神の言葉 聖書に記された事実に戻れば何が神が語る真実なのか見える | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人の思想、「何何神学から聖書を紐解く」、そのような教えは、

聖書の記述からズレてしまいます。人の思想を土台として考えているから、最初から聖書とはずれている、歪んでいる、別のスタート地点に立って、別の方向に走っているからです。

神の言葉に立ち、神が伝える真実を探る「道」に立たないとならないのです。

 

なぜなら、人間が考えた何何思想から、聖書を紐解いても、神が伝えている言葉の、正しい意味が見えないからです。人の思想を挟んだ時点で、聖書=神の言葉からズレている!と気が付かないとならないのです。

人が知らなくてはならないのは、人間が編み出した神学ではなくて、神の言葉=聖書に書かれた事、事実です。

聖書〜原典、元に書かれた言葉の意味、神が人に伝える意味だけに立って考える必要があります。人の思想の添加物など、最初から神の言葉、教えに混ぜてはならないものなのです。

そして、ヘブライ語聖書を知っていても、思考回路、頭脳が、

人の思想〜西洋神学やその他に洗脳されている場合、デイスペンセーション神学や、置換神学、その他を通して考えるなら、同様に聖書=神の言葉からズレてしまいます。そんな解説が五万とあります。紛らわしいのは、ヘブライ聖書をデイスペンセーション

神学のような西洋宗教神学思想で、語るような解説です。

でも、それは聖書に記された事実とは、ズレているのです。

 

聖書とは違う、それらの違う教えにより、聖書に書いてあることが、見えなくなる、書いてある意味を素通りし、見逃してしまいます。

そして、気をつけなくてはならないのは、ユダヤ人イコール

皆が正しく聖書を知っているのではない!ということです。

皆が正しく解説してる訳ではない。

世の中には、ズレた教えが五万と存在しています。

それは、1世紀でさえも同じです。パウロのような教師が、正しくトラーを解説している一方、グノーシス思想やその他、当時のユダヤ人の中にあった伝統の教えに染まった人とでは、聖書とは違う教え、解説をしていたからです。その偽の教えの警告を、

パウロがしているのです。

安全な教師と、聖書とは違うことを教えている教師が、「常にいる」という、警告があるのです。

難しいことは、分からなくても、神の言葉が変化する、神の性質が変化するという教えから、聖書を語るならば、それらは、聖書に記され真実から、ズレている、神の言葉の意図に反する、人の思想を語っているということを、覚えておく必要があります。

 

デイスペンセーション神学、その元は1世紀後半以降の西洋人、

初代教父達、ローマ帝国が神の教え=モーセの五書に記された

ユダヤ的な事、反ユダヤ思想、反トラー思想ですが、当時、異教の神々の文化の中で、ユダヤ人しか生きないような事〜トラーを生きることを禁じた、反ユダヤ、反モーセの五書思想に則った

教えは、聖書、神の言葉ではありません。

神は最初の創造の実態、性質に、全ての人が戻ること、その元に全ての状態、性質通りに修復されることが、これから来る最後の時代、そして永遠を過ごす状態なのです。

分断、分裂思想は、聖書でないという事実を、確認して聖書を

読んでみるのです。

イスラエルの神の大家族は、人種に関わらず1つしかない!

救い=イエシュア、神の元に戻る方法も、エデンの園から1つしかない。イエシュアを通して以外、誰も父の元に戻ることない。

 

出エジプトした人達は、イスラエルだけではありませんでした。

ミックス、混合の群衆であることが、記されています。

異邦人もその中にいて、異邦人も同じように神の言葉、福音を聞いて、イスラエルと同じく家の鴨居に子羊の血を塗った事実、

神は異邦人もイスラエルの12部族の中に同様にイスラエルとして加え、イスラエルとして数えている聖書の記述の事実を、読み逃していませんか?

神はイスラエル〜長男を大家族の代表とし、その大家族の代表を通して、全てイスラエルの神に連なる人に同じ契約、教えを与えているのです。最初から、福音は1つ、同じ事が語られています。

出エジプト19:3 さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、
19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、

あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。

19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き

従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民に

まさって、わたしの宝となるであろう。

全地はわたしの所有だからである。

19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

 

ここに記されているのは、ミックス、混合の群衆です。

イスラエルと異邦人!共に居て、神は異邦人とイスラエルに対して語っているのです。

考えてみてください。ここに書かれている事は、私達一人一人

イエシュアに出会った人達が、辿った経緯を、同様に表しているものなのです。

奴隷〜創造主=イスラエルの神を、生まれつき知らない状態で

生きていた。この世の価値観、この世の教え、基準、神を知らないまま生きていた。エデンから出た全ての人は同じ状態なのです。神の翼に乗せられて、奴隷状態から、運び出された事実は、

イエシュアを信じる人全て、同じく共通している事実、出来事なのです。神の翼に乗せられた、神との隔離された中から、取り

出されて運ばれてきた〜これは、人間の努力、業でできる事ではないのです。詰まり、贖い出された、救い出された=人の努力で

できない、神の一方的な力、業によりなされた事実が書いてあるのです。

だから、イエシュアが来られる前の、太古の人は、神の教えを生きたら、救われるなどというのはあり得ない事なのです。なぜなら、救いの方法は後にも先にも永遠に1つしかないからです。

そして、神はイエシュアが来られる前に生きた人を、放置などしていません。最初から、同じ事が教えられているのです。

同じ贖い、同じ救い、同じ助け、同じ許し、聖霊が与えられ

神を信じる人を、神は祝福されたのです。

そして、神に贖い出された人は、神の伝える生き方=契約を

ガードして生きるならば、地の塩、世の光としての役割をし、

聖なる民とされると、神が言われたのです。

贖い出された人=イエシュア、子羊の血により新しくされた人は、神が創造された元の人=第二のアダム=イエシュアと同じ

性質〜神の似姿の性質を生きる!その詳細が、モーセの五書に

書かれているものなのです。

花嫁になった後に、神の家に嫁いだ人は、神の家=天の家の家訓=婚姻契約に記された生き方の全てを渡され、神の国に生きる事の全てを教えられたのです。

これは異邦人も同じです。神の言葉を聞いた人々は、イスラエルと異邦人であった!という事実を忘れないで、読み続ける必要があります。

クリスチャンが聖なる民、神の宮であると宣言するなら、その

定義は、モーセの五書に記されているもの以外に無い!という事実に気がついて読んでください。

聖なる民、天の祭司、神の宮〜ただ字面を語らないで、それらは

どういう意味で、どう生きるのか?を知らないとならないのです。

神のものとされた=聖なる民となった人は、以前の生き方〜異教の神々の文化、教え、価値基準、衣食住を生きない!

それはあなたではありません!と神が教えているからです。

神の国に住まう人は、神が教える、本来の人間の生き方を教えられて生きる事、それが条件付きなのです!

花嫁にされた事は無条件、神の一方的な業です!でも、花嫁は、

花嫁として生きる、選択があるのです。花嫁が、婚家の生き方を生きない、その意味は、夫に対して違反した生き方、生まれつきの肉のまま、神の国の聖なる民の生き方が分からないまま、

土足で座敷に上がるような、神の家にふさわしくない、立ち居振る舞い、騾馬のように生きるというのは、そういう意味です。

もし〜あなたが、神の言われる事を選択して生きるなら、その

場合には、あなたは〜となる!聖なる民、宝となる!とあります。もし〜という、条件付きなのです。それは、人の選択、行動によるものだと書いてあります!

クリスチャンの世界でよく言われるのは、「信じたら、あれこれするという事ではないんですよ。」と教えています。

でもそれは、聖書=神が伝える事とは違う教えです。

この2点を、混同しているのです。

救われるための、努力は人はできません!この点だけが、あれこれして救われるのではないという事実と合致しています。

でも、贖い出された人、神の国の一員となった人、聖なる民とされた人達は、神に何を生きよと言われているのか、知る必要があるのです。

何もしなくて良いんです?人は毎秒何かを考えて、何かを選択して生きているのでしょう!何もしないなんて、ないのです。

人は、神が許された範囲、神に造られた人の性質通りの境界線の中であるならば、あれもあり、これもありなんでもできます。

エデンの園と同じ。この木以外から、全部食べてよい!という

言葉に集約されています。

レビ記11章に書かれた、人が食するために創造された動物

その中ならなんでも食べて良い。そして血を食してはならない。

自然に死んだ動物を食べない、そして屠殺の方法なども教えています。それらの神からのインストラクションがあります。

その中ならば、それらを、イタリアン、和食、アメリカン、メキシカン、韓国料理、中華、どんなお料理でも作って食べてOKです!そういう事なのです。

神が与えられた神の創造された世界〜安全圏=境界線の中で許されている事、その中ならば、全て自由に選択できる。

でも、境界線を越えたら危険!当たり前のことが、教えられているだけなのに、異邦人は神の教え=知恵を無視して、境界線を破る〜なんでもありだよ〜!そんなの、神が教えていることでは

ありません。危険地帯に飛び出して生きよ!と人に間違った事

神の教え、知恵に反した事を、言っているのに、丸で気が付かない、それは神の教えを理解していないからです。

賢い親は自分の生んだ子供に、何が人に生き方、安全であり、

危険か、何を食べて、何を食べてはだめか、何をしたら危ないのか、全部教えます。それを神が、神の創造された人〜神が神の

言葉で生み出した人に対して教えているのだ!ということが、

分からない限り、人間が勝手に考えて、自分の身を危険にさらしていても、気が付かないのです。神の伝える本物、知恵、賢い

安全な生き方の教えを捨てているからです。

 

救われたら、それ以降は、人のフィーリング〜これを聖霊に導かれてなどと、意味不明なことですり替えられていますが、

好き勝手に、肉の生まれのまま生きて良いなどと、神は教えていません。聖霊に導かれるとは、聖霊は神の言葉に反することなど

決して人に教えません!という基本中の基本を知ればよいのです。聖霊=言葉=神=イエシュアだからです。

だから、人が神の言葉に反することをする、それは聖霊=神=イエシュアに反することをすることであり、自分の性質に反する事をすることであることを、聖書=神の言葉から確認しないとならないのです。

神の言われたことに反することをした、アダムとハヴァに起きたこと、隔たり、死、本来の性質とは違うことを考え、違う生き方をし、神とお互いの本来の関係から飛び出て、真実がみえなくなる状態に陥ったのです。同じです。

 

人が作った宗教が伝える教えを生きよなどと、神は教えません。では、救われた人は何を生きると、神は教えていますか?

神の言葉で造られた人は、神に造られた性質=イエシュアの性質通りを生きる。神が創造された人間の生き方の全てが、モーセの五書に書いてあるのです。罪の定義の全部、聖別の定義の全部、人の生きる全て、衣食住に至るまで、人の生きる事に関する事は、全部神が教えている、それが婚姻契約=トラー=モーセの五書に記されているのです。

福音書以降には、人の生きる全ての詳細、教え、知恵、罪の定義の全部、聖別の定義も義の全ても書かれていません!

だから、福音書〜黙示録だけを読んでも、神の聖なる民〜花嫁となった人が、どう生きるのかの全部が分からないままになるのです。

神が伝える、神が定義する罪の全てが何か分からないから、罪〜

ズレたことをしても、気がつけないことが起きているのです。

神の教え、インストラクション、指導を捨てよ!と教えるのが、異邦人イエシュア信者の教えですが、それは2世紀以降に作られたローマ帝国の教え、初代カトリック教父達の勝手な肉の思想で作った「神の言葉」排除宣言なのです。

神が神の言葉を終わらせた、イエシュアが来た事で罪の定義を

撤廃した?それらは、聖書=神の言葉ではありません。

人間が、神の言葉を勝手に変えたのです!人間が、神のシャバットや記念日を人が編み出した宗教の教えが作った記念日に変えたのです!真実だけに目を向けて、神の言葉から何が本当か確かめれば、絶対に目から鱗が落ちます。今はなんでも良いなんて、

嘘です。聖書を完全に読み違えていても、それが正されないままなのです。でも、真実に気が付く〜聖霊に聞く=聖霊が書かれた

神の言葉を探る人は、必ず聖霊により真実に目覚めます。

眠った状態〜人の教えが聖書と思っている状態から、ハッと

神の言葉=聖霊により気が付かされる事が起きるからです。

 

神の口から語られている事を、よく考えてみれば分かります。

神の言葉は、全て丸ごとで、人が安全に、シャロームに、神の

創造された性質、デザイン通りを生きる事を教える、安全鎧兜

です。それを捨てる人は、危険に晒されても分からないままになります。すぐには死なない。でも、聖別を汚し、神の前に罪である事が何か分からず、そして、神との本来の関係に隔たりを作ってしまうものなのです。

 

続く