創造主、イスラエルの神は、全世界を物理的に創造されました。
そして、神は天の万象を、神のモアデイム=アポイントメントの日、定めの日の「印」のために創造されたと人に伝えています。
神が人に伝えている!この事実から、目を逸せないで下さい。
聖書を、永遠普遍の神の言葉、教えであると口では言いながら
実際には、そう信じて、神の言葉を神が言われる通りに取り扱わない場合には、神が伝えることを、素通りして、神の言うことを実際にはちゃんと聞いていない行為に陥ります。
それが、イスラエルのたどったズレ=罪=神が伝える生き方、
契約にある生き方からズレて、罪に陥った路線、末路なのです。
契約の生き方〜神の言葉から、外れるとは、罪に陥ること!
この理解を、しっかりしないとならないのです。
神が創造された人〜神が贖い出し、聖別された人に、神はもれなく同じ言葉で、同じ教えを教えています。
イスラエルの神は人種別に、別の契約=神の言葉=2種類の聖書など与えていないからです。
神は、「時」を創造されました。神は、創造物を、神の目的通りに機能するように、分たれたました。
「季節」と訳される言葉は、「モアデイム」、神が定められた特別な時、「聖日」を表しているヘブライ語です。
神は、神のモアデイムを、神が聖別され、その日に神の子ら全てを呼び出し、特別な出会いをすると、人に伝えています。
聖別とは、神の特別な目的のために取り分け、他のものと区別している、境界線を敷いているという意味です。
私達、神のものとされた人達は、時代に、人種に関わらず、
もれなく、この世のものと、境界線が敷かれていると神が教えています。
それが「割礼」を通しても、教えられているものなのです。
新しくされた人は、肉の包皮を切り離されている。
以前の人と、贖われた人の間に、境界線が付けられている。
この世の人々〜異教の神々につながる人達とは、違う生き方を
神から与えられている。
イエシュアを通して、神の元に戻った人達は、この世に在って、この世のものではない。なぜなら、この世〜朽ちる体に今居ても神は私達のこの仮庵〜朽ちる肉の体の中に、既に共に住まい、
私達は、この肉の体で、きよめられ、新しくされて聖霊=イエシュアが住まう神の宮であり、そして、私達も神の中に存在していると、不思議なことを、神は人に伝えています。
ヨハネ17章の、イエシュアの祈りの中でも、そのことが語られています。パウロもよく使ったタナックに記されているヘブライ語ですが、「主に在って」とは中、IN、「ブ」というヘブライ語、「神の中に」という意味です。神の中に、神も人の中に住まう
事実を、ずっと最初から、教えているのです。顕著に五感で体験できる、神の臨在、イエシュアの業、その他福音を網羅する全ての教えが、神の移動式ミシュカンと、固定式神殿の中で教えられていた一連の儀式やシャバット、祭りでの出来事なのです。
それが、モーセの五書に書かれているのです。
世界の全ては、神の言葉で、創造されたと言われました。
神が言われた通りに、その実態が物理的に世界中に現れ出ました。不思議ですね。でも、神の言葉は、DNA、設計図、それを
神が直接語ると、神が語った通りの物体、創造物が現れ出た。
考えれば、考える程、不思議です。
神は、全てを無から有に造ることができる。神の言葉〜神の実態が現れ出る、神=言葉だからです。
神の言葉=実態そのもの、神ご自身そのもの、神の考えそのもので、世界が現れ、神の言葉により、人は造られ、神の言葉により生きると、神が教えています。
神は神の子らに、さまざまな、外側から見て分かる「印」を与えています。
イスラエルの神との関係に入った人達に、もれなく与えられた「印」は、神のモアデイム、「シャバット」です。
神は契約を交わした時に、必ず「印」を与えています。そして、
契りを交す時に、天と地が証人となる。そして、契約には祝宴が伴う。親しくなった証拠に、一緒に祝宴をする。
これは、古代中近東に存在した、契約、条約と同じやり方です。
しかも、動物の血が流されているでしょう。アヴラハムの契約は二つに裂いた動物たちを両側に並べて、その間を通った。
その儀式の意味は、この契約を破るならば、この動物のように
なってしまうことを、認めていますという、絶対的な誓いなのです。そして、アヴラハムの契約は、神お一人がこの裂かれた動物の間を、通ったのです。アヴラハムは、眠りに落とされた。
この意味は、信仰により、義とされる、そしてアヴラハムが
全世界の国民の父となり、同じ贖い、救いの事実、祝福が全世界の人に与えられる、それは、神一方からの、無償の代価による
ギフト〜贈り物だからです。だから、クリスチャンの世界で語られる、古代の人は、律法を行い義とされたという人造仮説は、
聖書の教えではないことが分かるでしょう。そして、受け取った
贖い〜義とされたことは、取り上げられない。代々子孫も、同じように信仰により、同じ贖い、救い〜義とされることを受け取れる。これが、アヴラハムが代表として受け取った、贖い、救いの
保証、約束の契約です。
誰一人、何かをしたから、神から義とされるなんて、一体聖書のどこに書いてありますか?
これが、聖書を勝手な読み込みをしている行為なのです。
神に義とされた人〜新しくされた人は、神の伝える義の実態=
イエシュアの性質を生きるのでしょう?それを、クリスチャンは
神の言葉を生きる、イコール律法主義だと、ローマ宗教、教師の語る教えを、意味を考えないまま、復唱、吹聴しているのです。
そして、シナイ山で、奴隷から脱出し、神の聖なる民〜花嫁と
正式になった人達、その代表がイスラエルですが、その中には
異邦人も混じっていました。異邦人もイスラエルの12部族に
加えられ、イスラエルとして、数えられていた事実を、聖書から
読み取ってください。だから、アバなる神は、イスラエルと、
そして、共に住まう異邦人〜外国人も共に神の教えを生きて、
シャバットを祝う!と教えているのでしょう。
しかも、家畜も、使用人も!と書いてあるでしょう。
クリスチャンの世界で語る思想、ユダヤ人と異邦人を分けて語る教えは、西洋教師の思想で、聖書とは違います。
西洋人らが語る、西洋人のための、西洋人により作られた西洋人のための宗教の教えであり、聖書=神の言葉ではありません。
創世記12章の、神がアヴラハムに語られた事を理解すれば、
デイスペンセーション神学や、置換神学がただの人の思想であることは、聖書に照らし合わせれば、はっきりその間違い=非聖書的思想に気がつけます。
神は人を1体、一つのアダマ=土から造られたのに、クリスチャンは、それを分裂したものとして、語り続ける。神は全ての神の子らを1つの家族として、1つイスラエルの神に、イエシュアを通して引き寄せて、1つ契約=教え=神が伝える生き方に戻る!という、壮大な修復プランを伝えているのに、人の思想は、神の計画を建てる助けではなく、歪めて壊すことをしているのです。分裂思想。
そして、1つ家族は、それぞれが思うところの、人間が勝手に
作った、別々の違う記念日など祝いません。
これこそが、分裂機能不全家族そのものでしょう?
イスラエルの神は、エハッド=1つ以上で全く1つである、
性質であり、人も一体と書いてあるのに、逆を唱えています。
宗教の作った記念日ではなく、イスラエルの子らは、神が呼び出して神が聖別された日=レビ記23章にある日を祝うと、神が
教えているのです。それを、しているのは、世界で、国全体としては、イスラエルだけでしょう。そして、世界に散ったユダヤ人と、今や聖書=神の言葉は完全で、変化しないと聖書の事実に気がつき目覚めた残りの民の異邦人たちも、神の記念日を同じように同じ時に世界中で祝っているのです。
そのような、終わりの時代が来たのです。
シャバットが神の子らの神が創造された特別な会見の日の、
中心です。
クリスチャンは、西洋教父達が作った宗教の教えを信じて、神の記念日は今はいつでも良いのだと、パウロのローマ14の言葉を
完全に誤解して、考えていますが、神は人間が作った記念日に
特別な聖日、祝宴を神の子らと共に設けるために、呼び出していません!交わりや集まりは、いつの日でも自由!でも、神が呼び出した、神が聖別されている日ではない日は、普通の日であり、
それぞれの人、群れが、それぞれの目的で集まっているだけの
普通の日であり、聖日、主の日ではありません。
その違いを、聖書から知っておく必要があります。
人は、神が造られて聖別された日ではない日を、聖日、主の日
などという、聖書とは違う偽証はしてはならないのからです。
日曜日も、クリスマスもハロウインも、イースターも聖日、主の日ではありません。それらは、ローマ・カトリック教が作って
決めた、彼ら独自、人間が聖別している日であり、神が聖別した日ではありません。シンプルな事実が聖書の記述で確かめれば
何が真実、本当か分かります。
神は呼び出している日はレビ記23章に記されているのに、
それらの神の呼び出し日=モアデイム=聖なる会合の日を、
異邦人教父、教師たちが、祝うことを禁じたこと、はっきりその事実を知れば、2世紀以降、クリスチャンたちがなぜ、聖書に
書いてある、1世紀、イエシュアや使徒やイエシュア信者、
異邦人もユダヤ人も皆祝っていた、シャバットや春、秋の神の
祭り、モアデイムを祝わなくなった本当の理由を知ることが
できます。
神は、神が創造されたモアデイムに人を呼び出して、集め、
そして特別な出会いの時を持つことを、約束して下さいました。
いつでも、どこでも神は共に居られる。でも普通の日々の中で、神が設けられた特別な日、祝宴の日があるのです。
私達の世界でも、同じですが、普通の日ではない、特別な祝いの日は、楽しみに心待ちにし、そのことをずっと考え、そして準備して、贈り物を用意したり、特別な装いや、食卓も普段とは違う
お料理を準備して豪華にし、時間とエネルギーを注ぐ。その準備過程の中で、その祝いの日の意味を考えたりするでしょう。
神の記念日も同じです。そして、神の記念日の全ては、福音の
全てを網羅し、イエシュアご自身の業、イエシュアを教えるものであり、皆で神がされた業を振り返り、考え、記念し、祝う時なのです。
神が唯一、私達、神の被造物に、人の生きる性質の全てを教えることができるお方です。それなのに、どうして、異邦人の世界では、神の言葉は、変化した〜終了〜などという思想を信じられるのか、その方が不思議です。
そして、聖書だけは、書いてある通りに読まない!そんな不思議な読み方を、クリスチャンはしているのです。不思議に、疑問に
思えば良いのです。私がイエシュアがメシアであると、聖書から知った後の最初の疑問は、どうして聖書に書いてあること〜詰まりそれは、第7日目の安息日=シャバットを、聖書に書いてあるのに、それを祝わわず、クリスチャンは日曜礼拝をやってるの?それが、牧師に対する最初に発した、私の疑問でした。
その疑問は、的を射る疑問であったのです。ビンゴ〜!
聖書だけに基づき、考えて下さい。神は人が理解出来る人間の
言語、神はヘブライ語を選び出しましたが、その言葉を通して、
神の深いところにある考えを、人に伝えて、教えています。
神の言葉を捨てる行為は、神が伝える教えの意味を理解しない
ことに導かれて行く、路線です。
教科書を捨てる人には、読まずにお手紙捨てる人には、その中に書かれたことが、何だか分からないままになります。神が伝え
ようとしていることを、自分は考えようともしない行為であることを、考えて下さい。神は人間ではなく、人は神を永遠をかけて知って行くのに、その手がかりの大半を捨てている、それが何を意味しているのか、一体何をしているのか、自分で考えれば、
分かります。
神が、神ご自身が発して人に伝えた永遠普遍であると教えたその言葉を破棄せよ〜などと、いつ言いましたか?それはエデンの園にいた、あの蛇の声でしょう?簡単に分かりませんか?
神から出たものではない〜神の言葉を神が破棄、終了、無用、
無効であるといつ神は言われましたか?考えれば、考える程、
人間の傲慢な神を踏み台にし、人の主張をする行為である、
人間至上主義、人間が神の座に座る行為だと分かりませんか?
神は、神ご自身が創造された記念日、人との特別な会見をして
下さる、定めの日を設けて下さっています。クリスチャンの世界では、律法の教えや記念日は、昇天以降終了したのだ、いや神が
神の教えや、神の記念日を終わらせたなどと考えていませんか?それらは、西洋教父たちの教えであり、神の教えではない事を、聖書から知って下さい。
あなたが、ユダ族のメシア〜王の王であるイエシュアを通して
イスラエルの神、アバの元に戻された人ならば、あなたもイスラエルと同じ婚姻契約に記された生き方に、加えられた事を知る必要があります。花嫁として、最低限、いや絶対に知らなくてはならない事を、クリスチャンの世界では教えられていないのです。
神はあなたを、神の子、イスラエルの大家族の他の人たちと同様に子として受け入れ、取り扱い、同じイスラエルの神の家族の
一員として下さり、関わって下さっています。
そして、同じ天の相続、祝福を継承させてくださったのです。
そして、イエシュアを信じるならば、イエシュアが毎週第7日目のシャバットにあなたを招待し、新月、春の4つの祭り、秋の3つの祭りの全てにあなたを招いて、そして特別な出会いをするために、神があなたが来るのをずっと待っていてくださるのです。
でも聖書に記された、神の口から直接伝えられているその招きを、知らないまま、今日まで来たのではないのでしょうか?
私も同じだったから、よく分かるのです。
聖書を、神の言葉を、正しく教えらなかった代償は大きいし、
何度も最初から本当のことが知りたかった!とアバに言い続けましたが、これも今では、意味があると、分かっています。
続く