クリスチャンの世界で語られる教えは、ある部分は真実でも、
神の言葉の基本的な土台、神の言葉、教えに関しては、聖書
ではなく人の思想を土台に語っているものです。
神の言葉、終わりありき!異邦人には関係のない教えだ〜
一時的な教え、古代は、神の律法で、人は義とされた?
トラーとは、神の言葉、教え、インストラクションという意味であるのに、律法などという不適切な言葉で、「トラー=教え、
インストラクション」というヘブライ語を翻訳してしまって、
多くの人々に、聖書〜神の言葉に関する逸脱した不適切な固定概念を受け付け続けている、迷惑な邪魔な不適切な翻訳用語なのです。
神の教えや指導、指示、インストラクションを指して、聖書では
一度も、「律法」などという言葉は使われていないのです。
そのように、聖書に書いてあるヘブライ語を、不適切な翻訳や、聖書にはない造語の教会という、造語翻訳の言葉もそうですが、人の思想で語る聖書解説のおかげで、2000年近くも、
クリスチャンの世界の教えは、宗教の教え〜人が考えた教えが、神の言葉の中に紛れ込み、混入したのです。
ジーザスの血潮で罪許されたという点は、聖書の事実であっても、大部分の箇所は、聖書ではない教え〜人間が作った宗教の教えが混入し、それらがあたかも、聖書の如くに語られてしまっているのです。
聖書、神の言葉を語る土台が、人の思想だからです。
神の言葉が廃れた〜、異邦人には関係ない教え、古代は律法を
一時的に生きて許された、ユダヤ人だけの教えや、記念日などという思想は、聖書とは全く関係のない、異邦人教師たちが編み出した教えです。
日曜礼拝、イースター クリスマス、聖餐式、それらは、
神の教えや記念日を、異邦人西洋人が作った宗教の思想で変形した人間が作った記念日や教えです。聖餐式は、過越の祭りを祝って、その中で行われる種無しパンと、4つの杯の儀式なのです。
過越の祭りを祝うたびに、皆で思い出してとイエシュアが遺言されたでしょう。
聖書には、それらの記念日〜日曜礼拝、イースター、クリスマスの祝い日が存在する記録はゼロ。西洋宗教の祭りを祝ったりしている記録もゼロ!そんな祭りも、実際存在もしない、聖書には
書いてない。第7日目以外の、他の日が昇天以降、シャバットになったなどとも、聖書には書いてありません!
ぜひ、ご自分で聖書の記述を、確かめて下さい。
そして、人間が主体で、自由に神の創造された記念日を別の日に変更して良いなど、パウロはそんな神の言葉に対する罪、違反を人に教えていません。ローマ14:5
パウロは、1コリント6:12で、誰も日曜礼拝をシャバットとして祝ってもいないし、その箇所は、日曜礼拝を教えている記事などでもありません。
第一、神の教えを知るユダヤ人、ましてやパウロはトラー学者であり、使徒21章で、パウロは、モーセの五書を忠実に生きている、教えている事実を公に、エルサレムの神殿で、大々的に世間に対して証明までしているのですから。聖書の記述を無視しないで、考えれば、真実の点と点が繋がり、はっきり真実が見えてきます。
シャバットを汚す、破る、イコール神に対して罪を犯すという
理解が異邦人にはありません。
パウロは、シャバットで金集め〜神の教えに違反することなど人に教えたり、罪を犯すように人に指導などしません!パウロは、日曜日がシャバット=安息日=第7日目ではないから、それぞれが、それぞれの家で、エルサレム拠点の人たちを助けるための
資金を手元に集めておいてと、話しているです。
トラーを知る人たちは、シャバットや祭り、モアデイムにビジネスやお金、商売やショッピングの話などしません。
クリスチャンは、西洋宗教の日曜礼拝で、係の人が回って来て、席上献金をする空想して、パウロの書簡を読み込みしていることに、気づいて下さい。
自分たちの宗教の習わし、実践、礼拝式を考えているから、
パウロの書いている内容を読み違えてしまうのです。
1世紀の、ヘブライの世界、モーセの五書を皆が生きている世界の話なのです。誰も、シャバットは日曜日に変更!なんて、
考えてもいない、そんなこと誰も言わない、実践もしていない。
聖書の基本〜神の前に、何が罪であると神は教えているのか?
神の教えが何であるのかが分からない異邦人が、勝手に神の言葉を変形して、自分たちの宗教の習わしで、聖書を読み込みしているだけです。イスラエルの神は、十戒にある、聖書の柱〜題目、どれを破っても罪であると教えているのです。
10の言葉、十戒と訳されていますが、それらは、聖書の教えの
中心、土台で、題目あり、モーセの五書全体で、それらの意味を解説しているのです。
神の言葉のどの箇所も違反する、逆らう、ずれるとは、神の言葉全体に違反することであると、神が教えているでしょう。
人間が勝手に、神の言葉=文字で記された教えを、変えていることに気がついて下さい。
西洋宗教の教えなど、聖書には、1つも書かれてなどいません。
トラーを知るユダヤ人や、聖書に書いてある事実を知って、悔い改め〜神の言葉に戻っている人には、それらの西洋宗教の教えが一体どう聞こえると思いますか?神が、神の言葉は永遠に真実であり変化しない、イスラエルの神の性質は途中で変化しない、
救いの内容も、救いの方法も、エデンの園から、永遠に同じという事実を聖書から把握する場合、それらの、西洋人が作った宗教の教えが、どう聞こえると思いますか?
英語の文章を日本人が書いて、「これは、ネーティヴの人には
一体どのように聞こえると思いますか?」という質問が、ありますが、英語が母国語ではない、余り馴染みがない人には、分からない感覚ですよね。言っていることが、おかしくても、変でも
母国語が英語ではない人には、何が変なのか、どう変に聞こえるのか、見分けられない、分からない。
そこまで難しくなくても、聖書とは違う事を唱えている教えは、
聖書に書いてある通りを知る人に取っては、進化論と同じように聞こえるのです。別の教え、仮説。
神の言葉の進化論説=嘘、人間が編み出した仮説です。
人間は猿から進化した〜これを、クリスチャンが聞いたら、どう反応しますか?神の創造、神が世界の全てを造られた事が創世記に書かれており、聖書の記述から神の創造を知ったのでしょう?そして、神の創造を神が伝える通りに信じる人は、全世界は神により創造された!人間は神の似姿に似せられて造られた、猿から進化などしてません!と、口で言わなくても、頭の中で、心の中で、そう呟きませんか?それと同じなのです。
神が創造の事実を伝えている。そして、創造主が、神の言葉と、神の性質は変化しないと、人に神の口から直接真実を伝えているのでしょう!?
神がこの世界を創造されたと言った、同じ神の言葉ではないのでしょうか?
それなのに、クリスチャンの世界では、神が伝えた真実とは真逆な事を言い続けているのに、全くその偽りに気がついていないではないですか。それが聖書の教えではない!という事に。
神の言葉も、神の性質も、神が伝える通りに全く変化しません。クリスチャンの世界の教えは、神の言葉と、神が別物に進化した「神の言葉と神の性質の進化論」を語っています。
それが、デイスペンセーション神学の本質、人の編み出した思想なのです。
それらの思想は、神の教え=言葉ではなく、単なる人の発想、
肉の目から神の言葉を歪めて曲げた違反の教理、教え、哲学なのです。
聖書=神の言葉の事実、現実ではないのに、人の編み出した神の言葉の進化論説、神の性質の進化論説が、異邦人世界には浸透してしまっているのです。
元に戻る。神の言葉に戻らない限り、半分嘘、半分真実の人造宗教の教えは、展開され続けて行くのです。
異邦人の世界では、イスラエルに住む人たちより、神の教え、
契約の生き方に遠く離れている環境なので、体感することが本当に少ないです。肌で感じる体験がない。
それは、イスラエルに住んでいないからです。
聖書に書かれた神の国、イスラエルという場所に住み、そして、神の言葉を実践する世界で唯一神が選んだ国と、選んだ国民が
生きている。もちろん、神のことなんて考えて生きていない、
ユダヤ人も大勢います。
イスラエルにも、世界に散ったユダヤ人も。
だから問題なのでしょう。契約を受け取った民が、別物の生き方をしているから、同じく他の人々も、困難を通過するのです。
でも、歴史の中で、イスラエルも異教の神々の地に、異教の文化異教の王の国へ捕囚として、住んでいたことがあるのです。
その中で、預言者を通して、神の教えに根付いて生きることを、
神から預言者に言葉を託されて、励まされたのです。預言書は、神から預かった言葉を、預言者が書いてたものです。その内容は、モーセの五書に書かれた教え=トラー=婚姻契約の生き方に戻りなさい!これが、預言書のテーマなのです。
預言書は、未来預言が、ズラズラと中心に書かれていると考えているでしょう?
預言者の役割は、今を神の言葉に根付いて生きることに戻れ!という、神の言葉の託宣を伝える、それが預言者の役割なのです。
これに尽きるのです。
イザヤや、エレミヤを読めば、それがよく分かります。
契約の生き方を破る〜罪に陥ることだからです。異邦人とて同じです。ユダヤ人イエシュアを通して救われた人は、もれなく同じイスラエルの神の大家族の一員、同じ契約に加えられた!と
書かれているからです。
イスラエルに住めば、シャバットが来れば、その日の昼間には、街中全体が、シャバットで止まる準備をしているので、それを
肌で、雰囲気で体感できます。金曜日の3時には、ロシア人が
経営する店以外、大型スーパーや小さい店も皆閉まります。
だから、それまでに買い物をするお客さんで、スーパーなどが
混雑します。そして、レジでも「シャバット シャローム」と
皆が挨拶を交わし、これから、シャバットを迎えるのだな〜と、ワクワクした気持ちになる、楽しいひとときが、イスラエルには、あります。世界中でたった1つの国、場所。他の国ではそれを体験できませんよね。日本でも。
イスラエルでは、金曜日はお休みの人もいるし、学校も早く終わる。昼間から、ゆっくり外のカフェの座ってお茶を飲んだり、
買い物帰りに座って談笑したり、又は、お家へ急いで帰って、
シャバットの宴の準備に忙しい人たちもいたりして、街の道路は割と空いています。
夕暮れには、家々の庭や家の中から、家族やお客さんの楽しい声が聞こえたり、お料理や、ハーラーのパンが焼けるいい匂いが漂ってくる。子供達が遊ぶ声がしたり。夕食が終われば、夜散歩に出たり、子供達も外で遊んだりしている。
日本で言えば、大晦日を迎える、お正月を迎える準備をする時、皆が同じ準備をするので、新しい年を迎えるのだな〜と、体感できるでしょう?それです。
そして、仮庵の祭りは、一年で一番盛大に祝う祭りなので、その準備も盛大です。大贖罪日が終わると同時に、仮庵までの5日間に、家のベランダや庭や、公共の場所に、仮庵を皆が建て始める作業をするのです。仮庵が、街のあちらこちらに、出現し始めます。
それはそれは、楽しい光景なのです。ワクワクします。
そして、街中には、ルラブと言われる、3つの植物の束が売られ始めて、祭りが来る〜!と体感します。本当に楽しい雰囲気で、嬉しい神が創造された記念日、祭りの喜びの季節を、五感で体感できる時期がイスラエルにはあるのです。あらゆる店で、仮庵にちなんだ品物が売られるようになる、それがイスラエルの仮庵の前の街の様子です。
それは、本当に楽しいものです。クリスチャンたちも、仮庵の祭りの時に、イスラエルの訪れるツアーがありますが、大きな体育館みたいな場所に集ってそれが仮庵と思ってしまいますが、仮庵の雰囲気はそこでは、本当には味わえないです。
家庭で、小さな仮庵、そして、友人、親戚の家々に毎日順番に巡り集い、楽しい交わりや、晩餐を7日間するのです。
それが仮庵の醍醐味だからです。2014年と、2015年の仮庵の祭りを、イスラエルの友人宅で過ごして、本当に素晴らしい体験をしました。そのおかげで、神の創造された祭りの意味を
もっと理解し、そしてそれ以降は、自分の住んでいる国、家の中で仮庵を作り、祝う事を始めたのです。過越の祭りも同様です。それまでは、神の祭りの意味、祝い方も、よく分からないままでした。シャバットや祭りの話をすると、こう言われます。
「土曜日働いているんだよね。どうすればいいの?」と。
そうですね。イスラエルだって、古代神殿がある時代も、祭司達は、交代制で神殿で、シャバットの勤務があったのです。
医療や、発電所、その他、人が二十四時間常駐しないとならない職場もあるでしょう。イスラエルも同じです。イスラエルの場合は、いつもシャバットに同じ人が勤務ということには、しないので、交代制ですが、異邦人の世界は違います。
でも、飲食店やホテル、その他、殆どの人が土日休みや、在宅勤務などです。もしシャバットや祭りに勤務でも、神はその事情をご存じです。でも、神の聖日、その日に24時間働くわけではないでしょう。その日を、たとえ丸々止まり、祝うことが、可能でなくても、その日のある時間を取り分けて、神の聖別された日として、祝うことは可能です。これは、又別のトピックなので、
ここでは書きません。
続く