天の御座 神の中にあるシャバットの安息 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

毎日大きな変化はない、平穏無事な時期もあり、突然色々な災害災難、病気、家族の死、家族の崩壊、不慮の事故、怪我、火事、

人生の進路の突然の変化など、人生の旅路では、何が起こるのか

人間には予測不可能です。

何事もありませんように〜と、人が神々にお願い、祈願するのは、それでしょう。

この一年も、日本では元旦から大地震が起きて、今もそのまま

復旧が進まず、再び冬を迎えてしまいました。一年、先が何か分からないまま、大変な暮らしをしている人がいる。

得に、高齢者など今迄の平穏な生活基盤を一切奪われて、どんなに気落ちしている事でしょうか。

昨日は、WWⅢを思わせるロシアのミサイル攻撃など、年末に

向けて、日々毎日予想不可能な出来事が起きています。

人間の肉の目から見たら、何も理解できない事が、この地上では

起きます。誰も避けられない。

そして、永遠の中から、神の計画は変わらず、神のプラン通りが進んで行きます。

この世にあっては、枕するところはない。でも、創造主の元に

戻った人には、目に見えない現実〜天の御座〜神の家の中に

既に戻っている、住っている、その現実があるのです。

そして、その事実から、同時に今の地上の歩みをしている。

聖書の中には、ずっと同じ事が書かれています。

 

エデンの園に、人は置かれました。エデン〜喜び〜神ご自身の中に人は存在するように造られました。

エデンの園では、人は神と顔と顔を合わせていた〜向き合っていた、直接神から語られ、教えられて生きていた。神との間に何も隔たりのない、壁のない、直接神の臨在の中に居ました。

そして、神に創造された人も、先ず最初にお互いに出会った状態は、顔と顔を向き合った状態で、出会いました。

神が二人を、向き合って一体として生きるように造られたからです。アダムの骨=要素から、ハヴァは造られた。それが人間の

デザインです。男と女として造られた事実破壊する、神のデザインとは違う事をする、それが神に敵対するもの〜サタンの実態です。

人は、神のデザインを決して変えられません!人工的に、体を変えようとしても、DNAは変わりません。薬やホルモン剤で変えても、変わりません!見かけは変わっても、中身は同じ!

人間は、自分で自分を創造出来ないからです!

自分とは違う、誰か他の人のフリをしているだけ。偽物です。

今の世界は、嘘、偽情報を平気で流しています。

でも、これは今に始まった事ではないのです。

でっちあげ、事実ではない事を、事実であるとして、真実を

抹消する。ハマンの作戦と同じです。これは、宗教も同じです。

神の言葉を、人間が捻じ曲げる行為。

イスラエルの神に戻された人は、神が伝える通りの真実を、

神の代表として、語り、生きるように教えられているのです。

それが、地の塩、世の光の役割であるのです。

だから、神が伝える事を少しでも曲げた事を、人に伝えている

時点で、それはイスラエルの神の言葉、教え、実態を正しく世界へ 伝えている事ではなくなるのです。

神が神の子らに託した神の教え、実態を、人間が曲げる事は

許されていません。

 

顔というヘブライ語は、色々な意味があります。

それは、同じ語源で、様々な別の意味に繋がっているからです。

顔〜実態です。これは、臨在、前とも訳されている言葉です。

 

大祭司の祈りと呼ばれている、レビ族のアロンの家系の男子だけが、地上の神の家での大祭司〜天の大祭司、ユダ族のイエシュアを代表する役割を任され、神にこのように祝福の祈りをするように教えられています。

 

民数記6:24 「願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

6:25 願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。

6:26 願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように」』。

 

聖書のどの箇所も、同じ事が語られています。

安息とは、シャバットの安息とは、エデンの園にあった神との

関係の実態に生きる、憩う実態を話しているのです。

 

人は、神の中に住まい、神と直接繋がり、顔と顔を合わせる関係に生きる、唯一それだけが、ほんとうのエデン〜喜びが湧き出る源泉であり、人を本当に生かす唯一のものであり、神の外=実態を出て、人は本当のエデン〜喜びは得る事などできない事が、

ずっと書かれています。

私達の喜び、命の実態は、金銭や財産や成功や、この世のものから、湧き出てくるものではないからです。

何があっても、なくても、変わらないエデン〜喜び〜神の中、

実態の中、神と顔と顔を合わせている、神の臨在の中にいるこの

安息、シャロームだけが、人を本当の意味で支えて生かすものだからです。

大祭司の祈りは、エデンの中で神の中で本当の意味で、神と顔を合わせる関係で、生きる祝福を祈っているのです。

詩篇を読んでも、ダビデの叫び、祈りも、結局、神のエデン〜

臨在の中に保たれて生きる事を切に求めるものでした。

それだけが、人に本当に必要なものだからです。

ヤコブが、神の使い=イエシュアと対決した時に、「祝福」してくださるまで、去らせません!と言ったのも、このエデン、

シャバットの安息、神と顔と顔を生きる実態を求めていた事が、分かります。

これ以外に何もないからです。

パウロが、言ったのも、どんな状況でも、エデン〜喜び〜神の中に存在している目に見えない事実をはっきり得ていたからです。

 

ピリピ4:11 わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。

4:12 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも

乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。

4:13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる

 

ダニエル達が、燃える炉に投げ入れられ、彼らを炉に投げ入れた人は、その火で焼け死んだのに、ダニエル達は守られました。

イエシュアが、彼らと共に居られたからです。

ライオンの檻に入れられた時も、同じです。

 

ダニエル3:24 その時、ネブカデネザル王は驚いて急ぎ立ちあがり、大臣たちに言った、「われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか」。彼らは王に答えて言った、「王よ、

そのとおりです」。

3:25 王は答えて言った、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」。

 

6:22 わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」。

 
イエシュア=救いは最初から、教えられ、地上にイエシュアが来られる前も、人々に直接現れているのです。同じ1つの福音だからです。神が共にいる現実を得て知ったら!最強。これ以外に
必要ないからです。あとは全部、おまけです。
その福音とは、エデン〜神の中に新しくされた人として住まう事なのです。
もし、人がこのエデン、喜び、シャバットの安息=エデンの実態を生きる事を、知ったら、得たら、どんな事も乗り越えて行けるからです。
シンプルな事実が、聖書には書かれているのです。
 
人が求めているもの、それは人の本来のエッセンス〜成り立ち。
神の中に、神が造られた通りの姿で生きる、それ以外にエデン
喜びは、安息は、人は得る事が本当にはできないからです。
たとえ、全世界を得ていても、まことの命〜エデン=神の中に生きる実態を人が持っていなかったら、何の得があるのでしょう?
本当にそうです。人を本当に生かすものは、目に見えるものではない、神ご自身がその源泉だからです。
だから、パウロが何も持ってないようであり、実は富んでいる
それは、神が共におられるからです。
シャバットは神が人に与えた祝福です。神がこの日に、神の子らを全員呼び出して、神と共に特別な出会いをする、祝う日です。
そして、エデンの現実に皆で戻る!シャバットの安息とは、
神以外に与えられらないものなのです。
 
申命記 6:4 
イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
 
シャマ!聞いてという言葉です。神の言葉、声を聞く。
人が聞く。神が直接神の言葉を通して語りかけてくださいます。
それが、神の言葉。永遠に生きていて、今直接自分に語りかけて
くださいます。
神の言葉を聞いて、神が語って下さったと分かれば、それで十分
生きれます。それが、現実だからです。
 
百人隊長の部下が病気で死にかけていて、ユダヤ人の長老をイエシュアの元に遣わしてました。そして、イエシュアはその場所に向かっている途中に、他の人遣わして、このように伝えました。
 
「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうからお伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばを
いただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」ルカ7:2-7

 

神の言葉は、必ず実現します。

神の教えは、創世記〜黙示録まで全部同じです!

それは、聖書は、全てどの箇所も、100%モーセの五書を解説しているからです。聖書のどの箇所も、神の言葉の1字1句も

否定、変更などしていません!まやかし情報は、1世紀後半以降、偽教師により流され続けました。それは、モーセの五書を否定する教えと、反ユダヤ思想です。

それが歴史の中で、ずっとされ続けているのです。

本当のことを人に知らせたくない、存在が邪魔しているからです。この秘訣を人が知ったら、神の意図通りに生きてしまうからです。

ある部分は聖書の事実でも、その教え、思想の土台が、聖書の根幹中心である、モーセの五書終わりありき!で、全てを語り、

ズレた聖書解説をしているからです。

 

シャバットは神が伝える通り、神が人のために創造された、特別に聖別し、特別な名〜シャバットと名付け、週の中のその日だけを、特別に祝福されました。

そして、神はシャバットは永遠から永遠に、代々神と神の子らと

共に祝われる!と言われています。

人間がどう解説しなおそうと、第7日目以外のシャバットは

週の中には存在しません。今はいつでも安息日=これは、聖書の事実ではなく、人が勝手に聖書の箇所、ローマ14章やコロサイ2章にパウロが書いた意味を正しく知らないまま、誤解して読んでいるだけだからです。

こんな聖書とはズレた思想を土台に、勝手に人が、神が創造された時=モアデイムを否定し続けているのです。

人間は神にはなれません!人はこの世界を、時を創造していないからです。神が全てを創造し、神が創造された世界、時、モアデイム〜記念日を、神が人に伝えているのに、それを無視しているのが、人なのです。

人間が作った宗教の日に、神は特別な出会いを設けて、神の子らを呼び出してなどいません。どの日でも、神と出逢います。

でも神が儲けた特別の日は、神の子ら全てを呼び出している特別な意味があり、その日に神は人と特別な出会いをすると約束しているのです。

気がついてください。神が創造された、特別な記念日〜祭りの日に、全て神は特別な業を歴史の中でされています。

イエシュアの処刑、昇天も、春の神の祭り、過越の祭りで実現しています。

シャヴオートで、神の婚姻契約が与えられました。

そして、未来預言的祭り、ヨムテルア、ヨムキプール、仮庵は

イエシュアの再臨の出来事の一連を表し、永遠に未来に続く

イエシュアが統治される世界を表す記念日なのです。

 

神が言われ事は、全て真実で、実現します。神の言葉を捨る、

否定すると、神が教えている事が見えなくなって行きます。

しかも、神に敵対する教えを、どうしてイエシュア信者がするの?と気がつけば良いのです。神の邪魔をしてはならない。

神の御国を共に建てあげると言われているのに、妨害している。

それが、神に敵対するものの、計画だからです。

 

細い声〜神の声をしっかりシャマ、神が伝える言葉の通りの中で

シャマ、理解する、そこに神の御座、臨在を体験する世界があるからです。

 

Shabbat Shalom