シャバットの安息 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

古代、ユダヤ人の世界、聖書の世界、神が創造された家族とは、同じ場所に住み、親戚、仲間が1つの大家族、コミュニテイとして街囲みの中、安全な囲いの中に住んで、その中の人たちが皆、神の教え〜トラーを生きていて、長老たちが、皆の安全を守り、そして、子供達にトラーを教えて生きてきた、そんな世界があったのです。

今の世界は、神のデザインとは異なるライフスタイルが、蔓延しています。核家族、鍵っ子などという言葉が、以前日本でも

言われました。それが、普通の日常になっています。

皆バラバラ。

一般的な家でも、朝もそれぞれ起床時間、出勤、登校時間時が

違い慌ただしい。お父さんが夜遅く帰り、子供はお母さんと夕飯を済ませて、寝てしまう。成長途中の子供と過ごす時間がない、

顔を合わせることもない。子供が父親を見て、知らないおじさんだと、泣くというのも聞きました。

単身赴任もあるし、一緒に夕飯を共にするということも、多くの家族にはないのです。

今や子供達が集まって遊んでいても、それぞれがスマホのゲームやチャットをしていたり、以前のように外で体を動かして、楽しく一緒に鬼ごっこしたり、遊んだりなど余りないらしいです。

放課後は、小学生も塾に行き、小さい子供以外は、公園で遊んでいるのは見ないよと言っていました。

そのような、不自然な生活をする、それが現代生活なのです。

 

荒野、ミッドバでは、イスラエルという正式に聖なる祭司の国民となったイスラエルと、そして一緒に出エジプトした少数の異邦人達は、イスラエルの12部族に家族として加えられ、大きな

1つのイスラエルという苗字の大家族として、神の臨在〜ミシュカン=神の宮を中心に、ぐるっと神のミシュカンを囲み、お互いに向き合う宿営方法で、生きていました。

 

イスラエルと異邦人の、ミックス群衆、混合の1つのイスラエルという大家族が、最初から教えれているのです。

神が中心、神の目から全ての人が、神の臨在=ミシュカンを通してお互いにぐるっと向き合った宿営の仕方、生き方を教えられたのです。それは、エデンの園に造られ、植えられた本来の人間の生き方、神の目を通してお互いを見て、顔と顔を合わせて生きるそのものだから、それを教えているのです。

神の言われた通り、神の目から見る通りを再学習する荒野の旅=

聖徒の一人一人の地上での歩み、新しい人として生きる訓練を

それを通して教えているものです。

 

ユダヤ人、異邦人と分ける思想は、聖書を正しく理解しない、

神が人に何を教えているのか理解していない人が考えた教えなのです。人は皆同じ人間!イスラエルは大家族の長男として、代表として選ばれ、神の言葉を書き記し、教え、生きて世界へ伝える役割を与えられたのです。そして同じイスラエルの大家族に加えられた異邦人も、同様に神の言葉を正しく学び、理解し、生きて人に伝える役割を与えられているのです。

それなのに、神の言葉を曲げる、神の言葉を否定する教えを

し続けている、そんなことは、神から許されていません!

神が伝える通り、イエシュアがされた、父の教え、言葉そっくり

そのまま、それ以外のことは言いません、生きません、やりませんと、イエシュアが言われた意味を理解しないとならないのです。

人間が作った宗教の教えを伝達するのは、神の言葉とは違うことを伝達しているのです。人間の思想が混ざった、神の言葉をなし崩しにしている、混ぜ物の教えなど、人に伝えてはなりません。

 

人が1体である事実は、エデンの園から教えられています。

1つの要素〜土=アダマから全ての人が出現した事実を、

理解すれば分かるのです。

西洋宗教〜人の編み出した思想哲学から、聖書を曲げて読んでいるので、神の言葉を書いてある通りに見えなくなっているのです。

神の壮大な修復の業、福音の中心は、元のデザイン、性質に、

全ての人が戻ること!エデン〜喜び=神の中のヌアフ=安息に

生きる。安息とは、神のシャバットで教えられているのです。

何も欠けたものがない状態。そして、人はイエシュア=光=安息の中にだけ、本来の性質で生きることができるからです。

 

1つ神、1つ大家族、そして、その大家族は調和を持って、1つ

同じ神の教え〜イエシュアの性質〜神のデザインされた本来の人間の性質通りを生きることに戻る!

それが書かれているのに、宗教の教えは、神の教えに逆らう、

真逆な思想を語り続け、分裂、隔ての壁を作り続けています。

イスラエルと異邦人は別の群れ!地上と天に分かれて支配する!

これ完全に漫画の世界のストーリー、聖書とは違う、人間の空想の物語を語り続けている、それがデイスペンセーション神学です。殆どの異邦人クリスチャンは、アメリカに20世紀に浸透した、イギリス人ダービーの思想、デイスペンセーション、それが聖書の註解に書き込まれたスコッフイールド註解聖書を、聖書として受け入れてしまった代償を背負っているのです。

聖書ではない教えが、1世紀後半から出現し、手を変え品を変えて、様々な教えを作り出す。その大元は神の言葉をなし崩しにする思想を主張した、西洋教父の教えがその大元の思想が、浸透し続けているのです。その裏にいるのは、蛇の声、神に敵対するものの教えです。

福音は最初から同じです。救いの方法も最初から1つだけ!

エデンの園から同じ!イエシュアを通してだけ、父の元に戻れる!それは、昇天以降初めて可能になったのではない。

永遠の中から完結しているからです。その事実をどの時代の人も、神の言う通りを理解して、信仰で先取りしているのです。

聖霊は、最初から信じる者の内側に住っているからです。

イエシュアの贖いの血の代価、それが子羊の血を通して教えられているのです。鴨居の四方に塗った血。それは、神との関係に入った「血の契り」であり、イエシュアの贖いの血で死が封印されていることを、教えているのです。それが実際にエジプトを出るあの過越の夜で実践されて、教えられています。

異邦人も、イスラエルも、神の言葉を聞いて、その通りにした。

子羊を屠、その血を塗り、種無しパンを作り、脱出したのです。

子羊の血=イエシュアの贖い血で、贖い出された。

その人たちは、種無しパン=マッツア、ハメッツ=パン種、罪が

削ぎ落とされ、彼らが神の言葉を信じた信仰により義とされた。

同じ福音が、教えられているのです。エデンの園で、食べてはならないものを食べた後、神が屠った動物の皮をアダムとハヴァに、神ご自身が彼らに着せた。イエシュアの血の贖いで彼らを

覆ったのです。同じです。神が用意した贖いを彼らは神から受け取った。同じ福音が最初からずっと語られ続けているのです。

 

イスラエルの神の大家族は、神の大家族に生きる上で、神から

条件を提示されていることに、クリスチャンは気がついていないと思います。

神の宝〜セグラ=戦利品の中で最も大事な宝とされた人は、神の

一番身に近い懐に入れられる聖別された宝として保たれるために、その関係に留まるには、神が教える、神に造られた性質通りを、聖別されたこの大家族の中、神の家の中で、神が教える通りを生きてください。

あなたが、それを拒否するならば、神と人と疎遠な関係から、エデン=喜び、神の中から外に飛び出ます。

蚊帳の外の遠くに置かれる。

それが、絶たれると書いてある実態なのです。だから、宗教の

教えを聞くと苦しくなり、縛られ、神との親しい関係が分からなくなる、疎遠になる体験をするのです。

もしもあなたが、私の前、光=イエシュアの命の中、顔と顔を合わせる最も親しい関係に留まりたいと願うならば、神が伝える

通り、あなたの性質通りを生きるのです!と教えているのです。

私達は、神が与えて下さった麗しい生き方、本物の生き方をする

その「契り」を土台とした関係に、招き入れられたのです。

その生き方を捨てよ!と言ったのは、ローマ帝国であり、それに同調した反トラー主義に同化した西洋教父たちであり、その人達も同様に、トラーを生きることを禁じたのです!

神に対する反逆なのです。神に敵対する行為。蛇は悪賢い。

イエシュアを信じる人を通して、嘘を吹聴し続ける。

友人が、こんなことを話してくれました。友人の家族は、大家族で、同じ敷地にそれぞれの家に、三家族が住んでいます。

三世代が住んで、生活している。

聖書の世界のように、近隣は親戚が大勢住んでいます。

そして、家族ということをとても大事にして生きているのです。

トラーを知らなくても、トラーの要素を生きることは、人間本来の生き方ですから、そのように人は生きていた、日本人の古き

良き時代にも、そのようにお互いを守り、助け合う生き方をしていた、多くの人がいたのです。孤独死なんて無い。

そして、その家族は、家族の大事な行事やその他祝いごと、

本当に大事にして生きています。

ところが、結婚で外から入ってきた娘婿は、そのような生活に

全く馴染みがありません。家族の大事な行事、祝い事があるのに、自分は勝手に別のところの遊びに行ってしまった。

そんなの勝手でしょう〜?と彼は言った。でも、大家族に加わったなら、その家族の生き方を生きるということを、知らないとならないのです。

イスラエルの神の大家族も同じです。神は神の子らは、どのように生きて、何を食べてはだめで、何を食べて良いという日常の

事細かなことから、生きる上での全てを、人に教えています。

そして、どの日が神の創造された、神が神の子ら全員を呼び出しているモアデイム〜記念日であるかをはっきり教えています。

神のモアデイム、3つの祭り=ハギムは、全てイエシュアの業、

福音を網羅し、教えている、実際に、それらを祝い、生きる時に

神は特別なことをその都度教えてくださる。神は特別な出会いを

そのモアデイムを守り生きる人に与えると約束しているのです。

 

それを、異邦人の世界では全て捨てた!はじめの愛を捨てていることに気がついていなのです。イスラエルの1つの大家族、

イスラエルと異邦人の混合大家族は、同じ記念日を生きると、神が教えているのに、そしてそれは、契り〜関係を結んだ印、婚姻指輪だと教えているのに、異邦人は、人間が作り出した記念日を

生きていることに気がついていないのです。

クリスチャンの世界で実践されているのは、人間が作った宗教文化の人の言い伝えの伝統の教え、人が作った記念日だと気がついてください。

聖書にそんなものは書いてなどない、先祖の伝統の慣わし、教えを生きているのです。

だから、聖書に書いてある、聖徒全員、イエシュア、使徒、エデンの園を出てから、今に至るまで同じ記念日〜レビ記23章を

祝うように教えられてるのに、神が創造された記念日さえ、

それらが何かも、イエシュアを信じて聖書を読んでいるはずなのに知らない、その意味も、もちろん知らない、祝ったこともないということが起きた、今も起きているのです。

同じ大家族なのに、一人が違反して、自分は別のところに遊びに行きます、自分は別の日に別の記念日をやります。これは勝手な行動であり、家族のシャロームを見出す行為以外の何ものでもない、神はそんなこと喜んで受け取ってなどいない。

イエシュアが再臨されたら、皆全ての人が、レビ記23章の記念日を祝うことを、知らないのだと思います。そう書かれています。永遠に祝われる神の記念日であり、イエシュアが戻られたらすぐに、仮庵の祭りを全世界が祝うために、エルサレムに来る!

と預言されてもいます。

神は人のズレ、罪に忍耐されて、真実に目が開かれるのを待っているだけなのです。神の長い忍耐を甘くみているのです。

それが、イスラエルがやっていた、高きところの礼拝、違反を

1000年近くも、神が沈黙していたことでも、教えられているのです。神が何も言わない、皆が1900年近くもやっているから、それが今は神が推奨している真実だ!などと勘違いしていたら、聖書の真実など見えないのです。

人間が作った宗教文化、教え、記念日を生きている〜聖書ではないことをやっていても気が付かないのは、みんなが、長年やっているから、それが真実だと勘違いしているからです。

聖書だけに戻れば、そんなの簡単に分かるのですが、頭脳が人の教えに洗脳されていると、神が伝えている永遠の真実が目の前に書いてあっても人の教えに塗り替えて考えいるので、それが見えないのです。安息日は、日曜日と、聖書のどこに書いてありますか?安息日は、第7日目!としか、書かれていないのに、空想を信じているのです。

1つ大家族は、それぞれが編み出した勝手な教えや、神の教えを否定したり、神が創造された記念日を捨て、別の日に人間の作った宗教の記念日を祝うように神は1度も教えていません。

 

何曜日に集まろうと、それぞれの目的により自由ですが、

神が指定した日、指定した意味通りではないものは、神が呼び出した日、アポイントメントの日ではない!という永遠の事実に

気が付かないとならないのです。その日に神は神の子らを呼び出していません!だから、日曜日を、聖日、主の日、安息日などと呼ぶのは、神に対する偽りを言っている、無礼、冒涜、嘘、不真実なのです。真実を語らないとならないと、神に教えられているでしょう。

神の子らは、それぞれの生活の中で様々なことをする中、

同じ日に、神が言われた通りの記念日の実態を生きると教えています。

シャバットは、エデンの園、安息〜神の中に住まう本来与えられた生き方を皆が自覚し戻る、その時を持つ。

それは修復のプロセスでもあります。

バラバラに生活してる家族が、その日、その時を神の言う通りにガードして祝うなら、神はその中にいてその家族を祝福してくださる。神の教えをガードして生きる家族は、敵に壊されません。

でも、家族なのに、一人が勝手な行動をし、同じ心で一致して

神のシャバットを祝わないなら、祝福は失われてしまうのです。

神が呼び出している日を人が捨てて、人が作った神が呼び出していない日に熱心になる、それって宗教の教えの実践、伝統の教え

言い伝えを生きているだけ。そんな簡単な事実を、聖書から気がつけないなんて、変だと思いませんか?

気がついた人は、神の言う通りに戻ること、それが神の招いている真実な生き方だからです。

 

クリスチャン達が、神の教えに気がついて、軌道修正したら、

神の言葉を生きることに本当に戻るなら、世界は確実に変わるでしょう。今それが起きているのです。

地の塩、世の光とは、神の言葉=トラーを神の教える通りに生きる、それが目に見えない神の栄光、性質を、地上に実態を反映させる唯一の方法だからです。

神に逆らうことを、知らない間にさせられていたら、嫌でしょう。しかもシャバットを汚すこと、破ること、聖別を汚すことである!と、神が人に教えているのです。

分からないから、神の教えとは違うことを、純粋に熱心にやっているだけなのです。

神を愛する人は、神の言葉〜トラー=イエシュアが教えて生きた通りを、生きる!と書いてある、その言葉の意味をよく考えたら良いのです。人間の教えを生きて、神が与えた祝福、麗しい生き方を奪われてはならないのです。

 

私達は人間が作った宗教の文化を死守するように造られていません。私達は神が造られた性質通りを生きて、神が招いている神のモアデイム〜アポントメント、神の呼び出している日に、神の

シャバット、記念日を歓迎し、祝うように造られているのです。

それが、私達神に造られた人の本来の性質であり、神の中、エデンの中、神と人と一体になれる生き方だからです。

 

Shabbat Shalom