神の言葉を理解しない非聖書的解説を捨てて聖書に書かれた通りを理解する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

歴史の中で起きた出来事は、繰り返し繰り返し出現します。

エデンの園で、一番最初に起きた事、神の言葉〜神が伝える事を

人が疑い、神が伝えた真実ではない別のことをした!

人の性質に反すること〜知識の木から食べるようには造られていませんから、あなたはそれを食べない!と神に言われていたのに、蛇に騙されました。

単純な理由で死、隔ての壁、神が見えなくなった。罪の大元、

元凶は、神が伝えることを人が疑い、神が言ったことではない事をし続けていること!これを、エデンの園からずっと今もやっています。

神の創造された人、世界〜その性質に反する生き方、管理の仕方をしたら、破壊されます。簡単な事実でしょう。

 

それを歴史の中で人は繰り返しています。

これからハヌカの祭りが来ます。今年はその日はちょうど25日になります。これは聖書の神のモアデイムではありませんが、

イエシュアも祝われた記念日です。

ハヌカの記念日の裏にあった歴史の中で起きたこと、これは

異教の神々にイスラエルが汚染され、同調させられ、神の教え=トラーを生きることを禁じられたことから起きた戦争がマカバイ戦争です。これが1世紀後半、ローマ帝国でも同じことが繰り返されたのです。

神の言葉、教えを生きることを禁じ、異教の神々のものと混じった宗教の教えに汚染されて行く道です。反トラー、反ユダヤ思想です。歴史は繰り返されるからです。

エデンの園と同じ。神に敵対するもの〜サタンと呼ばれる性質は、神の性質に反することをさせ、神の教えを生きることを禁じ、人を神の似姿に生きることから遠ざける存在なのです。

 

アンティオコス4世は、エルサレムに進軍して、神の宮、神殿を

奪い、同時に多数のユダヤ人を殺害、奴隷としたのです。

神殿の場所を占拠し、非ユダヤ人を駐留させて監視させ、

ユダヤ人に対して、トラー=聖書=モーセの五書に記された

神の教えを生きること、神の記念日を祝うことを厳禁したのです。これが、2世紀にも同じようにローマ帝国によりされたのです。クリスチャンは、神が神の言葉を廃止したと勘違いしていますが、それは神ではなく、人間、ローマ帝国の仕業です。

そして、神のトラーを生きることを禁じ、それに同調したのが

西洋教父達であり、後に、5世紀にローマ帝国教というローマ教を作り、ローマ帝国の宗教として、神の教えを様々に塗り替え

異教徒達に馴染みやすい教えに変形した!それが人間創作宗教であり、神の言葉に対する反逆違反に基づいて作られた西洋宗教なのです。

マカバイ戦争が起きた時代の紀元前167年に、エルサレム神殿が、ゼウスの神殿とされてしまい、エルサレムのイスラエルの神の家〜私達の天の家を地上でそっくりそのまま表す、神の臨在が住まう神殿を汚れた動物、豚を祭壇にささげ、その血を注ぎ、

異教神の宮に変身させ、神の聖なる宮を乗っ取ったのです。

そして、ユダヤ人にも同様に汚れた動物〜豚を食べるよう強要し、神の教えを捨てて生きる奴隷にしようとしたのです。

 

異邦人である人に、神の禁じた生き方を生きることがどれだけ

屈辱的なことなのか、理解できないと思います。それが異邦人の普通の生き方、文化だから分からないのです。

汚れた物を無差別に食する、神の宮を豚、その血で汚す、神の宮である神が内側に住まう聖なる宮である人のからだを、豚で汚す。これは異邦人にはピンときません。しかも、クリスチャンはなんでもかんでも感謝して食することが、今は良いことだと勘違いして、神の教えを知らないので、この意味を理解できないのです。

マタティアの息子たち、彼の死後に跡を継いだ息子のユダ(ユダマカバイ ユダス・マッカベイオス)がマカバイ戦争を起こして、セレウコス朝からの独立を果たしたのです。

そして紀元前165年12月25日、エルサレムの神殿からヘレニズム的な祭司を一切追放して、異教の祭壇を撤去し、神殿を清め、再びイスラエルの神に、神の宮を再奉納をしたのが、

ハヌカの祭りの背景なのです。

この祭りは、イエシュアもエルサレムの神殿で祝った記録が唯一

ヨハネ10:22-23に記されています。

ハヌカは、再奉献、宮清めの祭りと呼ばれています。

私達神に創造された人達は、別物と混じり合う、同調、同化は

できません。混じったら別物になってしまうからです。

本来の神の宮〜性質である人の実態からずれて生きることになるからです。

クリスチャンの世界では、聖書とは異なる数々の人の作った教えを、聖書、神の教えであると疑いもなく純粋に信じています。

神の言葉が変化したという人の教えを本気で、聖書だと信じているでしょう!聖書とは真逆の教えを信じているのです。

ある部分は聖書の真実、でも、神の言葉を知らない、理解しない人には、神の教えの全貌が見えないままになります。

半分人の教え=嘘を信じて、半分神の伝える真実を信じる。

それが姦淫の罪と神が指摘しているものなのです。

それはあなたの生き方ではありません!と神が教えているのに、

その神の声=言葉は、混ぜ物の教えを信じて生きている時には

聞こえないからです。

神がイエシュア昇天以降、神の教えを変えた、罪の定義を取り払った、今はなんでもあり、今は神のモアデイムはいつでもよい

何曜日でも良いと、聖書に書いてないことを言い続けて実践しています。

 

神の教えは、全て神が創造された人間の生き方を、神が人に伝えているものであり、人を縛り付け試して意地悪をするためのものではありません。同じ人間。猿に人の教えを適用しても生きれませんが、同じ人間に同じ神の教えが伝えられているのです。

長子=イエシュア、その代表であるイスラエルが大家族の長男として神の教えを最初に聞き、学び、伝達するように選ばれただけです。

パソコンを制作した人が、そのパソコンの機能、デザイン、使い方を説明する説明書と同じです。

 

異邦人の大きな欠損は、1世紀後半、ローマ帝国の圧力により

神の教え〜トラー=モーセの五書に記された生き方を禁じられ

神の記念日を生きることを禁じられた事で別方向〜違う教えに行ってしまった事です。神の教えを生きることは、当時ユダヤ人と

異邦人両方に禁じられました。

重税、処刑を持って、神の教えを生きることを禁じられたのです。そして、西洋教父達は、元が異教徒上がりですから、神の

教えをいとも容易く捨てて、モーセの五書否定、反ユダヤ思想に乗り換えたのです。マカバイ族のように抵抗しない。

異邦人も災難を逃れるために、神の教えを捨てたのです。

黙示録2:4はじめの愛=トラー=婚姻契約から離れた!とはっきり書いてあるでしょう。この黙示録が書かれたのはローマ帝国の迫害、神殿崩壊のあたりなのです。異邦人は神の教えを捨てて

離れたからです。

ローマ帝国の圧力に同調したのです。そして、西洋教父達自ら、神の教え、トラーを否定する事を言い出して、そして、その後もカトリックしか16世紀まで存在しませんから、信徒達に、イエシュアが生きた1世紀の人々が知って生きていた生き方と、記念日を祝うことを禁じたのです。本当に彼らは神の前に大罪を犯したのに、そんな人達が作った宗教の思想を今も継承し続けている悲しい現状にあるのに気がついていないのです。

 

聖書を読んでみて、福音書以降に記されていることは、今の西洋宗教で実践されているようなことは1つも記されてなどいません。読めば分かるのです。クリスマスもイースターもない、日曜礼拝など安息日として書かれてもいない。誰一人汚れた動物を食べよ、罪の規定が取り払われたなどというバカな事を言う人、

神に敵対する教えを信じるイエシュア信者、ユダヤ人はいません。

誰一人として、神の言葉が終了したなどという偽物の教え、偽教師、人の思想など語ってなどいません。

誰一人、神のシャバットを汚したり、シャバットを日曜に変更したり、そして、汚れた動物を食す人などいない!

今とは全然違う、かけ離れた世界が記されているのに、気が付かないのです。

先ずは、昇天の前後で、別物の教えや別物の契約や、モーセの

五書に記された父の教え〜トラーを否定した教えが出現したというまやかし、嘘を捨てることです。

こんな人の思想、西洋教父起源の非聖書的教えを信じていたら、神の前に罪を犯してずれていても、まるで気がつけないまま、

自分流の脳内空想メシアを信じるに留まってしまいます。

神=言葉=聖霊=イエシュアであると書いてある事実を、理解しないとなりません。そして聖書の全ての土台、根拠は、モーセの五書以外にありません!聖書の他の箇所、ヨシュア〜黙示録は、

全てこのモーセの五書の解説なのです。

1世紀の人たち、イエシュアも使徒もユダヤ人、信徒全て、

新約聖書などという書は存在していませんし、読んでもいませんし考えていません。もちろん、福音書〜黙示録は、100%純粋にモーセの五書の短い解説、後書きなのです!

聖書の完全版ではない後書き〜だから25%しか占めていないのです。最初の75%が完全版だからです。

得にモーセの五書!これが神の教えの全てです。そして、他の

聖書箇所、預言書、諸書は全てモーセの五書を詳しく解説している解説なのです。

神が神の言葉に敵対し、反し、翻し、変更などしません!

そんな神話、空想思想を捨てないとなりません。

蛇の声が混入した2世紀以降、異邦人の手により真実と不真実が混ぜられて教えられてしまったのです。それは、パウロのようなヘブライ人のトラー学者から完全に離れて、勝手に混ぜ物の教え思想で宗教を作り、実践し続けているから、1世紀のイエシュアや使徒、信者とは違う思想、実践を行っているのです。

何度も書いていますが、クリスチャン達が完全に勘違いして読み込み、イエシュアが語られる言葉とは真逆な聖書解説を施し、

これを根拠に律法〜神の言葉、教えは廃れたなどと、大嘘を信じて発表している箇所です。

当時の宗教用語も知らない、モーセの五書も知らない、そんな

欠損した状態で、聖書を読んでも、イエシュアが語られる言葉は

理解できないのです。1世紀当時の慣用句を使いながら、

イエシュアは語っています。

 

マタイ5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。

廃するためではなく、成就するためにきたのである。

5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

 5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 

異教徒、異邦人には、神の教えは馴染みがありません。神の言葉神の実態、絶対、完全、変化しないという知識がありません。

だから、西洋思想、デイスペンセーション神学、非聖書的思想を

簡単に受け入れられるのです。その方が肉の耳には心地よい、

罪を助長する路線の広き門だからです。

神が伝えることを、神の目から見ることを知らない、学習していない人の思想だからです。人間発想の思想を土台に聖書を読んだら、神の言葉の事実など見えませんし、簡単に神の言葉の方を

人間が最も簡単に曲げることをしているのです。愚かしい行為だと気がつきませんか?神が絶対であると知らない人間にしか過ぎないのに、神に成り代わった行為をしているのです。

謙りとか謙遜というのは、それ以上それ以下ではない。人は人

神は神という絶対の事実を認めること以外にないのです。

礼拝でひれ伏すという行為は、神の前に完全ゆだね差し出し

完全降伏した状態、神が絶対である権威を表する行為なのに

人は、その真逆、神の前に立ちはだかり、神の伝える真実を妨害し、遮り、人の思想を神の教えとして語り続ける行為をしているのです。神の言葉聖書に戻ろうというなら、本当にそうしなくてはならないのです。

マタイのこの箇所、廃するためではない!と書いてあるのに、

どうしてクリスチャンは、神の言葉が破棄されたなどと言い続けるのですか?この箇所の「廃する」とは、神の言葉の意図通りではない、ズレた理解をして、ずれて生きることを指しているのです。当時の慣用句でもあるのです。

廃する〜神の教えを曲げて伝えるためではない!

どうしてイエシュアがそう言ったのか見えてきます。

当時、「先祖の伝統の言い伝え」、「律法の戒め」などと読んでいる、当時の人が考え出した、トラーの解釈で、神の教えとは異なる様々な掟を編み出して、それを生きることを人に強要していたからです。それを、「負えないくびき」とイエシュアも説明しているのです。詰まり神の教えではない教え、人が編み出したルール、掟です。手洗いの儀式もそうですし、当時ユダヤ人は異邦人と交際、交わり、関わってはダメ!という掟もその1つです。

それにペテロも縛られていたので、使徒10章のまぼろし〜汚れた動物=異邦人も、神にきよめられているから、人の伝統の教えを恐れて縛られるな!と教えたのが、その幻の意味なのです。

清くない動物を食べろ!など神は絶対に言いません!

そして、「成就」という言葉は、クリスチャンは、成就イコール終了だから、今は関係ない教え!などと、とんでもなく聖書の事実に反した解説を堂々とし続けていますが、知識の欠落による

誤解の読み込み、又人の思想の汚染された結果の発想なのです。

「成就」とは、ヘブライ語では、固く永遠に確立するという意味の言葉、「クーム」です。

神の言葉通りを正しく理解し、生きて固く確立させる、神の伝える実態通りを生きるという、当時の慣用句としても使われているのです。詰まり神の言葉を正しく理解し、生きたら、それは神の教えを永遠にその人の中にイエシュアの似姿通りに固く確立させる生き方に導かれるから、そのように表現しているのです。

異邦人の問題は、1世紀当時の人、パウロのような学者や使徒

人々が理解している聖書の理解がないこと。それは翻訳だけに

頼り、聖書に本当は何が書かれているのか教えられていないこと。人間の編み出した思想〜神の言葉終了ありき、別物の教えが語られているという空想から、考え続けていること。

そして、ヘブライ聖書を殆ど知らない人に学んでいること、翻訳聖書だけを頼りに人の思想、空想を通して聖書を考えていること、それが大元の問題なのです。そして、聖書の土台となる考え概念が欠落して、混ぜ物の教えを取り入れていること。

本当に邪魔な幕、真実に目が塞がれてしまう覆いを通して、聖書を考えているのです。

 

続く