勘違いしている聖書箇所 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

前回の続きです。

このブログの記事は、世間一般に、異邦人クリスチャンの世界で伝えられている、人が創作した教え〜神学〜イスラエルの神と、神の言葉が変化したという前提から、聖書の全てを解説する聖書解説が、聖書とは異なるものであるという内容を書いています。

 

聖書、得に福音書以降は、1世紀当時の宗教〜宗教とは、人の

教えが混ざったものです。

福音書に記されている記録は、「伝統の教え」 「先祖代々の言い伝え」「戒めの律法」など色々な表現をしていますが、それらは

全て人が解釈したモーセの五書の教え〜それを、神の言葉の意図からずれて、「人に負えないくびき」「人間が作った掟」それらの

ルールが、ユダヤ人の間にたくさん浸透していたのです。

 

使徒であるペテロでさえ、それらのルールに影響されていた事が書かれているのです。

それが使徒10、11章で説明されている内容です。

そして、ペテロが、ユダヤ人がいない場所では、異邦人と交わりユダヤ人が居て見られている場所では、ペテロは意図的に異邦人を避けていた事を、パウロに指摘、注意されている事でも分かります。

それが前回説明した、ユダヤ人は、異邦人とは交わってはならない!という、ユダヤ人の世界の掟があったからです。

「敵意という隔ての中垣」とエペソ2章で書かれているものです。

ユダヤ人と異邦人は完全決裂!

そして、使徒10章の、ペテロの幻の箇所を、当時の人達が理解していた、言葉なども知っていれば、簡単にその幻の意味は見えてくるのです。

使徒10:14の、「汚れたもの、きよくないもの」という言葉は、

当時のユダヤ人たちは、異邦人に対しても、汚れたもの、きよくないもの、「野生の動物、汚れた動物」と言っていたのです。

だから、パウロも自然の木と、野生の木と言っている事でも

その意味がはっきりしています。

当時ユダヤ人は、異邦人を、汚れた動物と同じ、汚れている、きよくない動物、イコール異邦人と考えていた事が分かれば、ペテロが、神に見せられた幻の意味は分かります。

私達は、所属するグループの掟に縛られていることに、気がついてください。

それらのルール、掟に反することしたら、まずい!と思うものなのです。

異邦人も神が清めれば、生まれつき野生で、契約の民ではないけれど、イスラエルと同じように、異邦人も神=イエシュアによりきよめられて、イスラエルの神の家族の一員〜天の共同相続人になったと教えているのです。

汚れた動物が、清くなるなど!そんなことは一切、話していません。誰がどう言っても、きよくない動物〜永遠に清掃動物で、人の食する類のものではありませんと、神が教えているからです!

 

これ、ありますよね。自分のグループの掟で、ある人達と口も

聞いてはならないとか、クリスチャンのグループ同士でも、

あの宗派、教団の人と交わるなと、垣根を作っている人もいます。

そして、飲酒するなと言う掟〜聖書には書いてない掟を、

敷かれたら、同僚や友達との飲み会も参加できない。

そんな会に参加したら、後ろめたい気持ちになるでしょう。

コンビニでビール買っているところを、グループの誰かに見られたら、ビクビクしてしまう。そう言う事です。

心配しないでください。神は、酩酊するほど、酒飲むな!と教えているけれど、ワインは祝福の印であると、聖書には、書いてあるのです。聖書にはビールも記されています!

その他、聖書には書いてないルール、人が作ったルール、掟で

人が人を縛って行くものなのです。

 

クリスチャンの中で誤解されている箇所で、何度も書いていますが、使徒15章も完全に誤解しています。

異邦人は4つだけ、神の教えを守れば、それ以外は何でもありなどと、解説していますが、クリスチャンは、その4つの教えの中の半分は、無視している事に、気がついていますか?

 

使徒15:1 さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。

 

この箇所は、前にも解説した通り、「割礼」改宗儀式をして、

ユダヤ人にならなければ、神の国の一員ではない!という、人の

教え〜律法の戒め〜神の教えとは違う事を、考えていたのは、

異邦人〜汚れた行動をし続けるから、汚れている。

そんな振る舞いをする人は、神の家族の交わりには入れられない!これ、一面当然なのです。信じた後も、汚れた行動、神の前に何が罪かを知らない異邦人が、自分たちの群れに入り込んだら、そうです、自分たちも汚染されてしまうから、当然な

主張なのです。

だから、パリサイ派の長老達が、神の教え=トラーを知らない

異邦人達に、いきなり全部神の教えを理解せよと言っても、無理だから、取り敢えず、先ず交わりに入れる為に、最低限の教え〜ルールを理解してもらおう!という、提案会議がエルサレム会議なのです。

どの箇所も、神の言葉=モーセの五書に記された神の教えが

終了した、異邦人には関係ないという事は書いてありません!

誤解しないで、事実だけを掴んで理解して、聖書を読み直す必要があります。

使徒15:11 確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。

 

信仰義認は、エデンの園から同じです!人は自分を救い出す方法罪の代価を支払う術などない!!!この大前提からだけ、全てを考えれば、クリアーに見えます。

この神が伝える真実に照らし合わせると、置換進学や、デイスペンセーション神学は、聖書ではないことは、明らかです。

2つの救いの方法、2つの福音などないのです!それなのに、

人間の編み出した神学は、時代ごとに別の贖い、救いの方法

7変化するイスラエルの神の性質、神の言葉、こんな不真実の

解説をしているのです。

 

救いの方法は1つ!イエシュアを通して以外、誰も父のもとに来る事などできない!全ての人に、どの時代でも、同じ1つの真実です。改宗儀式をしたから、肉の割礼をしたから、洗礼受けたから、贖い救いを得たのではない!そうですよね。

イエシュアの贖いの血を通してだけ!これが唯一の方法である!

と書いてあるのです。

割礼は、印、神との契約の中に入った印、永遠に継続して、

信仰義認は伝承される!その印です。そして、割礼は永遠に有効なのです。そして、割礼は重要です!神の言葉を理解する異邦人は、男の子が産まれたら割礼を授けます。そして、それは神がアヴラハムを通して与えた永遠に有効な契約の印であり、同時にそれは、親の信仰により授けられているものでもあります。だから、このような箇所を読んで、割礼はもう無効になったなどと考える、勝手な空想で聖書を読み込むことをするのは、イコール、神の言葉の意味を、正しく理解していない人達の発想なのです。

生まれつき割礼がある、幸い、祝福でもあるでしょう。割礼の意味、

霊的な意味、永遠の契約を継承している印、プラス健康に必須!

女性にも病気をうつさない。肉体と霊は一体〜エハッドだからです。

割礼あった方が、良いと思っている異邦人男性がどれほどいると

思いますか?霊的な意味を知らない、関係なくても。

割礼を受けないなら、救われない!のではないのです。意味を取り違えないでください。洗礼受けなくても、救われた事実は変わらないでしょう!それと同じです。でも割礼は、永遠に変わらない契約の印であり、それは今も変わらないのです。神の教えを生きる人は、賢い

生き方ができるのです。神の意図した通りを生きれる、幸い、祝福。

日本でも、男の子が生まれたら割礼を受けるのが、一般的、常識であれば、割礼に対して余り抵抗はないのかもしれませんが、日本人など、割礼に無縁〜なぜなら、契約に遠くはなれ、神の言葉、教えから

遠く離れた環境に生まれ、神の教えなど知らない異教徒生まれだから、違和感あるだけなのです。

アメリカ人は、儀式として割礼を受けていなくても、ほとんどの男の子は病院で産まれたら割礼を、当然のごとく受けます。これ、まさに

トラー=神の教えを伝えたユダヤ人の功績です。

アメリカで生まれた日本人の男の赤ちゃんも、割礼を受けます。

でも、異邦人は割礼がない〜それでも、救いは受けられる。

でも、割礼は重要な意味がある!それは変わらない、その理解が

ないとならないのです。

事実、肉体的にも、割礼がある方が、健康に大きなメリットがあるのです。体も精神、霊も1体だからです。

男の子を育てた母親、男性ならこの意味は、分かるのではないでしょうか?

体=精神、霊は一体。この事実は切り離せないのです。たとえ、洗礼割礼がなくても、救われた事実は変わらない!という事であり、

割礼、洗礼を受けたら、救われるのではない。でも、割礼は永遠に神の教えである!!!!というこの論点をはっきりさせれば良いのです。異邦人だから、神の教えに対して、異議申し立てしたくなるのです。しかも、割礼など、異邦人は生まれつきされていないから。

創造主が、デザインナーであり、神が伝える、人はどう生きるは、神が創造された人の生き方、性質その通りを人に教えている!という

シンプルな基本的な理解があれば、素直に神の言葉を聞けます。

 

異邦人は、不品行〜神殿娼婦と交わる、こんな事は普通しないですが、当時の異邦人イエシュア信者はしていたのです。

②汚れた動物〜豚やその他、それを異教神の祭壇に捧げて食べる。

クリスチャンは異教神の祭壇に、そんなもの捧げないですが、

汚れた動物は、今も平気で食します。神が伝える意味、教えを理解していない、分からないからです。あなたは〜しない、わたし(神)はあなたを、それを食するように造っていません。それはあなたの健康を害し、環境を破壊する清掃動物だからです!創造された動物の機能、目的が違います!ということです。簡単でしょう!

もし、この4つだけ守れば良いと言いながら、この箇所で一体

何が教えられているのか理解しないなら、ただ字面を読んでいるだけなのです。

絞め殺し〜これは、異教神に対する儀式であり、当然汚れた動物を絞め殺します。③屠殺のやり方が、残酷なのは、これが異教の神の対しての礼拝だからです。

④血を食べる。これはやっている人もいるでしょう。

汚れた動物〜スッポンの血を飲むとか、血のしたたったステーキを食べるとか。これは、絶対体に悪い事でも、あるのです。

神が禁じていること全て!神のデザインに反していることであり

私達には、有害であると、どうして理解しないのか、その方が

不思議なのです。その理由は、異邦人は、異教神の文化に生きて来たから、神の伝える教えの意味を本当には、理解していない!

それなのです。問題は。

自分に馴染んだ生活に対して、違うことを言われる〜反発を

感じる。それは、神が教えていることを、素直に聞けない、悪い地=神の言葉を理解しない頭脳のせいなのです。

そしてクリスチャンの教えの中に次の箇所を、必ず次の箇所は飛ばしています。

 

使徒15:21 古い時代から、どの町にもモーセのトラーを宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。

 

クリスチャンは1世紀、日曜礼拝をして、十字架が立っている

異教徒神殿バシリカで集まり礼拝していると空想して、この箇所

読んでいるでしょう?

聖書には、誰一人日曜礼拝なんてしていない、そんな思想もない

カトリック〜西洋宗教の教えなど、聖書には書いてありません。

 

シャバットごとに、ユダヤ人が集まりシナゴグでトラーが読み上げられるから、その時に神の教えを聞いて、異邦人も徐々に神の

教えを理解していくだろうから、忍耐しよう!取り敢えず、異邦人を自分たちの交わりに入れよう!というのが、エルサレム会議の結末なのです。

私は、聖書(律法、本当はトラー)を読み上げられると書いてあるのに、新約聖書=福音書〜黙示録が読み上げられるなどと、空想していましたが、福音書以降は、その時代存在していません。

聖書に聖書と書いてあったら、その中心は、モーセの五書であり、

モーセの五書を解説する、預言書、諸書のみを指して、聖書には

聖書は〜と書いてあることを、はっきり理解して読んでみてください。聖書はどの箇所も、全て100%モーセの五書を指して、解説しているものなのです!