神の創造の起源に戻る状態が、シャバットで教えられています。
神が全てを創造されて、時を創造され、そして特別な「時、季節」モアデイム〜神が設けた聖別された特別な会見の時を創造されました。
全ての創造物は、創造主により造られました。
全ての創造物が揃い、人が最後に造られたのは、人の為に世界の全てが創造されたからです。
神が創造された通りの性質、目的通りに人はこの世界を治めるようにされました。
エデンの園の創造の記述に、人がどのような性質で、どこに造られたのか記されています。そして、聖書の冒頭から、黙示録の
最後迄、ずっと1つの同じ福音、同じ教え、神が教える同じ
事実だけが、聖書の中で一貫して貫かれて記されています。
創造主、イスラエルの神は、人〜得に異邦人が語るような、変化する神ではない、人種や時代ごとに変化する福音や救いの方法は、聖書に記されていません。
創世記2:8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、
מִקֶּ֑דֶם 「ミケダム」ミンという前置詞、「から〜、前から〜、中|」にという言葉ですが、それが短縮化されて「ミケダム」と書かれています。 そして、בְעֵ֖דֶן 「ヴ エデン」喜びの中とあります。ヴ〜中、 エデン〜喜び。 神ご自身〜の中に、私達は最初存在していたことが記されているのです。 パウロも、主に在ってという言葉は頻繁に使っていますね。 それと同じです。In Him、神の中に存在している事実をずっと 聖書の最初、創造の最初から伝えている事実を、黙示録の最後まで同じ意味で語っているからです。 そして、この創造の最初は、ミケダムは、永遠の時を表しているものです。最初の最初、何もない存在しない時以前は、何が 存在していましたか? 神ご自身です。ここの創世記2:8は、先ず私たちが神の中に 存在していた事実を、神が伝えているものなのです。 その事実が、福音書にも、書簡にも書かれているのです。 |
エペソ1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
ヘブライ人は、神ご自身のことを、この上記した事実から、
「ハマコム」と呼びます。The 場所。人が存在する場所は、
神ご自身の中!それが聖書に書かれているのです。
2テサロニケ 2:13 しかし、主に愛されている兄弟たちよ。
わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、
福音は1つです。救いの方法も1つしかありません!
福音はエデンの園からアダムに語られたのです。
同じ福音を、モーセにより神の言葉、教えが記される前も、
後も預言者たちにより、神の言葉を預かり伝える人々を通して
伝えられたのです。
そして、そこに書かれたことを、イエシュアを通して、地上で
神の創造された人の生き方を、実際に生きて、お手本を見せたのです。
クリスチャンの世界では、成就したから、神の言葉を生きるのは
終了したと語られていますが、そのような解説は、基本的に聖書に書かれている意味を全く誤解した解説を教えられた人々により
伝達された、非聖書的思想です。
成就とは、神の意図通りピッタリに永遠に固く確立されるという
意味の言葉だからです。 永遠に確立するから、終了しません!
大体、神〜イエシュアが人に罪を犯すように促すなど、そんな
反聖書的で、とんでもなく馬鹿げたことを、言い続けていても、盲目=人の思想に支配される頭脳では、神の言葉が全く遮られてしまう現象なのです。
だから、神の言葉だけに戻り、本当は何が伝えられているのかを
知る必要があるのです。
ずっと最初から同じこと、同じ福音、同じ救い、贖いが教えられていることが、記されています。
ヘブル 1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、
1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
2:3 わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、
2:4 さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。
ヘブル書に書かれている「安息」の実態とは、このエデン〜喜び〜神の中に存在する事実を再所有する、そのことを話しているのです。そして、別の安息はないことも書かれています。
人は、エデン〜喜びだけを体験する、神ご自身の中に存在していた、そこから飛び出てしまったのです。
だから、どこを探しても、人の中に深い安息、満足、確信、勇気
力を与える源は、金銭の中にも、仕事や、人間関係の中に存在するものではないのです。だからこの世が与える、シャロームではない!と神が教えているのです。
私達が本当に必要なものは、神の中に戻り、このエデンの中に
あったヌアフ〜安息、神の中に生きる実態を再所有し続けること、そのことをパウロも話しているのです。
そして、エデンを飛び出した人〜別の目が開かれてしまった全ての人たちは、2つの頭脳=マインド、二心と書いてありますが、
神が見る通りに見れない、神との隔たりの場所に閉じ込められてしまったのです。
隔たりの中、穴蔵にいた私達のところまで、羊飼い〜生ける水は
流れて来てくださり、救い出してくださったのです。
この水〜イエシュアが行かれるところ、世界の四隅全ては生きる!とある通りです。エゼキエル47:7-12
ローマ12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。
疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思う
べきではない。
1:8 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。
シャバットは、このエデンの園〜神の中〜喜びの中に存在する
実態を再所有する、自分のものとする〜それは、新しい人として
神の言葉に意識を常に向けて生きることをすることで、再所有し続けるプロセスがあるのです。これをしない人は、いつまで経っても古い死んだ人で、この世のものを頼りとし、それが取り除かれた時には、全部根こそぎ揺るぐ、そういうことなのです。
今日が創造主が設けた、週一度の聖別された日、シャバットです。
他の日、人がなんと定義しようとも、神が聖別し祝福し、神の子らを呼び出している日ではありません!
こんな簡単な事実を、聖書を読んでも読み取れないのは、
人の思想にどれほど染まって神が伝える事実が、目に、耳に頭脳に響いて届いてないかだけなのです。
私達は神が与えた祝福を人の思想により、奪われてはならないのです。
Shabbat Shalom