけがない!という聖書の永遠的基本の真実だけに立ってください。

聖書の中で神の教えに敵対するものは、サタンであり、それに賛同

する偽教師!偽預言者!とはっきり書かれているでしょう。

 

ガラテヤ3:11 そこで、トラーによっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。

なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。

 

3:12 トラーは信仰に基いているものではない。かえって、「トラーを行う者はトラーによって生きる」のである。

 

ここで、パウロが話しているのは、「トラーによって神の前に義と

される者はいない」と考えますが、それもそうですが、このパウロの

発言は「1世紀のユダヤ教で支配的なハラハー=口伝律法=人間の教え

=戒めの律法が主張しているように、当時の伝統的な改宗儀式に従うこと、人間の編み出した伝統の先祖の言い伝えを、あれこれすることによって、神の前に義とされる者はいない」という意味なのです。

又は、パウロの発言は、トラー=神の教え自体が、神の言葉を生きることをすれば、それらの人に自動的に契約の地位=義=新生体験=聖霊を与えるという、誤った考えに対する教えのことを言及しているのです。これを、はっきり咀嚼し、理解して下さい。

ここでも、パウロは接続詞「なぜなら」、ギリシャ語のホティーを

使用して、神の国の契約の正式メンバー候補者が、契約の地位を得る為に神のトラーを生きることをしている人たちに対して、既存の契約=アヴラハムの契約=信仰により子羊の血の贖いの代価を受け取り

聖霊を受け取った事実のある人だけが、約束の証拠を得ているのだ!という、真実をさらに明確にしているのです。

だから、…なぜなら、義人は信仰によって生きるからです。」

パウロは言ったのです。

この引用はレビ記 18:5 からのもので、パウロは後に、ローマ 10:5 で、契約の中にある神の家族の一員になる事に関する、同様の議論の中で、この節を再び使用して書いています。

レビ記のこの一節の文脈は、注意深く研究する価値があるのです。

モーセの五書に対する、深い学び、考察がないまま、勝手な思想=

デイスペンセ〜ション神学などのような人間の作った宗教の教え、

や思想を通して、人が神の言葉の方を曲げて読むから、聖書に書いてある意味、パウロが語る意味が見えないまま、パウロが意図していないこと、真逆の解説をクリスチャンの世界では教えられ続けているのです。

レビ記18:1 主はモーセに言われた。

2 「イスラエル人に告げてこう言いなさい。

『わたしはあなたの神、主である。

3 あなたたちは、かつて住んでいたエジプトで彼らがしていたようにはしてはならない。又、わたしがあなたたちを連れて行くカナンの地で彼らがしていたようにはしてはならない。

彼らの習慣に従ってはならない。

4 あなたたちはわたしのトラーを守り、わたしの定めに注意深く従わなければならない。わたしはあなたの神、主である。

5 わたしの定めとトラーを守りなさい。それに聞き、従う人はそれによって生きるからである。わたしは主である。

 

ここでモーセは、シナイ山の婚姻契約=神の大家族に加えられた人たちの生き方〜ライフスタイルを、トラーに明記された神の教え=

モーセの五書に書かれた教えを聞いて、生きることに徹する人達が

特徴とするものだと説明しています。

 

パウロは、前の節で「明確に」説明されているような立場について

言及しているのです。

言い換えれば、パウロは読者と反対者が同じように自分と同じ結論に達することを期待しているのです。

本物のトラー=神の教えへの完全なる一致、神の考えとの完全なる

一致、神に聞いてその通りに生きるその従順は、本物の信仰に先立つものではありません。

どういう意味かというと、聖霊が内側に住まう体験がない人は、

神の言葉を生きようと願う、願望、信仰がないし、持っていないからです。

本物の神の教え=トラーを生きたい!と願うのは、本物の信仰を

与えられた人の当然なる自然な願望であり、期待される結果なのです。イエシュアを愛しているなら、イエシュアの言う教えに逆らいたいと思いますか?イエシュアが教えた通りを生きたいと思っていても、イエシュアが何を言われているか分からないままでいるから、

神の言葉に逆らった生き方をしていても、気がつけないことが起きているのです。神の言う通り、み旨、教えの通りを生きたいと願わない人は、聖霊=イエシュアと同じ場所にいない、一致していない、

神の意図とはズレているからです。

 

続く