出エジプト19:5に、それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。
全地はわたしの所有だからである。
ここに書かれているのは、もしも〜!という条件付きです。
もしも、あなたがたが、私の声に聞いて〜シェマ、その通りに生きるならばと、神が言われました。
神の声を聞いて「シェマ」そして、契約を「シャマル=ガードする」ならばとあるのです。
聞くと、ガード=守るとは、同じヘブライ文字をルートとしています。日本語では、「語根」というそうですが、三文字の同じ文字で、別の発音をする言葉なのです。
共通の要素がその中に入っている事を、表しています。
聞く〜守る。聞いて、生きる。1セットなのです。聞いただけで、生きない人と、ヤコブ書に警告があるでしょう。
トラーをヤコブ書は解説している事に、気がついてください。
鏡とは神の言葉=トラー=モーセの五書です。
御言=みことばも、トラーを指している言葉です。
ヤコブ1:22 そして、御言を行う人になりなさい。
おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、
自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
<聖なる民、神の家族である自覚、自己像を見失う。>
1:25 これに反して、完全な自由のトラー<神の性質通りを自由に生きれる、神の教えそのもの>を一心に見つめてた
ゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
花嫁となった後!シャヴオートで婚姻契約を渡された後!
ここからが、贖い出された人達=花嫁とされた人の選択により、その後の状況が変わる事が伝えられています。救われたのは、
無条件。でも神の国に生きる人は、神の言う通りを、シェマして、シャマルするのかどうか、人の選択です。
あなたの前に、命と死を置いた。あなたは命=神の言葉を生きる事を選択しなさい!と神が教えている言葉に応答して生きるか
生きないかの、その選択が問われ、伝えられている箇所です。
もし、神の言う通りを聞いて生きる選択をするならば、私達は
神の意図通りの「宝」全世界の国民の中から特別な宝となると、教えています。
ここにある宝とは、王が肌身離さず身に着けて、持ち歩いているほど大事な宝です。他国との戦いで戦利品として持ち帰った全てを、棚に大事に飾っている、その中でも一番大事な「宝」セグラ
として、自分の身に肌身離さず着けている宝、大事に大事にする宝という意味です。
では、その逆はどうですか?もしも、あなたが、私の声=伝える通りを、シェマ=聞かない、生きないならば、私にとってあなたは、私の一番近いところに置かれる宝には、ならない。
これは、イエシュアが言った言葉でも分かります。
マタイ5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラー=<モーセの五書=父の教え>の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これら=トラーの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
<神の言葉の1つでも、破り、人にも神の教えを捨てるよう、
破るように教えるなら、その場合には、神の国では、一番無価値
意味のない、神の前には羽と同様吹けば飛ぶように軽い存在となる!イエシュアは、冗談でこんな事を言っていません。本気!
本気で神の言う事が、真実であると聞く人には、神が伝える意味が分かります。それほど、神の言葉は永遠に重く、人が捨てたら
危険!それなのに、神の言葉を捨てよ!と言うあのエデンの蛇の声を、どうして復唱し続けて、人に教えているのか、ぜひ疑問に
思えば良いのです。神の言葉をその通りに受け止めない人には、
全部が作り話、そんなことないさ〜とアダムとハヴァが考えた
通りになります。神はそんな意味では言ってないかも〜!と。>
マタイ7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、
みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
知らない=婚姻関係の親しさに生きる中にいない。勝手な生き方=神の言葉、教えとは違う、自分たちの教えを勝手に生きる人は、神が伝えた事とは違う事を生きているので、それはイスラエルの神=イエシュアには関係ない!とはっきり宣言しています。
不法〜トラー=神の教えを捨てる、神の教えを生きない人!という意味で、不法と聖書には書いてあるのです。書いてある意味通りに理解すれば、大衆がやっている受け入れられている事は、実は神には異物!である事が、はっきりと教えられているのです。神が言った意味通りに考えれば、福音書以降も、アノモス=
トラー無しを生きよ!という人の解説が、神の言葉に完全に反した、真逆の人間の思想である事は、聖書に照らし合わせれば、
明らかに見えるのです。
出エジプト19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。
イスラエルは国丸ごと、イスラエルという国〜土地も、神が選び聖なる民、国民、聖なる地として、地上で唯一、イスラエルの神
天の現実を地上で反映する国民、土地=国として、選び出されたました。異邦人は、世界の四隅に住んでいても、誰でもイエシュアを通して父のもとに戻ったら、このイスラエルの大家族の一員、信仰〜子羊イエシュアの贖いの血を通して、神と契りを
結び、大家族に加えられ、アヴラハムの子孫となり、
ガラテヤ3:29、同じ天の共同相続人となる!エペソ2:18-19と、神が言われた言葉が、永遠の真実です!
代表〜長男は、アヴラハムの子孫、イサク、ヤコブ=イスラエルの身体的民族であり、その代表、トップが、ユダ族のイエシュアです。
イスラエルの神の家族となる、花嫁の当然のとるべき選択、行動は、イコール神が提示する大家族の婚姻契約を生きる事に同意すること!神の言うことに同意しない場合は、神とはズレる生き方になる、遠い関係〜蚊帳の外になる。無価値になる。花嫁としてふさわしくない、イスラエルの神のものと、似ても似つかない生き方〜生まれつきの家の家訓をそのまま生きて、神の国の代表として名を汚す行為をし続けるということをしてしまうのです。
神の国に生きるのに、聖なる民は、聖なる民の家族の生き方を汚し、聖なる地を汚せない!汚すという意味は、神の性質とは違う 別物、異物の教えやシンボルや異教の神々に繋がるものを取り入れて、イスラエルの神の実態を塗り替える事をして、イスラエルの神に近づく事をすることであることが、ずっと警告されています。婚姻契約を捨てるとは、罪の道に入る!という意味なのです。罪=ずれ=神の教えとは違うことを生きる事です。
申命記 29:1 これは主がモーセに命じて、モアブの地でイスラエルの人々と結ばせられた契約の言葉であって、ホレブで彼らと
結ばれた契約のほかのものである。
申命記29:10 あなたがたは皆、きょう、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわちあなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたちなど、イスラエルのすべての人々、
29:11 あなたがたの小さい者たちも、妻たちも、宿営のうちに寄留している他国人も、あなたのために、たきぎを割る者も、水をくむ者も、みな主の前に立って、
29:12 あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるあなたの神、主の契約と誓いとに、はいろうとしている。
29:13 これは主がさきにあなたに約束されたように、またあなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立てて自分の民とし、またみずからあなたの神となられるためである。
29:14 わたしはただあなたがたとだけ、この契約と誓いとを結ぶのではない。
29:15 きょう、ここで、われわれの神、主の前にわれわれと共に立っている者ならびに、きょう、ここにわれわれと共にいない者とも結ぶのである。
申命記は、約束の地に入る前に、同じ内容を再更新しているものです。そして、申命記の記述は、当時中近東に存在した契約書、
条約の形、そっくりそのままの形式で記されているものです。
約束の地に入る時、ここに記されている人達は、イスラエルだけではなく、異国の人もと書かれている事を、読み逃しているのです。そして、そこにいない未来の人々〜イエシュアを信じる全ての人々と
神は同じように同じ契約を結ぶと宣言しています。神は、神の言葉を同じように信じて、イスラエルの神に聞いて生きる人達は、もれなくイスラエルの神のものとされている
事実が聖書には記されているのです。
イスラエル、異邦人と分裂させている思想は、聖書を正しく読み取らず、人間の思想で聖書を語る教えなのです。
ヨシュア 8:30 そしてヨシュアはエバル山にイスラエルの神、
主のために一つの祭壇を築いた。
8:31 これは主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたことにもとづき、モーセのトラーの書にしるされているように、
鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であって、人々はその上で、主に燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。
8:32 その所で、ヨシュアはまたモーセの書きしるしたトラーを、イスラエルの人々の前で、石に書き写した。
8:33 こうしてすべてのイスラエルびとは、本国人も、寄留の他国人も、長老、つかさびと、さばきびとと共に、主の契約の箱をかくレビびとである祭司たちの前で、箱のこなたとかなたに分れて、半ばはゲリジム山の前に、半ばはエバル山の前に立った。
これは主のしもべモーセがさきに命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。
8:34 そして後、ヨシュアはすべてのトラーの書にしるされている所にしたがって、祝福と、のろいとに関するトラーの言葉をことごとく読んだ。
8:35 モーセが命じたすべての言葉のうち、ヨシュアがイスラエルの全会衆および女と子どもたち、ならびにイスラエルのうちに住む寄留の他国人の前で、読まなかったものは一つもなかった。
どうしてこのような永遠の真実の記述を見逃して、語られ、教えられる事がクリスチャンの中ではないのか、疑問に思わないと
ならないのです。
命と死、祝福と呪いとあります。ゲリジム山=命=祝福、
そして、エバル山=死、呪いとあります。
この山は、実際にイスラエルに今もあります。見ると面白いことに、ゲルジム山は、緑に覆われて、エバル山ははげた山なのです。地形、山からも目て見て分かるように、神は神の言葉の意味を人に代々伝えているのです。2つの山の間には、シェケムが
あります。その地では、様々なことがありました。聖書に記述されたことを、知らないまま読み飛ばしていると、何を教えられているのか見えないままになります。
聖書は、トラー=神の教え=婚姻契約書をめぐり、全てが書かれています。人がイスラエルの神との関係にある、根拠、証拠は
神が提示したこの婚姻契約以外には、成り立たないことが書かれているからです。
婚姻契約書を捨てる人は、婚姻の事実を捨てている、公的文書を
捨てている事と同じ事をしているのです。
しかも、神から与えられた永遠の証拠が、ヘブライ文字で記されたものです。これを、神が訂正、否定することはできない、
その証拠なのです。
人間の世界でも、公的文書は簡単に書き換えられません。
証人を伴い、契約を結んだ両者が同意しないと、成立しない、
もちろん変更もできないのです。
書いたものは、訂正がないと変更できません。契約を結んだ両者が合意、同意すること、書き換えることで、新しい契約内容になるのですが、聖書=神の契約書には、内容の変更がありませんし、変更された事実もないし、そのような変更された契約書も存在しません。約束の地に入る時に、詳しく付け足されて書かれた
説明はありますが、中身の変更はありません!
新約聖書と異邦人が名付けた、福音書以降の箇所も、
全て100%婚姻契約書=モーセの五書=トラーを指して語っているのであり、最初の箇所の短い短い解説、註解なのです。だから聖書の25%の量しかないのです。最初の75%が聖書です。そして、その聖書の解説、註解が福音書以降=25%です。
預言者が書いた聖書=聖書に聖書と書かれてあれば、100%
それはモーセの五書であり、モーセの五書を解説する預言書、
諸書のみを指して書いているのです。
新訳〜新しい契約などと勘違いしているのですが、古い契約?
モーセの五書が塗り替えられたり、書き換えられた教えなど、
新訳の中には1つも書かれていません!書いてあると思う箇所は、書かれている内容を異邦人が勘違いして読み、解説しているからです!!!書かれている意味を正しく知らないで、勝手な
解説をするから、別の思想=神学=人造宗教を編み出せるのです。
中身は、同じモーセの五書の短い解説。そして、それは異邦人に与えられた新しい、モーセの五書とは別物の契約書!などと言う
人の思想を信じて、考えているから、神の言葉の真実が見えない聖書に書かれている事実が見えない、見逃しているのです。
そして、さまざまな箇所を、勝手な聖書解釈=使徒達が書いた意味とは違う内容に解釈している、それが人の編み出した神学を
作り出している原因なのです。
続く