シャバットの安息 エデンの命の源 神ご自身 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の創造の起源に戻る状態が、シャバットで教えられています。

神が全てを創造されて、時を創造され、そして特別な「時、季節」モアデイム〜神が設けた聖別された特別な会見の時を創造されました。

 

全ての創造物は、創造主により造られました。

全ての創造物が揃い、人が最後に造られたのは、人の為に世界の全てが創造されたからです。

 

神が創造された通りの性質、目的通りに人はこの世界を治めるようにされました。

 

エデンの園の創造の記述に、人がどのような性質で、どこに造られたのか記されています。そして、聖書の冒頭から、黙示録の

最後迄、ずっと1つの同じ福音、同じ教え、神が教える同じ

事実だけが、聖書の中で一貫して貫かれて記されています。

創造主、イスラエルの神は、人〜得に異邦人が語るような、変化する神ではない、人種や時代ごとに変化する福音や救いの方法は、聖書に記されていません。

 

創世記2:8 主なる神は東のかたエデンに一つの園を設けて、

その造った人をそこに置かれた。
 
翻訳では、全く見えない事実が、ヘブライ語の中では記されて、
それが聖書を理解する上で重要な鍵、基本基礎土台となる事実が
記されているのです。
 
ここに「東のかた」と書いてあります。エデンの東と言いますが、ここに書かれている「東」とは単なる方角を示す言葉では
ありません。
「ケダム」という言葉が東という翻訳の裏にある本当のヘブライ語の言葉ですが、これは「時」を表す言葉なのです。
単なる方角、日の出るところなどの東を表す言葉は、
「ミツラフ」です。永遠の時を表す言葉です。
そして、このケダムの前に、前置詞が付いている言葉なのです。
מִקֶּ֑דֶם 「ミケダム」ミンという前置詞、「から〜、前から〜、中|」にという言葉ですが、それが短縮化されて「ミケダム」と書かれています。
そして、בְעֵ֖דֶן 「ヴ エデン」喜びの中とあります。ヴ〜中、
エデン〜喜び。
神ご自身〜の中に、私達は最初存在していたことが記されているのです。
パウロも、主に在ってという言葉は頻繁に使っていますね。
それと同じです。In Him、神の中に存在している事実をずっと
聖書の最初、創造の最初から伝えている事実を、黙示録の最後まで同じ意味で語っているからです。

そして、この創造の最初は、ミケダムは、永遠の時を表しているものです。最初の最初、何もない存在しない時以前は、何が
存在していましたか?
神ご自身です。ここの創世記2:8は、先ず私たちが神の中に
存在していた事実を、神が伝えているものなのです。
その事実が、福音書にも、書簡にも書かれているのです。
 
エペソ1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、
天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
 
物理的な天地の造られる前から、私達は神により選ばれ神の中に既に存在していた事実、摩訶不思議なことが書かれているのです。
最初から、創造の始まりの前から、永遠の中に私達は神に選ばれて、神の中に存在している事実を話しているのです。
 

エペソ1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

 

ヘブライ人は、神ご自身のことを、この上記した事実から、

「ハマコム」と呼びます。The 場所。人が存在する場所は、

神ご自身の中!それが聖書に書かれているのです。

 

2テサロニケ 2:13 しかし、主に愛されている兄弟たちよ。

わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、

 
初めから〜永遠の中から、神が私達を選び出している事実が記されているのです。
 
この事実から、次を読むと見えます。
神は最初私達自身を、神の中に植えられました。
それが、創世記2:8です。永遠の中、神ご自身の中=そこが
人が本当に住まう場所に、置かれました。
そして次に、目に見えない世界とこの世界物理的世界、人は
この両方一体の中に、生きるように造られました。
 
創世記2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、
これを耕させ、これを守らせられた。
 
この箇所は、神が人をエデン〜喜び〜神ご自身と直結した人が
住まう物理的な場所、園の中に人を置かれた時の様子が書かれています。8節の置くという言葉と、15節の置くという言葉は、
翻訳では、「置く」という同じ言葉ですが、ヘブライ語では違います。これが翻訳では、何が伝えられているのか事実が見えない
弊害、障害なのです。本当の意味が見えてこない。
最初神の中に私達は置かれ、そしてこの神の創造された物理的世界に置かれました。この2つは別々ではなく、1体なのです。
エデンを飛び出して、私達の目には見えないだけ。見える世界と
見えない世界。物理的、霊的と言いますが、実は1つなのです。
ヘブライ語でのこの「置く」は、ノアの名前の語源と同じ、
安息、休み、憩いであるנוּחַ; 「ヌアフ」です。
そして、この箇所で、置かれたという言葉の意味は、こんな感じです。お母さんが大事な子供を抱き抱えている、そしてその大事な子を、心地よいピッタリなベッドの上の大事にそおっと優しく置く仕草、行動です。
神は神が創造された大事な人を、神ご自身の中、神ご自身〜喜びの中、エデンの中に人を置かれた様子が表されているのです。
 
エデン〜喜び、歓喜、神の顔〜実態、光=イエシュアご自身の中
に人は植えられて、置かれた事実があります。
安息の憩い、休みとは、神の中に存在するこの事実、命の源、
源泉に植えられた状態に生きていることを話しているのです。
エデン〜喜びの園、神が人の為に造られた場所。
神ご自身の中に存在する場所、そこに人が生きるように、創造されたことが書かれているのです。
 
そして、人がこのエデン=喜び=神ご自身の中に存在して生きること、生ける水、胎内に子供が羊水の中に存在しているように、
外側で何が起きても揺るがない状態です。
人は、神の中、エデン=喜び、本来生きる場所から、飛び出して
しまったのは、神のデザインとは違うこと〜神があなたの食べ物ではないよ!というものを、食べたことで起きたこと、絶対に
忘れないようにしないとなりません。
神が創造されたデザインに反することをする、それが小さいこと
日常する、食べるという行為から来てしまったこと、侮るなかれ!なのです。
人は、神の言葉をあまりにも軽く見て取り扱い、簡単なことなのに、大きな破壊をもたらし続けているのです。

 

福音は1つです。救いの方法も1つしかありません!

福音はエデンの園からアダムに語られたのです。

同じ福音を、モーセにより神の言葉、教えが記される前も、

後も預言者たちにより、神の言葉を預かり伝える人々を通して

伝えられたのです。

そして、そこに書かれたことを、イエシュアを通して、地上で

神の創造された人の生き方を、実際に生きて、お手本を見せたのです。

クリスチャンの世界では、成就したから、神の言葉を生きるのは

終了したと語られていますが、そのような解説は、基本的に聖書に書かれている意味を全く誤解した解説を教えられた人々により

伝達された、非聖書的思想です。

成就とは、神の意図通りピッタリに永遠に固く確立されるという

意味の言葉だからです。 永遠に確立するから、終了しません!

大体、神〜イエシュアが人に罪を犯すように促すなど、そんな

反聖書的で、とんでもなく馬鹿げたことを、言い続けていても、盲目=人の思想に支配される頭脳では、神の言葉が全く遮られてしまう現象なのです。

だから、神の言葉だけに戻り、本当は何が伝えられているのかを

知る必要があるのです。

 

ずっと最初から同じこと、同じ福音、同じ救い、贖いが教えられていることが、記されています。

 

ヘブル 1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、

1:2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。

2:3 わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、

2:4 さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。

 

ヘブル書に書かれている「安息」の実態とは、このエデン〜喜び〜神の中に存在する事実を再所有する、そのことを話しているのです。そして、別の安息はないことも書かれています。

 

人は、エデン〜喜びだけを体験する、神ご自身の中に存在していた、そこから飛び出てしまったのです。

 

だから、どこを探しても、人の中に深い安息、満足、確信、勇気

力を与える源は、金銭の中にも、仕事や、人間関係の中に存在するものではないのです。だからこの世が与える、シャロームではない!と神が教えているのです。

私達が本当に必要なものは、神の中に戻り、このエデンの中に

あったヌアフ〜安息、神の中に生きる実態を再所有し続けること、そのことをパウロも話しているのです。

そして、エデンを飛び出した人〜別の目が開かれてしまった全ての人たちは、2つの頭脳=マインド、二心と書いてありますが、

神が見る通りに見れない、神との隔たりの場所に閉じ込められてしまったのです。

隔たりの中、穴蔵にいた私達のところまで、羊飼い〜生ける水は

流れて来てくださり、救い出してくださったのです。

この水〜イエシュアが行かれるところ、世界の四隅全ては生きる!とある通りです。エゼキエル47:7-12

 

ローマ12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。
むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
 
ここにある心とは頭脳のことです。レブ。私達は、イエシュアと共に死んだ自分の記憶を使いながら生き続けているのです。
新しくされた人として生きる練習をしない場合、何かあれば、
信仰ではなく、疑いと恐れ、不安にひっぱられて行くでしょう。
周りで起きる出来事に翻弄され、神は助けてくれない〜と
嵐の中、弟子達は恐怖で大騒ぎでしたが、イエシュアは天の中、
神の家、御座の中に存在している事実に、完全に安息していた
様子が記されています。
二心とは、別の目が開かれた〜本来見るべき状態ではない目が
開かれた、もう一つは、神の目から神が見ている通りを見ること
この二つを、死んだ古い人の記憶を使って、少し新しい人として
神の目から見る、その2つを行ったり来たりしていることが、
記されているのです。
イエシュアがされている通り、神の目から見る通りを見ていたら
私達は恐れから解放され、飛びかかる敵の罠や恐怖の中でも、
ライオンの檻の中でも、燃える炉の中でも、イエシュアが持っているエデンの中に安息、ヌアフをしっかり保って生きることができる、これが人にとり本当に必要なこと!これだけが大事!
これが、私達を生かす本物の力、命の源泉、神と直結している
事実に繋がる臍の緒だからです。
 
ヤコブ1:6 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。

疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。

1:7 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思う

べきではない。

1:8 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

シャバットは、このエデンの園〜神の中〜喜びの中に存在する

実態を再所有する、自分のものとする〜それは、新しい人として

神の言葉に意識を常に向けて生きることをすることで、再所有し続けるプロセスがあるのです。これをしない人は、いつまで経っても古い死んだ人で、この世のものを頼りとし、それが取り除かれた時には、全部根こそぎ揺るぐ、そういうことなのです。

 

今日が創造主が設けた、週一度の聖別された日、シャバットです。

他の日、人がなんと定義しようとも、神が聖別し祝福し、神の子らを呼び出している日ではありません!

こんな簡単な事実を、聖書を読んでも読み取れないのは、

人の思想にどれほど染まって神が伝える事実が、目に、耳に頭脳に響いて届いてないかだけなのです。

私達は神が与えた祝福を人の思想により、奪われてはならないのです。

 

 

Shabbat Shalom