神の言葉に敵対することは神ご自身に敵対する行為である | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書は最初から最後迄、同じ福音、同じ教えが語られています。

創造の冒頭から、イエシュア〜光が語られています。

 

福音とは、神の中に存在し、神の性質どおりに造られた、神が

見ている通りだけを人も同じように見ることができる、その本来の創造の実態に戻ること、神の中に取り戻される実態を得て、

新しくされた人を再所有し続ける、それがこの世の旅路なのです。約束の地を所有する〜エデンの園の生き方を自分の中に再所有、再学習する、それが聖書に書かれていることです。

 

別物、偽の自己像を学習してしまったズレから、神に運ばれて

出エジプトさせられて、本来の自分〜自己像〜新しくされた本当の自分を知り、再所有する、それがこの世の旅路なのです。

罪人、罪人と、人に罪悪感を与え続ける教えは、蛇の声です。

神はなんと言われましたか?雪よりも白く、全てが新しくなった!それは永遠の中に屠られた子羊イエシュアの血の贖いの業により私達は、イエシュアの命の代価で新しくされた!その事実を

知って、それを生きる!それを神から教えられているのです。

 

ズレ〜罪がなぜダメなのか。それは本来の私達の性質ではない

神との隔たりを作るものであるから、それを取り入れ生き続けていたら、神が与えようとしている本来の祝福に満ちた神との関係の中、安息の中に入れないからです。

ズレ、罪を、子羊の血の贖いの代価、血潮で一切きよめてくださった。新しくされた。でもその新しくされた事実を、生きない

限り、新しくされた人として学習、行動を身につけられないのです。だから、頭脳=レブの一新により、神の目から見ている通りを見て、それを生きて!とパウロも教えているのです。

エデン〜喜び〜神ご自身の中に造られ、神と顔と顔を合わせて

見えない世界と見える世界が1体の園に植えられた、神の中に

私達は植えられて、そしてそこに生きるようにされたのです。

でも、エデン〜喜び、神ご自身の中、場所=本来人が生きる場所から、飛び出してしまったのは、神の言葉を拒否して神が食べてはダメ、それはあなたの食べ物ではないよ!と警告されていたものを食べたから、この単純であり、なんでこんな事で死ぬの?と

思うことの中に、実は命につながる重要な鍵が、神から教えられているのです。

不思議でしょう。どうして食べたらダメなのか?

それは、人の食べ物ではないからです。どうしてシャバットを

汚すことは命に匹敵する重たいズレ=罪なのか。それが本来神に造られた人間が、神との特別な会見を体験、生きるように、その日に神と特別に出会うために、神が造られたからです。

人間の考え、理屈なんて意味ないのです。創造主である神がそう言われたら、それが永遠の真実だからです。それ以外にない。

人は神に聞く、シャマする以外に本当のことを知って生きる術はないからです。

そんな難しいことではない。神が造られた性質とは違うことを

する、神が教える事とは違うことをする、それが全てのズレ=罪の原因なのです。

ガソリンで走る車に水を入れたら、壊れます。それです。

それなのに、人間は愚かにも、神の言葉に逆らい続けることを

今もなお平気で言い続け、し続けて、それが義、正義だと思いこんでいるのです。

聖書の土台になる知識がない 神の言葉ではなく、人の思想を

土台としているからなのです。神の言葉は永遠、完全と言いながら、どうしてクリスチャンは別のこと〜神の教えを捨てて人の

編み出した宗教の教えを実践し続けているのですか?

 

ある人が、福音書以降、クリスチャンが新訳聖書と名付けていますが、新訳の中のこの箇所では、旧約が語れていますなどと

解説していますが、福音書〜黙示録を書いた著者には、新約聖書などという物、タナック〜聖書の土台、神の教えの全ての中心であるモーセの五書、モーセの五書の解説である、預言書、諸書以外は、存在しないのです。そして彼らは全て100%モーセの五書の教え、その解説である預言書、諸書だけを指して語っている事実に気がついていない人が解説しているのです。

 

新約聖書とは、シナイ山の婚姻契約とは別物の新しい契約でも、モーセの五書とは別の教え、モーセの五書を人間の判定で変形、削除、付け足しするような教えでもありません。

福音書〜黙示録には、モーセの五書を終了、破棄した教えが書いてあるのではありません!別物の救いや贖いが書いてあるのではない。最初からエデンの園から、創造のはじめから、同じ福音、同じ救い=イエシュアしか語られていないのです。

そのような人間の教えが伝達されてしまった誤情報、偽情報から聖書を解説し続けているから、聖書の真実とはかけ離れた人の

作った宗教思想を語ってしまっているのです!

このことに気がついたら、見えてきます。

何が神の言葉に手を加え、変形させた解説、翻訳なのか、はっきり分かります。

そして、イエシュアが来られた1世紀当時には、既にギリシャ

哲学思想が入り込み、宗教〜先祖の言い伝え、戒めの律法〜人が

考えついたモーセの五書の解説が、既ににユダヤ人の中に存在して、神の教えではない様々な教え、規定、人が負えないくびきを

他者へ要求していた背景があるのです。

パウロも書簡で、福音が別物に変えられている、偽教師の教えに

注意せよと警告しているでしょう。それがずっと続いているのです。偽の教え=神の言葉とは異なる異物の教えのことです。聖書に記されていない教えは神の教えではない、その基本中の基本くらいは、理解しないとならないのです。

それら偽情報、偽の教えが何か、1世紀当時の宗教事情を知らない場合には、何を福音書〜黙示録で述べているのか、正しく理解はできないのです。だから、聖書とはかけ離れた、神の言葉自体を否定、終了する解説がクリスチャンの間で語られているのです。人の編み出した思想に、神の言葉が汚染されたからです。

歴史の途中で、人間が神の言葉に手を加え、宗教という物を作り出してしまいました。だから、西洋宗教というのです。ヘブライ

イスラエル=ユダヤ人メシアイエシュアではない、西洋宗教の西洋化、ローマ化した違う神、メシアが語られている。

彼ら異邦人が語る教えは、ご自身がご自身の言葉を削除、否定、終了されたなどという、空想話を土台にしているのです。

聖書〜神の言葉〜トラーを土台とした教えではない、神に敵対する教えを土台として語るものです。ユダヤ人とて海外で西洋宗教神学思想、デイスペンセーション思想に染まれば、真実は見えないままになります。

 

これは何も2000年前に初めて起きたことではありません。

聖書の最初を読めば、最初の人アダム、イエシュアの性質どおりに造られていたのに、その人が神の言葉に反することをしたでしょう。

それがずっと今も続いているのです。ノア、アヴラハムが呼び出されて、そしてエジプトで430年、本物の神に仕えることができず偽物の主人、王に支配されていたイスラエルがエジプト脱出した後も、直後に偶像礼拝をやっているのです。

それは、エジプトで培った偽の神々への礼拝方法を学び、イスラエルの神が教えたこととは違うことをする、それを学習して、考え、行動する事をずっと繰り返しているのです。

高きところの礼拝を、イスラエルはし続けたことが書いてあるのは、私達への警告なのです。

高きところの礼拝とは人間が、自分で考えた宗教という物を作りイスラエルの神の教えの中に別の神々の教えを混ぜて、神が伝えることではない方法、自分たちの方法で神に近づくことをずっとしているのです。

それを神は姦淫の罪!と人に伝えて、最も嫌悪する言葉で、忌み嫌うと人に教えているのです。

なぜなら、それはイスラエルの神の性質に反すること、神の似姿に造られた人が神に近づく方法ではないからそんなのでは、本当の意味で神の前に近づけないからなのです。

隔ての壁ができてしまうからです。

夫に近づくのに、同時に別の夫を引きずってやってくるみたいな、そんなの異常なやり方をしているからです。

別物連れてこないで。

純粋に、神の性質どおり、神と関係を持つ!別物を持ち込まない。それが、聖書にはずっと書かれています。

神との関係を隔てる邪魔もの以外の何ものでもないからです。

 

唯一地上の神の家で大祭司になれる、レビ族であり且つ、アロンの家系の子供達が、初めてミシュカン=移動式神殿が稼働する時に、神が伝えた通り、神が天から下した火で祭壇に捧げ物をするのではなく、自分の手でおこした火を使い、その場で即座に死んだことが記されています。

それを読んで、「怒りの神〜!」などと言うのは、神がどなたか

理解していない人の発想です。

神と人とはそれほど隔たりがある、神が聖なるお方であり、人間が人間が編み出した方法では近づけないお方であること、

はっきりと教えているのです。

自分が理解できないことでも、神は正しいことを人に伝え続けているのです。

詰まり、神は人が勝手な方法を編み出して神に近づくことなど

許可していないし、それは偽物!だから、やめるということ。

神が伝えた通りを生きる。

それが神に造られた人間の本来の生き方だからです。

今はなんでもありですなんて言う創作の教えは、ニセモノの教えであり、聖書でもなんでもありません。

神はそんないい加減なこと、人に1度も教えてなどいません!

 

聖書の中でクリスチャンが多大に誤解している箇所、神が神の言葉を変えた、罪の基準を取り払ったなど、聖書のどこにも書かれていないのです。聖書を完全に読み違えているのです。

ここまで偽情報が蔓延すると、本当に土台から、1から聖書を

正しく知らない場合には、どんな教えでも編み出すことは可能です!全部分からなくても、これだけ覚えておけば良いです。

聖書のどの箇所も、100%モーセの五書を語っています。

モーセの五書=父の教えだからです。

そして、神ご自身であられる言葉を、神は否定、終了などしません!イエシュア=言葉=聖霊と覚えておいてください。

それが聖書に記されているのです。

これは永遠普遍で、歴史の途中で変化などしません!

変化すると思い込んでいる場合、神は永遠に変わらない、神の言葉は永遠に廃らない!という、神が伝える真実を、その人が信じていないで、人の思想を信じていることに気がついてください。

 

クリスチャンの世界では、イエシュアが教えていた通り、1世紀の人たちが生きていたこととは違うことが教えられています。

だから、聖書には記されていない教えを聞かされて、聖書にはない、神が創造された記念日を捨てて祝わず、人が作った宗教の記念日を純粋に熱心に祝っていることに気がつけないのです。

それは伝統で長年継承、実践されているから、気がつけないのです。神の教えや記念日を、変形しているのです。それは聖書ではない!神は今はなんでも良いなんて、そんないい加減なこと言いません。

なぜならはっきり聖書には、神の記念日を捨てること、イコール

命に匹敵すること、聖別を汚す行為であることがずっと記されているからです。イスラエルが約束の地からなぜ追放されたのか

読めば一目瞭然!神の伝える事を汚して、別物を生きたから。

エデンの園=聖別された生き方ではなくなったから、そこに居られない状態に陥ったからです。

祝福を奪われていることにも気がつけないほど、遠く神の教えから離れた思想を聞かされているのです。

もし、イエシュアが父の教え=トラー、モーセの五書に記された教えのどの教えも違反して良いなどと教えるならば、それは神が人に罪を犯すことを伝え、奨励していると言う、まるでサタンと同じことをイエシュアが人に対して教え、しているのだと言っている、その嘘に気がついてください。

車にガソリンではなく水を入れること、壊れること、神が創造された人の生き方とは違うことを、神は人にするようには教えません。

異教神の世界に生まれ育った異邦人は、創造主が厳しい教えから解放したのだなどと、とんでもなく非聖書的な発想をしています。イエシュアが来られても、人間は神が創造された性質を

変化させることなどできません!!こんな当たり前のことが

分からない、それが宗教が作る盲目なのです。

神は人に神が創造された人の性質、生き方を教えているのです。

それを聞きたくない人、エデンの園のアダムのやったズレを繰り返すだけです。危険。神を愛していると思いながら、同時に神に

敵対すること、神が忌み嫌う事を言っている、やらされているのに気がついていないだけなのです。

だから、果てはLGBTQもOkなどという牧師、教師、教皇までもがそんなこと言っているのでしょう。

神のデザインに反すること。なぜノアの洪水で全てがリセットされ、ソドムとゴモラが硫黄の火で焼かれたのか。

ローマ帝国が滅びたのも、LGBTQです。

人間のデザインに反すること全て、どのみち人を破壊するものだからです。それが罪の根が広がり、人をどんどんズレさせ破壊させて行くのです。神から遠く遠く離れさせてしまうのです。

来るべき世界で、このような神の教えに反することを言う

しかも教師、どんな結末が待っているのか考えていないのです。

人を誤りの道へ導く、神の教えとは違うことを教える!

聖書に基づき正しく考えていないのです。

 

福音書以降には、別の教えが記されているという神話は嘘です。

誤解している箇所1つ1つを、再検証し直す必要があります。

 

クリスチャンの世界が語るように、福音は突然、イエシュアが来られて教えられ、救い、贖いが実現したのではありません!

永遠の中から完了、完結しています。親である創造主は、私達に

最初から永遠から、ミケダム〜何もなに始まりの前、神の中に

存在させてくださった、その事実からだけ考えてください。

西洋哲学、歴史線上、時系列に物事を見ている限り、永遠の世界

見えない世界から語られている神の言葉の真実など見えてきません。まして、翻訳聖書だけ読む場合には、益々神の語る言葉の

事実が見えないのです。だから正しく手引きできる教師が必要だと書いてあるのです。

1つ1つクリスチャンの世界で、聖書の意味とは全く違う解説

それらの箇所を通して、律法は廃れた〜などと主張している

そのズレ、間違いを検証して行きましょう。

律法〜聖書には神の言葉を指して「律法」などという言葉で書かれている言葉は実は1つもない事実に気がついて下さい!

不適切な翻訳が人の中に、神の言葉に敵対させる間違った思想を

植え続けていることにも、はっきり気がついて下さい!

善良な人に向かって、あの人は前科者と言ってしまったら、それ以降、その無垢で純粋な人を、「前科者」という目からしか見れなくなるでしょう。律法、廃れた、怒りの神が変身して恵の神に

なったから、律法=厳しい教えを破棄した!こんな大嘘、神の言葉に対しての最大の不敬を言い続けていても、な〜〜〜〜にも

その嘘に気がつけない、その盲目状態から脱出したら、神の伝える本当の麗しい真実が初めて見えてくるのです。

神が造られた本物の人、人と神との麗しい関係、人と人との麗しい関係!神の言葉で教えられているのに、人間がそれを破壊し続けている!これに気がついて下さい。

 

続く