人は、知らなくても、元の姿、エッセンス〜要素〜性質を生きることを求めています。それは、神の性質に造られたからです。
でも、その求める物が、神のデザイン通りのもの〜本物の自分を
生きること、神との関係、人との本来の関係、それであることが
分からないので、代替えを求めてしまうものです。
それは、気が付かないまま、本当の自分探しをしている。
お金、安定、健康、名声、何かの分野に優れること、人より多くのものを得ること、色々とあると思います。
だから世の中、必死に自分の願いを求めて、追求して生きているのです。そして、人は人との深い関係、絆を求めてます。
一匹狼、孤独が好きだから、誰とも関わらないで生きているという人もいるのですが、でもそれは本来の性質と反するものです。
本来の性質ではない、正常ではない生き方。
本来の生き方、どう取り戻したらよいのか、神の教えを知る人
しか、それが分からない、知らないのです。
代替えや、本質の片鱗を知っていても、その大元が分からない。
神との関係も、どのように近づき、かかわり、取り戻すのか
神が言う通りにする以外、方法はないのです。
異邦人であるけれど、私も、神が伝えている本当の言葉の意味を知りたい!何を神が私に教えているのか知りたい、という飽くなき願望に引き寄せられて、神の言葉の探究を継続しています。
どんな人種に生まれようとも、私達は、永遠の中から神に
選び出されて、神のものとされている事を神が定めていた!
その事実からだけ考えれば良いのです。
神の言葉を知るとは、神が伝えているように神のみ顔〜実態を知ること、その全ては、本物の命、人生を生きる!ということがどういうことか、実践に繋げられるためのものであることを、神は人に教えています。
そして、壊れた世界に生まれた壊れて傷を受けた自分の修復は、新しくされた人を本当に知って生きること以外にないからです。
過去を振り返らないとは、過去の自分に留まり続けて、過去を生きないことです。新しい自分で今を生きる。
そして、神との本来の関係を、神が伝える通りの方法で築く、育むこと、これが神が伝えている、神の言葉、教えを求め続けよ
という理由なのです。
神の言葉は、「無学なものを賢くする」とある通り、教育とは、神の言葉を教え、神の言葉に生きて学ぶことそのものであることを、神が教えているからです。
これが、神の家族、群れの現実であるのだと分かります。
神の創造された家族、コミュニテイの生き方は聖書の中に記されています。神の教えは、個人に対してだけではなく、家族、コミュニテイ、国全体で神の創造された性質を生きることを教えているものです。
太古は、町囲みの中に皆が住んでいて、家族、親族、近所の人達が、皆共に住み、孤独になることもなく、子供達の安全を見守りながら、互いのシャロームをガードして生きていました。
皆が神の教え、トラーを知って生きていたのです。
それが、今の世界、異邦人の世界には、余りない。でも昔の日本には、少なからず知らないまま、トラーの性質のある側面を生きていた人たちがいるでしょう。
隣近所、皆が知り合いで、皆が助け合う共同体が存在していた。
でも、特に今の時代は、家族も核家族、家族自体もバラバラに生きて、家族の本質を破壊するような教えや、価値観を植え付けられてしまっていますから、益々神の言葉などからは、ほど遠く生きてしまうのです。
仕事、活動、宗教活動に忙しく、本来家族で過ごす時を奪われても、それが神の為などという意識になるのは、神の教えの本質からズレているからです。
今や、情報管理する大元、メデイアが、真実な情報ではなく、
騙し〜信じさせたいことを、事実を曲げて、偽情報を報道されています。そのことに少なからず気がついている人は、皆体験、
発見していると思います。嘘ばっかりというのは、事実が分かって初めて分かるものですが、流される情報が、正しいなどと考えてはならない事いやというほど、体験します。
悪を善、善を悪と言い、危険を安全、安全を危険と伝えている。
今のようなネット時代、情報が色々な所に流れて、調査できる
ような時代が来る以前は、新聞、ニュースで流れる情報は絶対
真実であると、思わされて来ました。でも、そうでは無い事、
しかも歴史事実も、誰かの都合、思想により曲げられて作り話を盛り込まれていたり、どこまで信ぴょう性があるのか、分からないものも多くあるのです。
聖書に代表で出てくる人たち、ノアや、アヴラハム、ダビデ王や預言者達、そして無名の残りの民達。神の教え=トラーを聞いて、生きて、後世にずっと本物の福音を伝達し続けた人たちを、神はどの時代にも、確実に確保しているのです。
そうでなければ、神の言葉は、神の意図通りに伝達されず、
人間の教えの混ざった宗教だけが、伝えられ続けてしまうからです。
長い年月、多分2000年近く、神殿崩壊前後から、パウロが
書簡に書いていた通り、神の言葉とは違う思想を、最初から放り込む、偽教師の教えは存在していたことが、記されています。
その偽教師は、人を騙そうと考えて、神の言葉とはズレた教えをしていたのではないのです。ユダヤ人の世界での、当時の「先祖の伝統の言い伝え、律法の戒め」口頭で伝えられていた、彼らが
考える神の言葉の解釈も、神の意図を正しく把握しなければ、
別物の教え、ルールに変形していたことが書かれているのです。
そして、2本の箸の先端をちょっとズレせば、果ては360度
ズレるように、神の教えとは違う思想を混ぜると、純粋ではない宗教の教えに変身し続けていくのです。
聖書ではない、聖書には書いてもない教え、記念日、宗教文化の教えや習わし〜それらは聖書でない!神の教え、仰せでもない。という単純な事実に気がつけないのは、脳回路が、別の教えで
がっちり固められているから、人の思想からしか、聖書を考えられないからです。人の思想〜神学の教え、誰かの思想を土台に、聖書を読んでいるということにも、気がついていないと思います。そして、聖書に書かれている事実が見えない、見逃しているからです。
私たち異邦人は、昇天以降、キリストを伝える先駆者になったと思っていて、その人達が間違った教えなどするはずない、聖書ではない事を伝えるはずなどない?
全て純粋な神の言葉だけを教えて、信じて、生きている!と思い込んでいるのです。でも、聖書に戻れば、どれ程人が作った宗教の教えが、多数、深く深く入り込んでいるのです。
そして、神の言葉の方、教えの方、記念日を退けて生きているのですが、気がつけないのです。神の言葉が曲げられた事実に気がつけば、どんどん神の言葉が伝える真実が見えて来るのです。
私達は、「神の顔に別の顔を置いてはならない!置かない!」と
出エジプト20章の10の言葉の最初の項目で厳重に、神に警告されています。
そして、「神の名をみだりに唱えない!」とは、
イエシュア、イスラエルの神ではない神像、実態を人に、神の国の民の代表として表明し、伝えてはならない!という意味です。
それを私は知らないまま、ずっとやっていました。
でも、聖書ではない嘘に気がつき、神の言葉の真実に気がついたら、もう2度と嘘には戻れないし、戻る意味がない、戻ってはならない。自分の信じている事で、行動で、神の名=実態を、大衆に正しく伝えず、神の名を汚し、別物を生きることはできなくなるのです。
終わりの時に、元に戻る。神の言葉〜太古から伝えられた同じ
トラー=神の教え=福音が伝えられるようになり、そして、
それから次の世代は、神の言葉=トラーを決して忘れることがないようになる!と預言されています。
ユダヤ人も、1世紀以上に今、イエシュアに出会っています。
イスラエルにいる、世界にいるラビは、イエシュアを信じてます!などと言ったら殺されてしまいます。でも、イエシュア〜
救い主が直接彼らに現れてしまっているのです。
きっとパウロにイエシュアが現れた時のように、本物のイエシュアに直接出会ってしまったら、それがタナック〜モーセ、預言書、諸書に記された、約束のメシアであることは、否む余地がなくなるのです。
たとえ、肉眼で肉声で、直接イエシュアに出会うような体験を
しなくても、人の奥底の深くでイエシュアがタナック〜トラー、預言書、諸書に記されたユダヤ人が待っている本物の救い主であると確信してしまえば、その事実は否めなくなるのです。生まれ出ようとしているものを、誰も止められないのと同じです。
私達、イエシュアに出会った一人一人も、目に見えない神に、
自分の存在が出会い、深いところ、頭脳でイエシュアを認識したのです。目に見えない世界を、見えるが如くに体験し、出会う。
私達異邦人が、イエシュアがイスラエルの神であることを
知ったように、あるユダヤ人がメシアが分からない、見えていないくても、イエシュアが約束の救い主であることに気がつける
同じなのです。
ユダヤ人が、タナックに記されたメシアに気がつけない事に、
悪い意味で貢献している1つの大きな間違った教えは、クリスチャンの世界で語られる、「歪められたイスラエルの神像、聖書観=神の言葉」が、彼らにイエシュアと出会う大きな壁、つまづきの岩、悪い影響を大いに与え続けている事に、異邦人は気が付かないとならないのです。
クリスチャンの語るイスラエルの神、イエシュア、神の言葉は、
タナック〜聖書に書かれている本当のイスラエルの神が伝える
神像、神の言葉、メシアとは異なるものを語り続けているからです。
イエシュアを愛するというならば、言葉で、行動で、全てで
神の真実を表して生きたいでしょう。聖書に記されている、
イスラエルの神=イエシュア=神の言葉を、正しく人に
伝えていない!という事実を知らないとならないのです。
偽物の教え、イスラエルの神に属さない人の教え=宗教の教えで、本物のイエシュアの実態を覆い隠したり、偽証はできないのです。
これから書く内容は、異邦人クリスチャンの世界で語られている
聖書の解説、得にイスラエルと異邦人は別物の群れ、グループであると誤解している事、そして、様々に誤解されて解説されている聖書箇所を、再び検証したいと思っております。
神が時代ごとに、神の性質を変える、神の言葉を変える、そして神の家族はイスラエルと異邦人として分かれている。
神の1つの家族が分裂している!!と考えている時点で、それは人の思想、肉の目、聖書=神の言葉で伝えている事実に基づき
考えていないズレた場所で、別の思想で神の言葉を考えている!ということにまず、気が付く必要あります。
神の言葉は、人種により、個人により、人の意見により、変わるものではない、時代が経過したら変わる!という、異邦人=
異教徒=西洋哲学思想で、考えている限り、聖書に書かれている事実を曲げ続けて、人に神の言葉とは違う内容を伝え続けてしまう、ズレ=罪をし続けてしまうことに気がついてください。
神の言葉を人間が否定する行為は、神の伝える罪の定義を人間が
勝手に廃止している事であり、死に匹敵する行為であると、神は
人に教えているのです。だから、そのような行為をする人は、天の国で一番意味のない、神の前に無価値な存在、小さい存在になるとイエシュアも警告しているのです。それを、無法を働くもの
とも警告している、同じ警告です。マタイ5:17-20
無法〜神のトラーを捨てて生きることだからです。
イエシュアが語る本当の意味、事実を知った人から、既存で主流の歪んだ神像、聖書観を伝えることをやめて、神が伝える通りの
イスラエルの神、イエシュア、神の言葉の事実を伝え始めれば
良いのです。
人の伝言を、他者へ伝えるならば、伝言を託した人の意図通りに
他者へ伝える義務、責任があることを決して忘れてはならないのです。
ユダヤ人=イスラエルと異邦人が、別物のグループ=群れで
種類が違う神の教えを生きるという、異邦人思想の神話が嘘であることの証明は、聖書からできます。
それを説明していきたいと、思います。
イスラエルとは、神の大家族の代表名=苗字であり、異邦人は
同じイスラエルの神=イエシュアを通して父の元に戻ったら
誰でも、この1つの同じイスラエルの大家族の一員となるのです。
日本人で、例えば田中さんという名前でも、日本人と言われた
田中さんと呼ばれなくても、自分であると分かるように、
イスラエルという名前は、イスラエルの神の名を代表している
その下に全ての聖徒=永遠の中から、神の中に居て既に神に聖別され、神に選ばれている人たちのことである事実だけに基づいて、考えないとならないのです。
聖書に書いてあることを、たくさん見逃して読んでいるのは
別の脳回路の枝=人の思想という枝を通して、考えているから
見えないだけなのです。
続く