聖書〜神の言葉を、人間が手を加えて、改ざんした宗教の教えと混ぜて考えるのを、全部やめれば、真実は見えて来ます。
人の編み出した宗教文化、伝統、聖書とは異なる異教の神々の
シンボル、儀式、祭りが混ざったものではなく、それら高き所の祭壇で混ぜ物〜異教神のものと、全く混ざったものではない、
イスラエルの神〜創造主が伝える事実からだけ考えるのです。
人は最初から、神の言葉〜教え〜伝える事に反することをして
ズレてしまった代償があります。
性善説、性悪説などと言いますが、聖書を読めば、神が与える
答えが、はっきりと書いてあります。
創造主を知らない人には、分からない摩訶不思議な事実が、聖書には記されています。
人は、神の似姿そっくり、神の性質どおりに造られた!
神の性質どおりを生きる人間を、地上で人々が初体験したのは、
イエシュアを通してです。
トラー=神の言葉が肉体を取って来られた!と書いてあります。
神の言葉そのままが、肉体を取って、地上に来られた。
それがイエシュアです。そ=して、アダムは、イエシュアと同じ
そっくりそのままに造られた事実が書いてあるのです。
人は、神の似姿そっくりに造られたと書いてあるのです。
人は初めからズレ人として造られたのでは、ありません。
全ては、本来の人の性質ではない、別物を学習した結果です。
日本語では、何というのか分かりませんが、英語では、feral childrenと言って、その子供達に関する研究がされています。
野生動物に育てらてしまった人間の幼い子供は、その動物どおりに行動して、まるで狐、犬、狼のように動き、走り、飛び、振る舞い、助け出されても、普通の人として矯正できないまま、動物のように生きてしまうことが、報告されています。
詰まり、人は自分の性質とは違う別物を学習して、別物の生き方をするということなのです。
それが、罪の代償なのです。本物の自分ではない、自分を学習し
脳回路に別の性質の人を生きることをインプットし続けているのです。
人は何をしたから、本来の性質からずれて、偽物を学習したと
書いてありますか?
神が言われたこと〜神が造られた人の性質ではないことを、別の教えを聞いて騙され、それを食べるように造られていないものを、食べた!これをずっとしているでしょう。今も。
それは、食べ物だけではない、人の編み出した宗教の教えも別の食べ物〜人が食べるべきものではないもの、それを食べ続けているから、ずれていくのです。
神は、「あなたは〜を食べるように造られていません。あなたは〜神の言葉どおりを聞いて、生きるように造られています。
あなたは、〜するように造られていて、〜するようには造られていません。」
実は簡単なことなのですが、人は全てを難しくして、そして、
自分に馴染みのないこと、そして自分が理解できないことを、
簡単に「悪」と判定し、神の教え、指導を律法などという不適切な言葉で解説し、神が教えていることを、拒絶し続けることが
今の時代の善などと、とんでもなく人の性質に反する教えを
疑いものなく受け入れ、信じ込んでいるのです。
これを、騙し!というのです。エデンの園の騙しと全く同一です。
神の言葉は異邦人クリスチャンが考えるように、変化しません。
神の創造された創造物も変化しません。あなたが変化、進化していない、天と地が今も存在しているなら、永遠に神の言葉は
廃らない!という言葉をなぜ言われたとおりに理解できないのか、自分に問うてみればよいのです。
神の言葉を遮り、否定し、変化させ、別の教えを編み出した宗教の教えは本当に邪魔です。神が伝える永遠の真理に対して、
人々を完全に盲目にしてしまうものなのです。
今の世界の偽情報、マスメデイアがこぞって流す、偏重報道と
全く同じです。彼らは意図的にやっていますが、1世紀後半の
教師達も同じです。ローマ帝国の圧力に同調し、そして、神が
伝える神の言葉に付け足し差し引きするなかれ!を真っ向から
違反、反撃した。
こんな教師に学んでしまったから、神が伝える永遠の真実が目の前に書いてあっても読み取れない、見えなくなったのです。
人は神の伝える真理だけを食べて生きると、神が教えています。だから人が編み出した偽、嘘の教えを食べ続けたら、人は必ず
ズレます。神が伝える罪が罪とも分からなくなります。
それがずっと起きているのでしょう。
そして、それらは程度の差はあれ、人をどのみち破壊します。
エデンの園、この実を食べたらダメ!今もこれはあなたの食べ物ではないよ!と言われて、どれほど異邦人は抵抗感じますか?
それは、汚れたものを無差別に平気で取り入れ食する文化、
育ち。神の言葉教えを知らないからです。
そのような異教徒の世界の文化にどっぷり馴染んでいるから、
分からないのです。ゴミ、死骸、腐敗物、菌、ウイルスまみれ
そんなものを食べる清掃動物は、人間の食べ物ではありませんと神が教えているのに、律法は廃れたなどと人の教えに塗り替え、神の宮である自分の中に、率先して神が禁じる毒、害を取り込んでいるのです。
そして、神は日常の食べるということ、エデンの園と同じ、
それらを通して、神に聖別された人がどう生きるのかを教えているのに、神の教えを捨てる人には、聖別の本質が見えない、分からない、理解していない、神を愛しながら罪、汚れに染まっても
気がつけないのです。
暗い部屋に灯りがついたら、神の言葉に照らしたら、自分の行動
他の全ての人、皆が普通にすることが、実は神の目には悍ましいことであること、自分の聖別〜神の宮の中に住まう性質を汚すものであることが、はっきり認識できます。
神に言われたこと、神が最も忌み嫌う〜嘘、偽、異教神の教えと
混じる混ぜ物を、姦淫の罪と言っているのです。
それが分かれば、そんなことしたくない、それは、神に造られた
本当の自分の性質に反する生き方であると神が教えているから、神の言葉を遮る愚かなことはできなくなるのです。
愛とは、契約の愛です。神の言葉を重要視し生きること、夫に
忠実である愛が、愛と聖書には書かれているのです。
ふわふわ感情の愛ではありません。わたしを愛する人は、私の
言葉〜トラー=契約の中に記された生き方をガードして生きる!とはっきり書いてあるでしょう。
クリスチャンは、聖書の最初の75%など、書いてある意味どおりには教えられていない、西洋教父が作った教えを聞いているので、福音書〜黙示録には、モーセの五書の抜粋が書かれているという事実に気がつけないのです。最初を知らないからです。
聖書の最後の25%ほんの短い箇所でしょう?それは、聖書の
最初の部分に、神の教えの全てが書いてあり、福音書以降は、最初の箇所の短い後書き、解説にすぎないからです。1つもモーセの五書=父の教えに反したことなど、聖書のどの箇所にも記されていません。記されていると勘違いしているのは、それはそのように解説する人間の教えを聞いているからです。
聖書は最初から同じことを話しています。
最初に登場した、「光」は物理肉眼の光ではなくイエシュアそのもの。それが書かれています。
神の顔、光〜目に見えない神の実態の中に植えられ、住まう、
そのことをずっと最初から話しているのです。
エデン〜喜び、神の中から外側に飛び出して、隔ての壁の向こうに閉じ込められた、そこから神の中に戻った、それが福音です。
でも、その神の実態、光、エデン=喜びの中、神の顔の前に住まうということを、どれほどの人が本当に知っているのか?と
書いてあります。
神が与えるものは、この世のものとは違う、極上〜人の性質そのものを生きる、エデンの源泉なのです。
アヴラハムもヤコブも何度も、神の現実に遭遇し、このエデン〜
喜びの源泉を知ったことが記されています。
創世記28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
28:17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。
天の門〜狭き門。天の神の宮の神殿の中!神ご自身と直結し
エデンの中にいた状態の喜び、命溢れる、人本来の性質を取り戻す、自分が本当にそれを知って保ち続けているのかなのです。
神の中=天の現実に今贖われた人はいます。
そして、神も私達の内側にいるのです。
それを本当に知るように。知る=婚姻関係のこの顔と顔を合わせる、これ以上親密な状態はないという状態の知るなのです。
だから、神が出エジプトした人たちに、「宝」となると言ったのは、神の懐の中に大事に保たれている宝になる!という意味で
伝えているのです。密着。これ以上の近さはない、近い。
腹の中、胎内の中にいること、憐れみとは、胎内という言葉と
同じです。神の中にいる。
詩篇27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
宮〜イエシュア〜神ご自身の中、天の家の中、そして人間ではない、人間の想像をはるかに超える、神の麗しさに人が触れたら
もうこれ以上の祝福、満足、幸いはないから、こう願った。
実は人が欲しているのは、ここに書いてあるこの現実なのです。
人との関係でも、単なる知り合い、会話ではなく、その人自身の
深いところに触れ、共感して喜びを共有できるのを知っているでしょう。
その関係で一番深いのは、夫婦です。
でもデザインどおりの関係ではなければ、疎遠な仲なのです。
神との関係も、婚姻関係で表されています。それは、それ以上の親しい関係は、人間関係の中にないから、それを通して神は神との親しさにある意味を、教えているのです。
何も隔てがない。闇もない。神の光〜イエシュアの中に存在する
事実で神と毎秒向き合う幸い。
神は神の子ら全員と会見を持つ特別なモアデイム〜アポイントメントの日を、創造されたのです。
神が創造された記念日が、神が聖別し祝福し、神の子らを呼び出している特別な会見の時です。
だから、異教徒は誰も、神の創造された記念日〜モアデイムを
祝わないのです。
聖書は全て、契約、これは契約という言葉は、日本語では本来の意味を正しく表さない言葉です。
英語ですと、covenantとcontractとは別の意味を持ちます。
ヘブライ語ではブリットです。日本語だと、「契り」という言葉がピッタリかなと思います。
聖書は、全てこの神が与えた「契り」を土台に全てを語っていて
神との関係も、この「契り」を通して生きるように教えているのです。でも異邦人クリスチャン〜西洋教父達は、この意味を理解せず、神の言葉を捨てるように教えてしまったのです。
これは聖書の教えでは、ありません!蛇が忍び込んだ!エデンに
忍び込んだ蛇と全く同じ働きをしているのです。
そして、神はそれを許された理由があるのです。
エデンの園にも、なんで蛇など舞い込んだの?それは人には
分からない。だから、西洋宗教の教えが蔓延したのも、それと
同じです。でも神は全てを元に戻すことをしているのです。
聖書には、人間が作った宗教の祭りなど、日曜礼拝、
クリスマス、イースターは記されていません。
誰もそんなことを考えてもない、知らないものです。
ここに書いてあるのは、神の祭り、これは秋の祭り、テルア
角笛を吹くという言葉で分かります。
翻訳では、分かりませんし、神の祭りを祝わない人、クリスチャン達にも、何を言っているのか分からないのです。
私も、ここに書いてある意味が分かりませんでした。
声と訳されている言葉は、テルアであり、第七の月の1日の日が
ヨムテルア、角笛を吹く日であり、これを聞く民は幸いと書いてあるのです。
み顔、光、イエシュアです。
詩篇89:15 祭の日の喜びの声を知る民はさいわいです。