ガラテヤに蔓延していた偽教師の教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤのイエシュア信者達が影響を受けていた、その背景を正しく理解してください。

以前書いたように、①人間の言い伝え、先祖の伝統、律法の戒めなどと呼ばれる、当時の宗教エリート達が作った様々なルール、掟を

生きることを、強要されていました。

これは、クリスチャンの世界の中にもあるのです。

聖書ではない教えを、ある群れの、あるリーダーの考え、教え、

ルールを生きさせられることをやっている、それに気がついているのか、いないのかだけなのですが。

そして、これは使徒15章にあった、イエシュア信者になった、

神の言葉を知らない異邦人達〜汚れた動物を異教の神の神殿で屠り

食べ、その血を飲み、動物を締め殺して屠殺する異教の神に対しての儀式をし、神殿娼婦と交わる儀式など続けていた、

その人達は、いっそのこと、ユダヤ人になる改宗儀式をさせて、

異邦人の汚れた世界の関係から、汚れた生き方から、完全決別させようとあるユダヤ人イエシュア信者達が考えていたことが書いてある

問題と同じです。

 

使徒15:1 さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに

「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、

救われない」と、説いていた。

エルサレムから降って来た、宗教エリート達のことです。

割礼は、アヴラハムの契約を通して与えられたものであり、

改宗儀式などという神の教えは、トラーにはありません!

自分たちが編み出した改宗儀式をさせて、同時に神の教えを全部いっぺんに異邦人イエシュア信者に理解させようなどという、無理難題を突きつけた人たちがいたのです。

モーセの慣習の割礼?アヴラハムの割礼です。彼らが言っているのは、彼らの中にあった、異邦人をユダヤ人、アヴラハムの子孫とするには、改宗儀式をしてユダヤ人にならなくてはダメであるという

それを、ここでも言っているのです。もちろん、その厳しくて、

年月かかる改宗儀式の最後には、アヴラハムの割礼も含まれています。割礼とは、境界線を敷く意味がある、だから、1世紀当時、

「割礼」という名をその改宗儀式に付けていたのです。

結果は、賢い神の教えの知恵に満ちたパリサイ派の長老であるイエシュア信者達が、取りあえず、異邦人は、①けがれた動物=豚などを

食べない②その血を飲む儀式などしない③動物を苦しめて殺す異教

神への儀式はしない④異教神の神殿娼婦と交わる多産を願う儀式の

不信仰などしない!

という神の教えを、先ず最低限理解して下さい!交わりに加わる為の

最低限の神の教えだけは絶対に理解してもらい、後はシャバットごとに、モーセの五書=神の教え=トラーを、異邦人も学んで行けば、

次第に神の教えを理解するようになるだろうから、今は、寛容に彼ら異邦人を、自分たちの交わりに入れよう!と提案して決着したのです。

②そして、その一番は、異邦人は当時のユダヤ人達の間で、行われていた彼らが編み出した改宗儀式をしないと、異邦人は救われない

教えていた事なのです。贖い、救いは、改宗儀式で得られるものでは

ありません!と分かるのに、彼らは、改宗儀式をしないならば

神の国のメンバーにはなれませんと教えて、「割礼」という名前を

つけた改宗儀式を強要していたのです。

 

③その他、禁欲主義、グノーシス主義、聖書に反する様々な教えが蔓延していました。肉体、物質は全部悪!霊はよい、だから結婚も禁じ神が与えた、きよい動物も食べてはダメ!という思想が蔓延し、

それを聞いた信仰の弱い人は、それを信じて、惑わされていたことを

覚えておいてください。肉体を喜ばせない、苦行〜それを強要されていたのですが、そんな苦行、禁欲主義は、人を罪から離れさせるには、何も効果などない神の意図とはズレた生き方を、禁欲主義は主張しているからです。

喜び、楽しみは悪、後ろめたい気持ちをクリスチャンも少なからず

持っているでしょう。それです。禁欲主義。

神が与えたものを、神の意図通り楽しみ、よろこぶ!それが礼拝の

本当の意味なのに、それが教えられていません。全てのこと、神の

伝えた意図通り生きる、それが「礼拝」と訳された翻訳の裏にある、ヘブライ語の本当の言葉の意味なのです。

その上で、パウロがそのような偽教師達の教えに影響され、偽教師の教え通りの彼らが強要する人間が編み出した教えをすることで

義とされる、神の国の一員になれるなどと信じていた、ガラテヤの人に、聖書に記された神の教え通りを、解説している内容です。

 

ガラテヤ3:3 あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。

御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。

 

神の一方的な贖いの代価により救い出されたのに、どうして、再び

人の教えを通して、人の教え=肉の仕上げをしろ!という、人間の

教えを強制する人に影響されるのか!という、警告です。

 

3:4 あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。

まさか、むだではあるまい。

 

イエシュアを通して、聖霊を受けた救いの体験をしたのに、それでも未だ本質、違いが分からないの?と、パウロが言っているのです。

苦行で義を得られるとでも、思っているのですか?

 

3:5 すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの

間でなされたのは、トラーを行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

神に贖い出されたのは、神の一方的な贖いの代価を信仰により

受け取っただけ!

それは、人が神の教えを生きた結果、与えられたのではないではなのだ!、信仰により受け取っただけでしょうというパウロの問いです。

正しく答えを引き出すために。

ガラテヤに蔓延していたのは、宗教エリート達の思想〜神のトラーとは異なる、彼らの編み出した教えや、しきたり、ルール、厳しい戒律を守らせようと、ガラテヤの人たちにしていたことなのです。

その人たちの意識がどこにあったのか、個人個人のことは分かりませんが、割礼という名を付けた、改宗儀式を異邦人もしないと救われないと考えていた人達がいたのです。

信じた後、神の教えではない、人間が作った付け足しの教えをしなければならないと、強要していたのです。

クリスチャンは、このような箇所を読み、神の教え=トラーを実践し生きる事を強要されるな!など、パウロが語る事とは完全に違う

神の言葉に真っ向から反逆する思想を信じ込んで、そのように解説しているのです。

その根底にあるのは、反モーセの五書=反神の言葉思想、反ユダヤ思想、律法=悪い=古い=廃れた=無用=破棄された=律法に戻るのか!信じた人は、ユダヤ人的な教え一切やめなさい!という、思想。

イエシュアがユダヤ人メシアである意味が、何か本当に分かっていない異邦人思想です。ユダヤ族のメシア、王の王を通してイスラエルの神父なるお方に引き戻された、これ以上ユダヤ的な実態はないのです。

 

3:6 このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、

彼は義と認められた」のである。

 3:7 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、

知るべきである。

 

信仰義認は、ルターにより発見されたのではない、教えられたのでもない、エデンの園、永遠の中から同じです。

信仰により義とされるというのは、アヴラハムを通して与えられた

契約の中にある保証、約束です。

これを、どの時代の人も同じように、信仰により受け取り義とされ

聖霊が内側に住む!という事実を得ているのです。

それを知らないとならない!

 

ガラテヤ 3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。

 3:9 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、

祝福を受けるのである。

 

この箇所にも、はっきりパウロは記しています。

アヴラハム〜全世界の父として、世界中の民族の祝福の源になる為に

選び出されたのです。だから、イスラエルと異邦人と分ける思想は

聖書とは違う教えです。

アヴラハム同様、神の言葉を信じて、救われた人は、イスラエルの神の元に再び繋がれ、祝福を受けるとあります。

単純な事実です!

 

そして、次の箇所は、クリスチャンが全く誤解して読み込みしている

箇所の代表箇所でもあります。

 

ガラテヤ3:10 いったい、トラーの行いによる者は、皆のろいの下に

ある。「トラーの書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。

 

この節を広い文脈から、内容を誤解すると、読者は必ず、パウロが

神との正しい関係を築きたいと望むすべての人に対して、絶対に

1つ1つこれらをしないと、神に受け入れられないという誤解を

与えてしまうでしょうが、よく考えてください。

 

神の教えの1つ1つは、神の創造された神の性質に創造された人間の生きる全ての必要な詳細が記されているものです。

これをやらなくては〜神の教えを、掟リストで読むような扱い、意識を、全て削除してください。

あなたが、自分の子を持つ親であり、なによりも子供の安全、健康、幸せを願うならば、子供に知る限りの全てを教えて、守ろうとするでしょう?その1つ1つの親の教えや忠告、知恵は、子供を縛る厳しい掟であるなどという考えなど持たないはずです。

どうして、親なる神〜人を全てを創造したお方が、創造主が造られた人の生き方や、創造物に対する対応、管理を教えているのに、

素直に聞けないのか?それが反抗というものなのです。エデンの園の

第一反抗期で、罪、死が入り、第二反抗期をまた繰り替えしているのです。神が言われたことではなく、自分が考えた通りをやりたい!

神に創造されたあなたの性質は、これこれをして、これこれをしない

と神が教えている、シンプルな事実が神により人に伝えられているのです。創造主〜デザイナーがご自分の創造された人の性質、詳細、

生きる全てを人に教えている!それがモーセの五書=父の教え=イエシュアがそれをフルに神が伝える意味通りを教え、生きてお手本を

見せ、実践と行動で地上で再現された!それを理解しない人には、

人の編み出した宗教の教えで、神に反する行為、敵対し続けていても気がつけないままになります。それは自分を損なう行為であり、自分を傷つけ、害毒を取り込み、聖別を汚す生き方に導くものです。

 

掟リストをクリアするような意識で、異邦人は神の言葉を律法と

考えている時点から、スタートポイントがずれているのです。

 

10節で書かれている意味を、パウロが伝える意味通りに、正しく

理解しないとなりません。

トラー=神の教えには、色々な側面があります。

イエシュアにより贖われ、救われ、聖霊を内側に得ていない人には、

神の教えをそのまま読んだら、それは自分がどれほどズレ=罪、この罪は神の前に、イエシュアの購いの血で許される以外、取り除くものがない、だから、救いを得ていない人には、ただの責め、罪を示され解決がない状態のままになるのです。

 

でも、それは神を知らない人に、神の元へ導かれる1つの手段でも

ある事が、24節以降に記されているのです。

①人間の生き方、②罪とはなにか ③神を知らない人でも、神がおられること、神が教えていることを聞こうとするなら、その中には

イエシュアが教えられているから、やがてメシアに出会う路線に

留まり続け、神の言葉を考え続ければ、メシアに出会う日が来る。

 

神の贖い、赦し、聖霊を内側に持たない人は、神の教えを肉の頭脳、生まれつきの神から切り離されている死んだ人の状態で読んだ場合、それらは呪いの下にある状態以外のないものでもないでしょう。

責めだけを、感じる。自分の中に、それを取り除く、解決策は持っていないからです。

 

神の教え=トラーが呪いだ!と勘違いする、その嘘、偽の教えを捨ててください。だから、クリスチャンの世界では、トラー、呪いだから、神が神の教え=罪の定義を取り除いたなどという、おかしな発想思想を語っているのです。

神=聖霊=イエシュア=言葉=トラー!と、神は説明しているのに

それがまるで読み取れていないのです。言葉と神は一体です!

永遠普遍!

クリスチャンの世界で、今はトラーが廃れたというのは、こういうことを言っているのと同じです。

犯罪者、殺人犯、性犯罪者、同性愛、幼児性愛、人身売買、その他諸々、人の道から外れる生き方をする違反者は世の中にゴマンと存在する。それらの違反、罪、犯罪は、罪、犯罪を定義する法律があるから、罪に問われるのであるから、その人たちの為に殺人、盗み、性犯罪、スピード違反や姦淫、同性婚もOk、その他諸々、それらの罪の

定義、法律の方を取り払い、自由にそれぞれが納得、満足して生きれるようにしましょう。そうすれば、誰も犯罪に問われることはなくなります!と言っているのと、全く同じ主張をクリスチャンはしているのです。

大体、神の教え=トラーが悪い!神の教えの方を取り除け!という、

思考回路こそが、神の目、神の意識から遥か彼方、遠くに離れた意識理解である危険を知らないままなのです。

この節は、アブラハムが信仰に基づいて義とみなされたとされている

6節の以前の記述とは対照的です。

比較すると、アブラハムにならわず、人を義と宣言する神の方法を

回避しよう、別の方法で神に認められ義とされようとする人々は、

実際には、その思考回路、行動は律法主義の罠に陥っているのです。

律法主義とは、神の教えを生きることを言っているのではなく、神に義とされる、認められる、神の前に手柄を得る、天の国でより上の

地位を獲得する、そのような目的の為に、神の教えを生きるということを、律法主義と呼んでいるのです。

クリスチャンは、神の教え=律法を生きることが、律法主義だと

完全に勘違いしているのです。

詰まり、自分で何かをしたことにより、その結果、救い、義、神の国の一員になれるという、ズレた思考回路のことなのです。

覚えておいて下さい。神〜イエシュア〜聖霊は、言葉です。聖霊は

言葉であり、聖霊により聖書が書かれているのです。聖霊が書いた言葉を聖霊みずから削除、変更する?聖書のどこにそんなこと書いてありますか?ないでしょう。人は神の言葉、トラー=神の口から1つ1つ語られた言葉、教え=モーセの五書に書かれている神の教えを生きる!命のパンイコールモーセの五書であることを、全然理解していないのです。

福音書以降には、モーセの五書の抜粋、モーセの五書のある部分の

神の教えしか書かれていないことにも、気がついていないのです。

 

続く