1テモテ4章 神の言葉で聖められているとは | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1テモテ4章では、パウロが教えている事、警告している偽教師の教えが書かれています。

 

この箇所を、クリスチャン達は、今はなんでも祈ればきよくなるなどという、とんでもなく非聖書的解説をし続けて、これが神の伝えた食規定が変更になった証拠だ!今は感謝して祈れば、

きよくない動物でもなんでも清くなる!などという、摩訶不思議な非聖書的思想を信じ込んでいるのです。

聖書を、正しく読み取り学んでいない教えを聞いているのです。

蛇に対して祈ったら、蛇の性質、きよくない構造のゴミ動物

忌むべき地を這う生物が変化進化するのですか?

それこそ、聖書、神の教えではなく、人間の作った宗教の教えを

信じて、神の言葉を退けているのです。

聖書に何が記されているのか、正しく理解しない、人間が作った宗教の教えを信奉し、神の教えを退ける愚かしい行為をし続けているから、神が伝える真実が分からないままでいるのです。

 

祈れば、地べたに落ちている死骸、腐肉、糞尿がきよめられ、

何でも人間の食べ物になるとでも考えているのと、全く同じ事を言っているのです。

人間の食べ物は、神が伝えている「きよい動物」だけです!

聖書に登場する人で、異邦人クリスチャンのような思想、発想をする人は誰一人としていません。それらは偽教師と呼ばれる人の教えと書かれています。神と神の言葉は一体であり永遠に変わらない、廃れたないという、神と神の言葉の性質の基本中の基本の基本、聖書に記されている事実を知っているからです。

神の言葉が絶対、完全、変化しない事実を理解しない人には、神の

伝えている真実は部分的にしか見えなくなります。又は、神の伝えていることが歪んでしまい、神の言われていることを誤解して受け取り続けるのです。

神は二枚舌を禁じています。神ご自身が、神が一度言った事を、後で変えた、これこそが、二枚舌の脳内イスラエルの神像であり聖書に記されたイスラエルの神〜本物の創造主とは異なる別の神を語っているのです。

この箇所に記されている偽教師とは何ですか?何の教えをしていたのですか?モーセの五書を教える人、生きるように教える人、それが

偽教師であるとクリスチャンは誤解しているでしょう!

聖書に記されているのは、100%モーセの五書の教え以外にない!

という永遠普遍の事実を知らないまま、人の編み出した思想、

神の言葉は終了、廃れた!などと、聖書に書いてない教えを捨てない限り、このように誤解した読み込みは、それらの人の間では永遠に正される事などないのです。

ここに書かれているのは、当時、グノーシス主義が蔓延し、その教えに対しての警告をパウロがしているのです。

どんな思想ですか?これは、あるグループも実践しています。

神に仕えるならば、結婚してはならないという掟、ルール、人の編み出した聖書ではない律法の戒めです。そんなの聖書ではありません。黙示録にある、女の人を知らない人〜聖別された人など勘違いして

読み込んでいるのです。

それらは、異教の神々の教えに染まってない人のことをヨハネは話しているのです。そのような混ぜ物の教えに染まらない人のことです。結婚したら、神に仕えられない、独身でいればきよい、天で一番良い座が設けられているなどと、人間思想を信じているのです。

それこそがグノーシス主義の真髄です。

 

大祭司、祭司の家系のレビ族は、妻、家庭がありました。

エリザベトの夫もレビ族のアロンの家系の大祭司であり、

その背景から生まれたバプテスマのヨハネは、アロンの家系である

大祭司としての役割を与えられて生まれたのです。

だから、イエシュアに「罪を取り除く神の子羊」と宣言したのです。大祭司しか、神の前に捧げられるコルバンを判定する権威は

与えられていないからです。

グノーシス主義とは、人間の哲学思想のことです。

体は悪い、霊は崇高とクリスチャンの頭脳の中にも、どっぷり

その意識が植えつけられているでしょう。楽しみは悪い、苦行は美徳などと。大事なものを神に捧げて諦めるとか、犠牲にするとか、

これ異教の神々、モレク神に自分の子供を屠って捧げて偶像礼拝した

異教の神への近づき方、意識だと知っておいた方が安全です。

神は全てのものを人の為に造られました。

人は神が意図した通りを生きたら、それらが全て、礼拝〜アボダ

神の目的、意図通りの生き方なのです。楽しみ、喜びは、神から

離れて存在しない、本当の意味で味わえない、湧いてこないのです。神にあり、神との関係に神の意図通りに留まる人は、神の祝福の全てを、神が意図した通りに楽しみ、喜ぶことができるのです。

パウロは、当時の偽教師が間違っていた 2 つの具体的な点について

言及しています。

これらは両方とも、グノーシス主義の異端と一致しています。

グノーシス主義者は、すべての物質は悪であると信じています。

従って、人間の体、すべての形態の性、そしておいしい食べ物は悪とみなしていました。

その結果、グノーシス主義者は結婚を拒否し、人々に特定の食べ物を食べないように教えていたのです。

 

結婚〜性的な喜び禁じる、食べ物を美味しいと楽しむ事を禁じる。

神が与えた食べ物〜コデシュであるきよい動物を、食べてはダメ!とグノーシス主義の偽教師は禁じていたのです。分かりますか?

神がなんでもかんでも、今はきよくない動物も食べて良いなどと、

絶対に嘘、罪を人に犯すように教えるわけなどありえないからです。

そんな嘘、まやかしの誤解した聖書の読み込みをし続けていることに、神の教えを理解しないから、気がついていないだけです。

そして、誤解した聖書解釈で、神の言葉が廃れたなどと、人間が勝手に神の言葉を否定、削除、塗り替えた冒涜的教えを平然とし続けているのです。
パウロは未婚でしたが (1コリント人 9:5–6)、神が結婚を禁止した事がありません。また、独身を結婚後の性よりも「神聖な」アプローチとして支持したこともありません。

この禁欲的な慣行は、グノーシス主義の教えの初期のバージョンを

固守していたエペソの人々から生じた誤った教えでした。

コロサイ 2:20–23。

神の言葉、トラーに焦点を当てると、1世紀の異邦人イエシュア

信者は、神の言葉をよく知りませんでしたが、 (使徒行伝 15)、異邦人クリスチャンに対する、レビ記11章に記された人の食べ物、人の食べ物では無いものは何か、パリサイ派のイエシュア信者、長老達は、異邦人に神の教えをはっきり教えた事が使徒15章に記されています。ユダヤ人のパリサイ派信者達との交わりに加わるためには、

とりあえず、聖別を汚す行為、けがれた食べ物を食べてはだめ!

異教神の神殿で娼婦と交わらないで!と教えた事が書かれています。

クリスチャンはこの箇所を正しく読み取らず、異邦人は4つの

教えだけ生きれば、後はなんでも良い、モーセの五書=律法と呼び、

神の教えを生きなくて良いなどという勝手な思想を語り続けています。異邦人は、イエシュアを信じても、使徒15章の異邦人信者と

同じく、神の教えを理解していないので、汚れた動物を平気で食べているのです。聖書に書いてあるのに、その書いてある意味を、正しく読み取っていないからです。

そして、パリサイ派の長老は、異邦人もシャバット=第7日目に、

パリサイ派の彼らのシナゴグで、トラーを聞いて、神の教えを順次に学んで行くだろうから、そのうち、神の教えを理解していくから、

彼らが神の言葉を知らない事に忍耐して、汚れた行為をすることだけは先ず、やめてもらい、群れの交わりに加えよう!と提案したのが、エルサレム会議の内容なのです。

モーセの五書が廃れて、異邦人は、神の伝える4つの教えだけ生きたら良いなんて、誰一人として言ってもない、考えてもいないのです。

神殿娼婦と交わる、多産の女神、卵がシンボルのイースター=アシェラ、イシュタルの異教女神の祭りのように、どうして多産を祈るのか?それは、古代は出産は命懸けであり、守りが必要、そして子をたくさん産むことを祈願したからです。それを、神殿娼婦と交わって祈願するという儀式を、異邦人イエシュア信者はやっていた。それほど神の教えを知らない人たち=異邦人なのです。

 

パウロのトラーの解説は、神が私たちの利益、生きる目的のために、神が人の為に創造した物質的なものを、どれをも拒否すべきではありませんと教えているのです。きよくない動物までも食べて良いなどと、パウロは言ってないし、言うわけありません。使徒21章のパウロの神殿でのナジル人の請願の意味を、クリスチャンは理解していないのです。パウロがトラーに反した教えをしているという、噂、嫌疑をかけられて、それを払拭するために、トラーに100%忠実であることを公に、請願の儀式を通して、証明したと書いてあるでしょう。

 

ここでパウロが言及しているのは1世紀の群れのことだけではなく、創世記第 1 章と第 2 章に記された神の創造にまで遡るのです。

食べ物=人間の為に創造された食べ物は、グノーシス主義の人が主張するように、拒否すべきものではなく (1テモテ 4:4)、感謝の気持ちを持って受け入れるべき神からの贈り物なのです。神が与えたトヴ=神が創造された人間が食せる安全な動物を食する事を拒否するのではなく、神に感謝する能力は、神の言葉と神の意志を正しく理解している人々に与えられると教えているのです。

これを前提に何をパウロが言っているのか、読み直すのです。

 

1テモテ 4:3 これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、

感謝して受けるようにと、神の造られたものである。

<神は人が食するように造られていない、清掃動物、アカサトス

タメーな動物を人に食べるように与えていません!食物〜レビ記

11章に記された、人が食せる動物のみが、人間の食べられる

動物、魚、鳥です!陸海空の動物。>

4:4 神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。

 

<ここで、造られたものは、皆良いものという意味は、良い〜神の

意図通りという意味です。

良い〜カロス(ギリシャ語)トヴ(ヘブライ語)神が意図した

そっくりその通りという意味なのです。だから、神が人が食せる食べ物は人に取りトヴであり、それらを食することを人間の思想は禁じる権威はありません!ということ。

人が食せない動物を食する行為は、神の目には、ズレ〜ハタ、罪!!人間がする行為ではない!とはっきり理解しなくてはなりません。

神が創造された全ては、その創造物1つ1つ、神の意図、目的通りの創造物〜トヴであると書いてあるのです。

人が食するものではない動物を食せますと書いてあるなど、とんでもない勘違いをするのは、聖書が語る神の言葉の意味も、神の教え教えも理解していない、聖書の基本、土台、知識がごっそり抜けて、人の思想にすり替えて、現代の宗教の教え慣わし、人間の曲がった聖書解説〜神の言葉は廃れたという思想を土台として考えているから、

パウロが伝えていることが、正しく読み取れていないのです。

 

そして次に書いてある意味をはっきり理解しないとなりません。

 

4:5 それらは、神の言葉と祈とによって、きよめられるからである。

きよめられる〜とは、聖別されているという意味です。

1ペテロ1:16を、思い出してください。

 1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。

これは、レビ記11:43-47にある,食規定に関する教えの中の教えを

人は生きて、聖なるものとなれ!という神の言葉を引用して教えているのです。

聖別とは、神の意図、目的通りに分たれているという意味です。

神の言葉によりコデシュ、ハギオスされている食べ物は、神は何であると人に教えていますか?人の食べ物として、神が創造されたその目的通りに分たれている動物は、レビ記11章に記されているのです。その言葉通りが、聖別された食べ物、神の言葉によりコデシュされている食べ物!と教えているのです。

神がコデシュ、ハギオス〜神の言葉で聖別された食べ物ではない食べ物は、どこまで行っても永遠に神の前に人の中には、汚れたゴミ、人の食べ物ではない異物、清掃動物、食物ではない、聖別を汚す食べ物であることが聖書に記されている事実を、はっきり理解しない人には

永遠に神が伝える事実を、このように曲げ続けて誤解し、人の勝手な思想、人間の宗教の教えで聖書を曲げて解釈し、それが神の言葉だ〜と信じ込み、騙されていくのです。

神の警告、最初で最大の警告〜騙されるな!神が伝えていないことに、神の言葉をすり替えられてしまっているのです。

 

ギリシャ語では、ハギオス、ヘブライ語ではコデシュです。

神の言葉で聖別された、神の目的通りの取り分けられている

人間の食べ物として造られた動物は、神の言葉で聖別され、

人に伝えているのです。

一体聖書のどこに、神の言葉と祈りで、けがれた動物がきよくなるなどと、神が言ったなどと書いてありますか?

そういう早合点の人の思想で聖書を読み違えている、読み込みしていることに、本当に気が付かないと、神の伝える真逆を伝え

続けているのに、全く気がつけない、イコール聖別を汚すことをしている、神ご自身である言葉を否定し続けている冒涜行為をしている

大罪に気がつけないままになっているのです。

聖書を解説する教師が、聖書に書かれている意味を、正しく理解していない大きな理由は、人が作った宗教の教えを信奉していて、神の言葉の真実に気がついていない、聖書=神の言葉を否定していることに、気がついていな事から来るのです。

宗教文化の教え、人の言い伝え、先祖の伝統の教えを語り、聖書を

正しく理解して、教えていない、語っていないのです。

 

ここでパウロが言っているのは、レビ記11章に記された、

きよめられている〜聖別されている、聖なるという言葉なのです。

神の言葉で聖別された動物は、何かと教えられている、それが

神の言葉でコデシュと教えられている食べ物、人間の食べ物、

それを祈りを持って受け取れば、グノーシス主義の禁欲主義で、神が人に与えた人間が食せるきよい食べ物の、これもあれも食べてはならない!という偽教師の教えから、解放されます、そんな教えなどに縛れれるなかれ!と教えているのです。

 

クリスチャンの解説は、偽教師〜律法〜神の言葉を押し付ける人、今はなんでも食べられるのに、けがれた動物は食べられないという人の教えの事であると、完全に読み違え、勘違いしているのです。

ちゃんと聖書に書かれたことを、書いてある通りに正しく学び、教えられ、神の言葉は絶対に変化しないという、基本中の基本を念頭に置いて聖書を読めば、神の言葉が終了したとクリスチャンが解説している箇所が全て間違いであることに、意味がよく分からなくても気がつけるのです。

そして、そこから、そこに書かれた言語の本来の意味、このような偽、異端思想〜グノーシス主義が当時蔓延していた、裏に在ったその時代の背景を理解すれば、パウロが何を指して、人々に話しているのか分かります。

神の使徒が神の言葉を終了、否定、今はなんでも食べて良い

今はいつでも安息日など、そんな嘘、まやかし、聖書に書いてない嘘を言い続けていることに、ぜひ違和感持つべきです。

 

レビ記 11:44 わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。

わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。

11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

 

人間の食べ物〜きよい〜タホ〜である食べ物と、食べられない食べ物〜汚れた、タメー、アカサトスの食べ物とを区別するために

神が動物に関して教えていると言っているのです。

 

11:47 汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。