一般的に解説されている神の言葉が変化したと勘違いされている箇所 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

西洋宗教の教えでは、福音はイエシュアが地上に来られた後、

初めて伝えられて、そして、贖い、救い、赦しも初めて現実となり、人の内側に初めて聖霊が使徒2章のシャヴオートの祭り以降

住まわれるようになったという解説をしています。

これは、聖書を正しく読んでいない事による、読み違いです。

そして、イエシュア昇天以降、神が神の教え、言葉〜トラー

モーセの五書に記された教えが破棄された、又は人間の自由選択で今はなんでもありになった、神の創造されたモアデイムが終了し、その代わりに人が創作した記念日が今は神の記念日となり、安息日も、7日から1日に変更になった、これらが神が伝える真実であると、聖書にも書いてもない事を、純粋に本気で信じて実践している事に、聖書を読んでも気がつけないままなのです。

 

全部は人間の仕業です!ローマ帝国の法令、神の教え〜モーセの五書を生きること、処刑、処罰、重税をもって禁じられたのです。それに屈した異邦人信者達は、神の教え〜トラー〜はじめの愛から離れたのです!本物、オリジナルから離れて、そして人の作った宗教の教えや儀式、記念日を祝うような路線に行ってしまったのです。だから聖書に書いてある事とは、違う事をしているのです。

そして、神の教えを死守し抵抗し神殿崩壊で約110万人のユダヤ人が殺害され、9700人がローマ帝国の奴隷となり、他は

エルサレムから追放されて、ユダヤ人はそこから世界へ散って行きました。そしてエルサレムの神殿も異教徒に乗っ取られ、崩壊され、その後エルサレムの名前もローマ帝国により2世紀、

アエリナキャピトリナと変更されてしまいました。

全部西洋であり、ヘブライを抹消する反モーセの五書、反ユダヤ思想からきているものなのです。

その歴史の事実に気がついて下さい。黙示録2:4に警告されているように、ヨハネがそれを書いた当時ローマ帝国の迫害、神殿崩壊があり、そして、異邦人はユダヤ人信者と、ユダヤ人トラー教師の群れから完全決裂し、異邦人の群れ、西洋宗教の教えへ流れて完全に切り離されて現在に至っているのです。

異邦人は、生粋の神の言葉=教え=トラー=婚姻契約=はじめの愛から離れた!その事実が聖書に警告として記されているのです。

ローマ化されたイエシュア、ジーザスは、人に罪を犯しても良いと教える、そんな神像に変身させられて、神ご自身が神の契約を破り、神の伝えた生き方から今は人は自由に解放され、罪の路線に生きることを奨励した。

そんなこと聖書のどこにも書かれていません。

今の世界と同じ、大衆が語る偽情報に騙されて、それが浸透すれば、あの兵庫県知事のように、偽嘘をでっちあげられ追放されそうになった、汚名濡れ衣を着せられたまま、闇に葬られるところを、裏で工作したハーマンと同じ悪事に、悪事をたくらんだ人が

逆に引っ掛かり裁きに合うそんなことが、普通に行われるのが、ズレた人の世界なのです。

でも、嘘に気がつき、正しい情報を得て、そして知事のされて

来た仕事ぶりや人柄を知っている人は、こんな嘘には騙されず

返ってハーマンの悪事に属する人の闇の工作、クーデターに気が付いたということなのです。

イエシュアが申命記に書かれた事を教えた通り、トラーに書かれた通り、神の言葉のどの箇所一点一画さえも否定、削除、付け足す行為は罪、そして神の言葉をないがしろにするように人に教えるような人は、天の中でもっとも軽い、意味のない存在、神の前には羽、ほこりのように軽いとイエシュアが言われた言葉の意味を理解していない異邦人異教徒頭脳で考えているから、聖書に記された永遠普遍の真実に気がつけない、人の教えに洗脳されて、神の言葉は終了した、律法は悪い!などと考えているのです。

律法なんて言葉を使うのはやめましょう。それは、不適切翻訳であり、ヘブライ語ではトラー=神の教え、指導、インストラクションという意味だからです。

神の教えを捨てよ!それこそがサタンの声と気がつきませんか?

いい加減目覚める時、神の警報、ショーファーが鳴る、イエシュアが来られる準備をしている終わりの時なのです。

全てが元、本物、オリジナルに戻る、軌道修正を神がしているのです。だから偽の教えを一掃、パン種除去、異物除去をしない

限り、混ざり物、偽物、姦淫の罪に留まってしまいます。

姦淫の罪〜半分神の言葉、教えに、半分人の教え、異教の神々の

教え、シンボル、偶像、偽の神々の祭りや礼拝方法を混ぜることを聖書で伝えているのです。それらは、神の創造された人の生き方ではない、異物、本物ではない生き方だから、警告されているのです。まがいもの、偽物、コピー品の生き方だからです。

 

マルコ 7:1 さて、パリサイ人と、あるトラー学者たちとが、

エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。

7:2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。

7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の

言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。

7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、

食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。

 

この箇所何度も書いていますが、少し深掘りします。

先ず、福音書の中で語られている事や書簡でも同じですが、

クリスチャンは、神の教えを「律法」と言う不適切翻訳でズレた概念を植え付けられ続けています。神がその悪質、難しい、厳しい律法を破棄したという前提から考えていますが、それは聖書が伝える真実ではない人の創作した嘘の教えです。

「昔の人の言い伝え、先祖の言い伝え、伝統の教え」又はパウロが「戒めの律法」などと書いているのは、全て「口頭トラー」であり、文字で記された神の言葉、教え=モーセの五書の教えの事ではないことを、先ず覚えておいて下さい。

クリスチャンのグループにも、聖書とは違う人の作ったルールがあるでしょう。そのグループの細かい規定。例えば、ある群れは男女が礼拝で完全に右左と分かれた席が設けらて座る。それは神の教えではなく、人の作った戒めの律法、規定です。それと同じだと理解して下さい。ある人は、隣に性別の違う人がいると、

礼拝で気が散るからという考えでやっているのでしょうが、

それは人の発想なのです。先祖、昔の人の言い伝えもそれと同じです。神の教えではない!人の教え!

ある人は、神の言葉を守るために様々に垣根を作り出し、結局

人の考えにより、神の言葉ではないズレた掟、戒めを作り出して、神の教えでもない、ややこしいことをやっていた事が、このマルコ7章に記されている一つなのです。

ここで、語られているのは、パリサイ派の学者が彼らユダヤ人の中にある掟、外〜異邦人の世界と接した後に、単なる手を洗う事ではなく、彼らが編み出した「手洗いの儀式」をしないと、

異邦人の汚れからきよめられない、食べ物が汚れると考えていたのです。

石鹸で手をゴシゴシ洗い、ジャージャー水を流して指の間もよく洗いましょうなんて、そんなのとは違うのです。

使徒10章の動物の幻でも分かる事ですが、ペテロでさえ、異邦人と接触する、イコール汚れると考えていたのです。

イエシュアが昇天された10年も後です。

詰まり人の伝統の教え〜人の教えは人を縛るものなのです。

ある意味分かります。使徒15章で、異邦人イエシュア信者は、

メシアを信じているのに、神の言葉、教えを知らないから、

ずっと汚れた生活をし続けていた事が書かれているでしょう。

 

①異教の神々の神殿で神が食するのを禁じている汚れた動物、

豚をささげ、

②その血まで飲む儀式をしていた。

③異教神に捧げる汚れた動物を、儀式的に苦しめる方法〜絞め殺していた。

これは異教徒が異教神の前に行う残虐な儀式行為です。神の教え、トラーで禁じられている行為です。

④多産を願うため、神殿娼婦と交わる行為をしていた。

 

異邦人イエシュア信者でさえ、神の教えを知らないから、こんな事をし続けている、まして異邦人、異教徒は神の前に汚れた生活をしているから、そんな人たちと交わったら自分も汚れると考えているのは、仕方のない事なのですが、神の目から見る通りを見ていないという事でもあるのです。

 

彼らが問題としていたのは、異邦人が肉や商品を売っている市場で、たとえ「きよい動物」であっても、異邦人が肉を取り扱うと、その肉は汚れていると考えていたのです。

それが、パウロが解説している、異教の神に捧げられた肉は食べられるのかどうかの、議論になっている事でもあるのです。

もちろん、食べられます!でも、信仰の浅い人、神の教えをよく知らない人、弱い人は、その事で罪悪感を持ってしまうなら、

それは食べないままいた方がいいでしょうという事。

同時に、ワインやビールは祝福であり、意識がなくなる程飲むのはダメですが、アルコールは飲んでも良いのです。それこそ、

きよくない動物は禁じられているから、食べないと覚えておけばよいのです。もしアルコール依存症と戦っている、回復途上にある人の前では、飲酒など勧めないし、お酒を出さないというのは、配慮です。その違いなのです。これはトピックが違うので、今は説明を省きます。

 

7:2にある、不浄という言葉は、「コイノス」という言葉であり、一般、普通、汚れたなどと訳されています。

そして、レビ記11章にある神が人に神の創造された清掃目的の動物は、きよくない動物、神が禁じた汚れた動物であり、それらを指す言葉はギリシャ語では、「アカサトス」です。

「アカサトス」=きよくない動物は、聖書に登場する神の言葉、教えを知る人は、誰一人それが人間の食べ物などと考えていません!聖別の定義は普遍だからです。神が食する事を禁じている、

アカサトス=きよくない動物だからです。神はエデンの園から

食べ物を通して、神に属する人、神の内側=エデンに住まう人は、神が与えた食せるものを食し、人間の食べ物ではないものは、人は食べるように造れていない事を教えているのです。日々、食べものを通して、飲む事を通して、そして、生活の全てを通して、神の性質通りを生きて学習するように、神は賢い

レッスンプランを与えているのです。事実、汚れた動物を食するから、病気、疫病、水質汚染、環境汚染につながっているのです。

日本人が、なんでも食べて良いと言われて、犬、猫、ネズミ、

ハムスター、カピバラ、ライオン、ワニ、アルマジロ、ゴキブリを食べる、食べようと考えないでしょう。「アカサトス」である動物を、神の教えに反して誰一人、それらが人間の食べ物として、最初から考えていない、議論などしていないのです。

それと同じく、神の教えを知る人には、神が人間の食べ物、

それはあなたの食べ物ではないから、食べません!と教えているのに、それらが食べれるようなったとイエシュアが教えたなどという発想など、最初から一ミクロンも聖書のどの箇所にも記されていない、その事実からだけ考えて下さい。

この7章で議論されているのは「先祖の伝統の言い伝えの教え」であり、神の言葉ではない教えです。異邦人は汚れている〜コイノスであるから、その人たちの市場の店に行った後、先祖の言い伝えの特別な手洗いの儀式をやらないと、その人の手は異邦人によりコイノス〜儀式的に汚れた状態になっているという主張をしているのです。その手が触れたもの全てが汚れるという主張。

「コイノス」になると、あるパリサイ派の人たちが考えていたのは、神が与えた食せるきよい動物でも、異邦人や汚れたものと

接触したら、それらは「コイノス」汚れたものになると考えていたのです。

でも、イエシュアは、人がたとえ異邦人の市場に行った後、

彼らの人間発想の手洗いの儀式をやらなくても、その手は汚れておらず、食べ物に触れてもその食べ物は汚れないと言っているのです。

ここの議論は、イエシュアの弟子達が、ユダヤ人伝統の手洗いの儀式をせずに食べていることを、批判しているのです。

でも、彼らの伝統の儀式をしなくても、その食べ物は汚れ=コイノスではないと、イエシュアは言ったのです。

人の教えなど実践しても意味ない、する必要などないからです。

そして、イエシュアが「アカサトス」きよくない動物=人間の食べ物ではない動物が、今は清くなったなどというような、嘘、

まやかしの教え、人に罪を犯すように教えてなどいません!

イエシュアもパウロも、神の教えを敗れなどと1度も、教えていません。イエシュアもパウロも、神の教えではない、人の教えは、異邦人と接触した手で食べ物を触ったら汚れるなどというのは、神の教えでもないし、きよい食べ物は汚れない!と教えているだけです。

手洗いの儀式をしなくても、コイノスではありません!と

話していて、「アカサトス」きよくない動物を食べても汚れないなどとイエシュアは言っていません。言葉の意味だけを知ったら、その違いは一目瞭然なのに、翻訳だけ読み、しかも罪の規定が解かれ、神の教えが破棄されたなどいう、神の言葉を曲げている人間の思想、神学、デイスペンセーション神学を通して、聖書を考えているから、神の言葉の意味がその通りに読み取れないままになっているのです。

東京で昔の遊びを知っている人なら、分かりますが、「えんがちょ」というのがありました。えんがちょとは、不浄、汚いという意味ですが、「えんがちょ」の人が誰かに触ったらその人も「えんがちょ」になるという遊びなのですが、それと同じです。

異邦人〜えんがちょに触れたら、えんがちょ〜不浄に触れた人も、えんがちょ〜汚れるから、彼らが編み出した特別の儀式をしないときよめらないのだ〜などという人間の編み出した教えの

儀式に固執していた事が書いてある、そんな人の編み出した教えなど神の教えではないから、やる必要ないというのが、イエシュアのマルコ7章での解説であり、イエシュアが食規定を破棄したなどという、率先して自ら罪を犯すように、イエシュアが人に

教えているなどと、馬鹿げた解説をするのは異邦人だからです。

神の言葉を知らないからです。神の言葉を理解しない人の発想でしかないのです。本当の意味で、聖書に書かれた内容を理解していない事が、大問題なのです。

聖書に反する解説を編み出し続け伝え続けている、妨害です。

それは人の思想を聖書と思い込んで、自分の考え、現代の感覚や基準で、神の言葉を読み込みするような間違いをしていると、

気がついてないのです。

クリスチャンが1世紀のイエシュア信者たちが、異教神の神殿

バシリカで日曜を安息日として礼拝し、誰かが主題説教し、

十字架掲げて、献金募っているという空想をしているのと、

全く同じなのです。クリスマス、イースターなど異教神の祭りが裏にあるのです。そんなこと聖書に書いていないのに、そう考えるのは、現代の自分の宗教体験で物事を考えているから、聖書とは別の空想をして、それが聖書だ〜などと思い込んでいるだけなのです。

この箇所の後、人の伝統の教えで、神の言葉を退けている!と

警告しているでしょう。神ご自身が自分の教えに人が反すること、罪を犯して良いなどと言っていると考える、それ自体が

聖書から遥か彼方にかけ離れた思想、発想だと気がついて下さい。ズレとは、神が伝える人間の生き方からズレること、それが罪であり、人間が食べるものではない!ということは、永遠に

変わらないのに、異邦人は自分勝手な、自分の都合の良いように

自由自在に神の言葉を曲げ続けているのです。危険!

ネズミ、豚を食らうものは神の神殿には住まえないとはっきり

未来預言が書いてあるのに、理解していないのです。

神の宮である人は、この朽ちる体に神=イエシュアが住まわれていることを自覚しなくてはなりません。この体は神が住まう聖なる体、宮であり、汚れた食べ物、動物を取り入れるようには造られていません!と教えているのです。聖別の意味を、日々自覚しながら生きる、練習なのです。エデンの園の罠を思い出す。

食べてはダメ、それはあなたの食べ物ではないから食べない!と言われたこと、死を招いた。

同じなのです。何も変わっていない。神の人に聖別を汚させ、

体を痛め、菌を他者へ、環境へ撒き散らす行為を平気でするのは、神の教えを知らない無知であり、異教徒出身の背景で神の

トラーを知らないで生きているからです。

 

続く