どこ迄聖書に記された内容を、人の思想で塗り替え、読み違えているのか、聖書に記された事実から判定、識別できますか?
その人の編み出した思想の土台は、神の言葉が終了したなどという
聖書とは真逆の教えであり、異邦人が1世紀後半以降に作った聖書とは異なる思想が浸透し、信じ込まされてきたのです。
自分が信じて来たことが、実は聖書とは関係のない、聖書には書かれてもいない、人間が作った宗教の教え、宗教文化の産物、慣わし、
儀式や記念日なんて、信じたくもないのものなのです。
当たり前です。
しかも、それらが聖書ではないと言われれば、自分の生き様、自分
自身を否定されていると受け取り、嫌な感じがするからです。
よく考えれば良いのです。どうして、人の編み出した思想を神の言葉であると信じて、一方で神の言葉、教え、記念日を捨てていることに、全く違和感が持てないのか?その方が、変、ズレているのです。
イエシュアが教えてもいない事を言って生きて、祝ってもいない
記念日、人が編み出した伝統の宗教文化を生きている。
神の言葉を否定する思想は、神との関係、イスラエルの神が伝える
本物の神の性質を人に知らせない妨害をする教え、そのものです。
それは、教師〜1世紀後半から出現した異邦人、初代西洋教父というヘブライ聖書を知らない、異教徒背景から来た人たちが、ローマ帝国と同調して、神の言葉=トラー=モーセの五書を否定!終了として
同時に反ユダヤ思想を持ち込んだのです。神ご自身である言葉を、神ご自身が否定し、変更し、終了したという嘘まやかしは絶たれないとならないのです。
そして、混ぜ物の教え〜西洋宗教という、神の言葉を終了と言い
神の言葉、教えではないもの、そして神が創造した記念日を捨てて
自分たちが編み出した、独自の記念日を作ったのです。
この事実に、今世界中の多くのクリスチャンは気がついています。
12月25日、1月7日はキリストの誕生日などではありません!
キリストの誕生日を祝うことは、神の仰せ、教えでもありません!
それらは西洋人が作った宗教の教え、記念日です。
でも、神は神の創造された記念日に神の子らが神の前に出て、
永遠に祝うと教えているのです。
黙示録を読むと、書いてあります。神の教えに反すること、すなわち
それは人間の仕業であり、神に敵対する性質そのもの仕業への警告が書かれているのです。
最初から人間の教えを神の言葉に加えた、人造宗教など存在しては
ならないものだったのです。
人間が勝手に神の言葉を否定して編み出した宗教が作られたのに、
それが神の教えであるなどと、長い年月異邦人の間に浸透し、
信じ込まれ、人造宗教思想が多くの人に信奉され、実践されてしまった歴史の事実があるのです。
神の教えとは異なる、西洋宗教文化の編み出した教え、儀式、祭りや記念日、それらは聖書のどこにも書いてなどいないのに、書いてあるという空想から読み込みし続けて、実践し続けてきたのです。
それが人の言い伝え、伝統の教えなのです。
その嘘に気がついた人は全員、神の言葉に戻る軌道修正をしていることが、世界中で起きているのです。本物、神の言葉、オリジナルだけに戻る!人の編み出した思想、宗教の教えは聖書ではないからです。聖書に記された神の永遠普遍の真実に気がついたら、それに戻るのが当然の軌道修正、行動だからです。嘘には戻れない。進化論は信奉できない。聖書〜神の教えではないこと、どうして神の教えを捨てて、人の教えを生きているの?その不思議に目覚めた人々が今大勢世界にはいるのです。本物、オリジナルに戻ること、軌道修正が起きているからです。それが聖書に書かれた「テシュバ」戻る〜悔い改めと翻訳されている本当の言葉の意味です。元に戻る!神の本当の教えに戻る!人の作った宗教文化の教え〜偽物、本物ではないパン種を全て
除去する。
神の言葉は否定する教えの全ては、サタンから出た教えです。エデンの園に忍び込んだ、最初の最初から、神に敵対するものは、神の言葉を、先ず最初にすり替え、叩いて潰して嘘を擦り込んだでしょう。
ズレ=罪の原因は、全て神の言葉〜本来のデザインに反した生き方を人間にさせる、それが罪=ズレなのです。
エデンの園の最初の警告、忘れてはいませんか?神に言われたことを
人が無視する、神は本当はそういう意味で言ったのではないと考えて
騙されて死が入り込んだ。食べることで死が入り込んだ。
人間の食べ物ではないけど、目には麗しく食べたら美味しいと思っていたのでしょう!
そうです。人は神が創造された生き方と違うことをしたから、死ぬのです。害を受けるのです。破壊されるのです。
なぜ人間が神になり代わり、神の言葉、教えを終了、破棄、変わったなどと言い続けている大冒涜を、イエシュアを信じる人たちが信じて、世界に伝えているのでしょうか?
でも、それも終わりの時を迎えているのです。それは、終わりの時代
本物と嘘ものが分けられる時代だからです。
神の食規定が変わったとクリスチャンが多大に誤解して解説してる
箇所全て、神の教えなど変わったことなど、実は聖書には1箇所も
書かれてもいません!
この箇所も何度か書いていますが、この箇所は、動物=食べ物の食規定が変わったなどということは、語られていない箇所です。
この箇所は、「戒めの律法、先祖の伝統の言い伝え、パウロが隔ての壁」と話している内容は、口頭トラー、文字で記された神の言葉、
モーセの五書の教えではなく、人が編み出した解釈の教えです。
グノーシス主義は、ユダヤ人の中にも浸透したのです。
クムランで死海文書が見つかったことを、多くの人は知っています。
そのグループは、エッセネ派と呼ばれる群れで、カトリックの修道院のような生活をし、結婚をせず、世俗的世界から離れて生きていた
群れです。聖書ではない、彼ら独自の掟、厳しい規定を生きていた。
汚れた異邦人との世界と、全く切り離して生きていた。
それも、聖書とは異なる生き方なのに、そんな思想に支配されていたのです。
様々な「人の負えないくびき」と書かれている、人が編み出した
ルールの中で、人間の教え、掟に縛られて生きていた。
そして、ユダヤ人は、神の教えを知らない異教徒異邦人とは一切交わり、関係を持っていませんでした。
今もイスラエルに行くと、正統派ユダヤ教の黒装束を着た人達は、
異邦人とは目も合わせないようにしているのが、分かります。
ペテロも持っていた当時のユダヤ人の間で普通に考えれていた教えによる先入観、偏見は、異邦人〜汚れた動物、アカサトス、タメー=
汚れている人達だから、ユダヤ人の中では、異邦人と交わったり、
関わったり、ましてや彼らの家に訪問して、食卓を共に囲んで食事するなんて、御法度である、ユダヤ人はしてはならない!というのが、1世紀のユダヤ人の世界だったのです。
汚れた動物を平気で食する、野生動物のように識別ものない、
野蛮人、契約の中に属さない人達などと付き合うなかれ!
ペテロもこのユダヤ人の伝統の先祖の言い伝えやルール、掟に縛られていたことが記されています。パウロにも指摘されていたでしょう。
神の教えではない、人の編み出した教えに縛られることは、誰でも
経験しています。例えば、クリスチャンのグループにある聖書ではない掟、ルールは、その群れにいれば破れないと考えるものなのです。
別の教派のクリスチャンと話すな、交わるなと教える人もいますし、
クリスチャン以外と交わるなと言う人もいるし、リーダーは、神と
イコールの立場だから、彼らの言うことに疑問を持つなとか、その他諸々そのグループ独自のルールやしきたりに縛られているのです。
ユダヤ人は、汚れた人種〜異邦人と交われば、自分自身も汚れるから異邦人と一切関係を持たない、関わらない、汚れた動物を平気で食する、神の前に罪を犯す汚れているコイノスの異邦人とは食事もしない、そのような意識でいたペテロに、神が異邦人〜汚れた動物と
ユダヤ人が言っている人達も、神によりきよめられて、同じ神の家族の一員なのだから、そんな人の教えの伝統の偏見を捨てよ!と教えている箇所が使徒10章の幻の意味なのです。
この箇所をとって、早合点して、食規定が変わった幻を見せられたなどと解説されている定番の箇所ですが、全く間違った読み込みをしていて、書いてある言葉の意味や内容を理解していないのです。
使徒10:10 彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。
そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。
10:11 すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。
10:12 その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。
10:13 そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。
10:14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
10:15 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
この幻ですが、あらゆる動物が一緒くたに、大きな幕に入れられて
降りてくる幻を見たのです。
理解しなくてはならないことは、この箇所で、「屠る」と書かれている言葉は、神の祭壇に捧げるコルバンを「屠る」という言葉です。
神の祭壇に捧げる「コルバン」の動物の条件は、きよい動物〜タホー
人間が食せる動物であり、同時に神の祭壇にそれらが捧げられる
欠陥のない=儀式的にきよい状態にある、その動物です。
そして、そのコルバンは、祭壇に捧げる動物は、どこから来たのか分からない野生動物ではダメなのです。それは、儀式的にきよくない〜コイノスである、そして、コルバンは大祭司が、その動物に欠損がない、祭壇に捧げるに相応しい規定をクリアーしているか判定されなければ、捧げられないと神が教えているのです。
この箇所、全部の野生動物が一緒になっている様子は、異邦人とユダヤ人を表すものです。
ユダヤ人の手洗いの儀式でも分かるように、異邦人と交わる〜触れる〜汚れると考える、汚れたものに触れていたら、きよいものも汚れると考えていたのです。
それが、野生動物、更にきよくない動物=これは異邦人を表しますが、これらが全部一緒になって降りてきて、それを屠りなさいと
神に言われて、ペテロがこう言いました。
「主よ、それはできません。わたしは今までに、一つ食べたことがありません」。
アカサトス、アカサトン〜きよくない動物=人間の食べ物ではない、
神の祭壇に捧げられないものです。儀式的にきよくないコイノス〜
コイノンなものは食べたことがない、当然です。
神が禁じているからそんなものは食べません!そう答えました。
神は、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。
と言われました。
きよめた〜エカサリゼン、これはヘブライ語のコデシュであり、
きよい動物のきよいという言葉と同じです。
清くないもの、汚れたものは、何神の目的通り聖別されて、分たれているという意味です。
異邦人〜〜汚れている動物と考えている意識を、正されているのです。神が聖別したら、異邦人もユダヤ人同様、聖別されている!
と言っているのです。
そして、きよくないとはコイノス、コイノン、儀式的に汚れている〜詰まり神の家、宮に入れない状態であることを表す言葉です。
だから、神に聖別された異邦人は、神がコデシュとされ、神の宮の
一員としてコイノスではない〜神の家に加わるに相応しい状態に神がされた
と説明しているのです。
タメー=汚れた清くない動物が、タホー=きよい動物に、生態が変化することは、永遠にありません。
そして、この幻を見せられた後、ペテロは、一度も食規定が変更になり、けがれた動物もなんでもかんでも、今は食せる〜罪を犯しても良い!と神が教えたなどと、一言も言っていません。神の教えに違反する罪が許可されたなどと語ってもおらず、ペテロがこの幻で神から
教えられ、学んだ理解は、異邦人〜アカサトス、タメーである人々と考えていたが、彼らも神がきよめて聖別=コデシュされ、神の家の一員に加えられた事を神から教えられ、はっきり確信し理解して、
それを人に話しているのです。
このような、読み込み、聖書に書かれている意味とは違うこととして勘違いをし続けているのは、異邦人だからです。
神の教え、トラー、神の言葉、罪の定義が普遍であるという
基本中の基本を理解していない人が曲がった読み込みの聖書解説をし続けているからなのです。
神が罪の定義を取り払う?それならば、神は創造の最初からやり直さないとならないことを、理解しないとなりません。神の創造は完璧です。人がどう生きるか、何を食べて、何を食べるように造らていないのか、そんな簡単なことも、理解していない人は、自分の都合で
勝手な教えを編み出し続けて行くのです。
汚れた動物は、本当に汚いと調べれば良いのです。人間の食するものとして、神はそれらの動物を創造されていない。清掃動物〜超汚い
おぞましいものである事を、知ればそんなもの食べものではないと
分かるのです。
全部自分の都合、屁理屈ということに気がついてください。
当時のユダヤ人なら、そんな発想などはありません。神が人に罪を犯すように教えるわけなどないからです。アカサトス、タメーな動物が
タホーきよい動物に変化などしないからです。こんな当たり前の基礎知識を抜かして、きよくない動物が祈れば変化する、神が言ったら
進化するなどと思い違いして、聖書を人の思想を通して読み込み間違った理解をしているのです。空想のお話の世界です。神はレビ記11に書かれた清くない動物を神の言葉を変えて今はきよい動物になりましたなど一度でも言ったなら神は嘘つきになり、神ではありませんと言う事と同じです。
祈ったら食べ物の性質、カロリーが減るなどと信じているのと同じです。